親友の娘

2036/7/7
ヒロ38 紡15

 紡ちゃんは定期的に実家のマンションに帰って家の空気を入れ替えたり掃除をしたりしている。俺の都合がつけばついていくこともあるし、いとちゃんのご両親や奈津子さんが一緒に行くこともあるけれど、今日はひとりだと言っていた。
 愛された思い出ばかりの場所でひとり過ごしてなにを思うのだろう。涙するのかもしれない、懐かしむのかもしれない。いとしいひとがもうそこにはいなくても、部屋のそこここに気配を感じられるということは俺も経験があるから知っている。その空間にいることだけで満たされるものもある。
 夕方に帰ると言っていたはずの紡ちゃんは夕方と呼ぶにはまだ早い、おやつの時間に帰ってきた。鍵の開く音がしたかと思えばぱたぱたと鳴るスリッパが一目散にリビングへ向かってきて、ドアが大きく開かれる。
「ヒロ! 見て!」
「おかえり。……なにを?」
 俺はソファに座ったまま、家仕事用の眼鏡越しに紡ちゃんを見上げる。
 紡ちゃんの格好はいつもどおりだ。背中まで伸びた髪を結って、今日は動きやすいようにパンツルックで、大きなトートバッグを提げている。
「パパの部屋で見つけたの」
 紡ちゃんはそう言うと、バッグの中からクリアファイルを取り出して俺へ差し出した。
 素直に受け取ってからそこに視線を落とし、目をみはる。
 楽譜だった。メインのメロディと、音符に並走するひらがなの歌詞だけが手書きで書かれた楽譜。よく知っている癖のある字が紙面に踊ってまるでそこにコウジが息づいているかのようだ。
 紙の一番上、通常ならばタイトルが記載される部分にはたった二文字、「ヒロ」という記号みたいな書き文字が並んでいた。
 音符を追いかけながら頭の中でメロディを鳴らせば、聞いたことのない音楽が聞こえる。
「これ、知ってる?」
「……知らない」
 見たことがない。こんな歌を作っているなんて話すら聞いたこともない。
 ソロ曲を出すときはたいてい俺のほうからコウジに依頼して、コウジはいつも快く請けてくれた。作曲の依頼なんて他にも数え切れないほどあるはずなのにできあがる歌はいつだって紛れもなく俺の、俺だけの歌だった。
 新しい歌を持ってくるときコウジはいつもなんの前触れもなく突然楽譜を見せてきた。それで喜ばなかったことなんてないのに、俺が譜面を辿り終えるまでただじっと見つめて、どうかな? と反応を待つのだ。
「ねえ、もしもこれをわたしが」
 楽譜を凝視したままの俺の頭の上から声が聞こえる。
 紡ちゃんがなにを言おうとしているのか、聞かなくてもわかった。
 視線を上げる。紡ちゃんは、新しい歌を持ってきたときのコウジと同じ目をしている。
「わたしがフィニッシュさせたら歌ってくれる?」
「……できるの?」
「わたし、パパとママの子供だよ」
 紡ちゃんはわかりきったことを言った。彼女がコウジといとちゃんの子供であることが、今この瞬間、これまでにないほど大きな意味を持って表出する。
「気に入らなかったら、なかったことにしていいから」
 作曲をできるなんて話は聞いたことがないが、こんな状況になってみればそれは当然のことのように思えた。コウジが丈幸さんの姿から音楽に触れて育ってきたように、紡ちゃんのそばにはずっとコウジといとちゃんがいたのだ。
「お願い。やってもいい?」
「コウジのものは全部紡ちゃんのものだし、俺のものじゃない。俺の許可なんて取らなくていいんだよ」
「これはパパがヒロに作ったんだからヒロのものだよ。わたしが勝手にいじっちゃいけない」
 法的解釈の話はばっさりと否定されて、そのことになぜか胸のうちを強く揺さぶられたような気持ちになる。
 この未完成の歌がコウジと俺のあいだにあるものだと尊重してくれている、それは俺がコウジと出会ったときからずっと欲しかったものだった。
「ヒロ」
 彼の忘れ形見にこんなふうに言われて断ることがどうしてできよう。
「……いいよ」
「ありがとう」
 紡ちゃんはほっとしたように頬を緩める。
 礼を言わなければならないのは俺のほうだ。気に入らなかったら、と紡ちゃんは言ったけれど、きっと俺はこの新しい歌でステージに立つことになる。まだなにも聞いていないのにはっきりとそう確信していた。

 三年ぶりのソロ曲としてリリースした歌の作詞作曲のクレジットはコウジと紡ちゃんの連名で記載され、それを機に紡ちゃんには作曲の仕事が来るようになった。
 一曲、二曲と積み重なる実績はあっというまに増えてゆき、それは両親の威光ではない、紡ちゃん自身の実力であることの証明となった。

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