2032/12/24
ヒロ35
数ある季節イベントの中でもクリスマスは年間で一、二を争う仕事量になる。朝からオバレでテレビ出演、ラジオ、インターネット生配信、一曲だけの街頭ゲリラライブ。俺は夜のニュース番組にも声をかけてもらっていたからライブのあとはコウジとカヅキとは別れての行動になった。
夜はコウジは家族でディナー、カヅキは後輩たちのパーティーに呼ばれていると言っていた。みんな良いイブの夜になるといい。
生放送の番組の最後まで出演してから楽屋へ戻るころには時刻はイブからクリスマスに変わっていた。テレビ局のスタジオに窓はないし深夜も早朝もたくさんのスタッフが動いているからあまり時間の感覚がなくて、俺は壁にかかっていた時計でそれを認識する。
クリスマスになったからといって特別なことはなく、あとは帰って眠るだけだ。私服に着替え鞄を持とうとしたところで携帯端末に通知があることに気づいた。
コウジあたりからクリスマスのメッセージだろうかと思ったが、来ていたのはコウジからでもなければメッセージでもなかった。通知画面に残されていたのは大量の着信履歴で、発信者はすべてユウ。そんなに何度も電話をかけてくるなら単なる季節の挨拶ではなく用事があるのだろうけれどテキストメッセージは届いてない。
胸の奥がざわりと嫌な音を立てて震える。こんなことは今までになかった。
もしかしたらなにかいい知らせがあってどうしても話して伝えたいだけかもしれない、たとえばそう、世界規模の大きな仕事が決まったとか。そうであってほしい。
ディスプレイを数度タップして折り返すと呼び出し音はワンコールも鳴らないうちに途切れた。そんなに話したかったのか。
「もしもし、ユウ?」
『ヒロ!』
やっと繋がった、と絞り出すような声が端末の向こうから聞こえる。電話越しにも伝わってくるその雰囲気はどう頑張ってもいい知らせとは思えず、悪い予感がまた胸をざわつかせた。
「どうしたの? なにかあった?」
『ヒロ、仕事は』
「今日の分は終わったところだよ」
『……落ち着いて聞けよ』
そんなことを言うユウのほうこそちっとも落ち着いてなんかいないのがわかる。
ユウは俺にも聞こえるくらい大きく息を吸うと、それに釣り合わない小さな声で、けれどはっきりと言った。
『姉ちゃんとコウジが死んだ』
声が音になって聴覚に届く。
言葉の意味は身体を通り抜けて、どこかへと過ぎ去ってゆく。
心臓が止まったかのような錯覚がした。鼓動が動かないから血液が流れない、酸素が運ばれないから脳が仕事をしない。そんな状態で呼吸なんてできるはずがない。
壁の時計は秒針がないから時間が止まっているような気もした。なにがあるわけでもないのにきょろきょろと視線を動かしてしまうがここは俺ひとりに割り当てられた楽屋だから当然誰もいないし変わったものも見えない。
『ヒロ? 聞いてるか?』
「…………聞こえてるよ」
聞こえている。ユウの声は、隣にいるみたいにはっきりとわかる。
言葉が聞こえていても意味を理解できないことがあるのだといま知った。
「……ユウ、それは」
『冗談じゃないからな』
わかっている。ユウはそんな悪趣味な冗談を言うようなひとではない。
いっそ悪趣味な冗談を言うひとであってくればよかったのに。
「…………どうして……」
『車の事故。百パーセント相手の過失だ』
「そんな……」
少しずつ働き出した頭がユウの言葉を処理しても、心がまったく追いついてこない。
だってほんの数時間前まで一緒にいた。明日も、いや零時を回ったから今日か、一緒に取材を受ける予定だったはずだ。きっとコウジはクリスマスだからと言ってケーキやらオードブルやらを持ってくるから、俺は腹を空かせておかないといけない。
そういうなんでもないいつもと同じクリスマスの一日を過ごすはずだった。
「俺……俺はどうしたらいい? ユウは病院にいるのか? 俺も行くから教えてくれ」
『来なくていい』
「どうして!」
『会える姿じゃないから』
声を荒げた俺をたしなめるでもなく、ユウはただそう言った。そのことが、紛れもない現実なのだと示してくる。全身に冷や水を浴びせられたようで指先も足元も感覚がなくなってゆく。
「……じゃあユウに会うだけでいい。教えて」
病院へ行ったところでなにができるわけでもない。俺にとってプリズムスタァは天職でありこの立場を悔いたことなどないけれど、今だけはなぜ自分が医者でないのかと遅すぎる自問をしてしまう。
ユウはしばらく黙ったあとで病院の名前を呟いた。俺が引き下がるとは初めから考えてはいなかったのだろう。
俺はすぐに通話を切って楽屋を飛び出し、タクシー乗り場を目指してスタジオの廊下を走った。途中何人かの顔馴染みのスタッフとすれ違ったのはわかったけれど挨拶をする余裕なんてなかった。使い慣れた裏口から外へ出ると、ここ数日で急に冷え込んだ冬の空気が一気に全身を包んで体温を下げた。吐く息が白い。
タクシー乗り場には一台だけ車が停まっていた。他にタクシーに乗ろうとするひとはおらず、運転席で退屈そうに携帯電話をいじっていた運転手に向かってウインドウをノックするとすぐに後部座席のドアが開いて、俺は乗り込むのと行き先を告げるのを同時にやった。
走り出した車の速度と心臓の鼓動が競い合うように速くなる。俺はひとつ大きく呼吸をすると、覚束ない指先をなんとか動かして電話をかけた。もう寝ているかもしれないという予想に反し相手はワンコールで電話口に出て、そのことすらなにか見えない手の仕業のように感じる。
「カヅキ、今どこ?」
『家だけど。どうした?』
「すぐ来て」
返事を待たずに病院の名前を伝えるとカヅキの声がワントーン低くなった。
『なにかあったのか?』
「俺じゃない。コウジが、」
死んだ、と言おうとして、喉に石が詰まったように声が出なくて言えなかった。口に出してしまえばそれが決定打になって覆せなくなってしまいそうだった。
まだ確かめたわけでもない、ユウはああ言ってたけれど俺が着いたときには奇跡的に息を吹き返しているかもしれない。
「頼む。……カヅキ」
『わかった、すぐ行く』
通話を切る。話しているあいだにもタクシーはこんな時間ですらイルミネーションが輝く街の中、病院というクリスマスには似合わない場所へと近づいていた。
夜間入口に駆け込むと入ってすぐのところにベンチがあり、そのそばにユウが立っていた。すらりとした細身の長身が薄暗い照明の下に立っているのはどこか門番じみて、俺と病室とのあいだに見えないゲートがあるようだった。俺にはくぐれないゲートが。
「ユウ」
すぐに視線が合って、それだけでわかった。
切望していた奇跡は起きなかったらしい。ユウは静かに首を横に振った。
「ああ…………」
立ちつくす脚が崩れ落ちないのが不思議だった。全身が強張って、指先ひとつ動かない。
病院特有の薬やアルコールの匂いが全身にまとわりつく。この建物のどこかで動いているらしいなにかの機械の動作音が小さく低く唸り続けているのが聞こえてくる。
その他は沈黙。
なにも言う言葉を持たなかった。ユウもそうなのか、言わずにいるだけなのかはわからないが、いずれにしろ喋らなかった。
ドラマでよくあるこんな場面はたいていひどく取り乱すものだ。誰かに掴みかかったり物に当たったりわめいたり、そうやってわかりやすく動揺を表すのを俺も演技でやったことがある。
けれど実際こんな状況に置かれてみれば反応は真逆だった。摑みかかる腕も動かなければ、叫ぶ喉も震えない。
澱んだ空気を流動させるかのように入口の自動ドアが開いて、カーキのダウンジャケットを着た小柄な影が飛び込んできた。
「ヒロっ!」
カヅキの声が鋭く届く。彼はまっすぐに俺のほうへと駆け寄って、立ち止まった。
「ユウ」
驚きと困惑の混じった声がそう呟く。そういえば病院に来てとしか伝えなかったからカヅキはユウがいることを知らなかったのか。
「コウジは?」
カヅキは呆然と突っ立ったままの俺とユウの顔を交互に見てからユウに訊いた。さすが付き合いが長いだけのことはある、判断が速く正確だ。
「……死んだ。姉ちゃんも」
「な……」
カヅキはまた俺を見る。そんな目で見られてもどうにもできない。
「……なんで……」
「交通事故。……くそっ」
吐き捨てたユウの声が長い廊下に反響して消えた。カヅキも息を飲んでそれきり沈黙し、なにかの機械の音がまた聞こえ始める。その音を聞きたいわけではないのにほかの音がしないから耳が拾ってしまうのだった。
カヅキが会話を強引につなげるようにまた口を開いた。
「コウジはどこだ? 会えるのか?」
「……ひどい事故だったんだ」
ユウが遠回しに否定する。ひどい事故、なんて想像するだけで気分が悪くなるのに、コウジがその当事者だと思うとそれ以上考えるのを拒否するかのように頭の中がぐらぐらと不安定になった。
俺たちは皆、会話の仕方を忘れてしまった。
救急車のサイレンが近づいて、一番大きな音で近くに停まる。誰か別の急患が来たらしい。自動ドアがまた開いてストレッチャーががらがらと車輪の音を鳴らしている。
クリスマスだってひとは怪我をするし、病気になるし、事故も起きるし、死んでゆく。この場所に特別な日なんてないのだ。たまたま今日がクリスマスだっただけで。
ユウは固まっていたのをほぐすように足を少し動かした。ブーツの似合う細い足が病院の廊下に踵を鳴らす。
「じゃあ、おれは戻るよ」
「病室?」
「紡がいるから」
ユウはそう言って顎先を廊下の奥へ軽く向けた。そこで初めて、俺がコウジの家族のことを今の今まで失念していたことに気づかされて愕然とする。
コウジといとちゃんには結婚してすぐにできた娘がいる。親もいる。彼らは俺と同じように、あるいは俺なんかよりずっと深く傷ついているだろうに、俺はその存在にすら気を回すことができていなかったのだ。
「……紡ちゃんは、無事……?」
恐る恐る尋ねるとユウは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「怪我はあるけどな。──対向車が正面から突っ込んできたんだ。紡は後部座席にいたから助かった」
「そう、か……」
よかった、と言いかけて、しかし声にはならなかった。
よかったのだろうか。両親を事故で喪って、ひとり生き残って、紡ちゃんはそれを喜ぶのだろうか。果たしてこれは祝福される出来事なのか。
「ユウ、紡ちゃんに、」
伝言を託そうとしてもふさわしい言葉がわからない。
生まれてくる前から知っている子だ。俺にとっては親戚の子供のような感覚でいるし──親戚なんていたことがないけれど──年長者としてなにか言えるはずだと必死に頭を働かせても、脳のあるはずの場所が空洞になってしまったかのようになにも掴み取れなかった。
「……いや、なんでもない」
俺は幼いころ祈った神様にこうべを垂れ懺悔するような気持ちでたったそれだけを言った。いま他にできることなんて、ひとつもなかった。
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