fool’s lip

気持ち的には攻めと攻め。もちろん付き合ってない

 マンションのエントランスの自動ドアをくぐり抜けるとまっすぐにエレベーターに向かう。夜も更けた時刻、幸いというべきか他に乗ってくる住人はおらずその狭い空間にいるのはコウジとヒロのふたりきりで、ヒロは黙したままエレベーターの階数表示が二桁に変わるのをじっと見つめた。
 ヒロの斜め後ろにいるコウジがバッグからキーケースを取り出して、ちゃり、とささやかな金属音が鳴った。音楽には程遠い。
 指定階で止まったエレベーターを降り、廊下にふたりぶんの靴音を響かせる。コウジの部屋はこのフロアの一番奥にある。コウジがまるで自分の家であるかのようにヒロのアパートへ通っていたように、今コウジがひとり暮らししている家もヒロにとって行き慣れた場所だ。
 コウジは二箇所の鍵を開けるとドアを開けた。
「どうぞ」
「ありがと」
 促されるままヒロが先に家に上がる。人感センサーで灯った明かりが玄関を照らして、二組のスリッパが揃えられているのが見えた。
 今夜ヒロが来ることはあらかじめ約束していた。ヒロとしては裸足でもまったく気にしないのだけれど。
 ヒロは用意されていたスリッパを履くと振り返った。視線を足元へ落として革靴を脱ごうとしているコウジの頭のてっぺんの双葉がふわふわと揺れるのが見える。自分の家で、連れてきたのはヒロで、警戒などするはずのないコウジの肩をおもむろに掴んで押すと、彼は簡単によろめいて背中を壁につけた。
「うわっ、ヒロ、」
 素直に驚いてぱちりと瞬きをするコウジの顔はいつもより幼く見える。ヒロは肩を掴んだ手はそのまま、もう片方の手でコウジの頬に触れた。指先が耳の裏を掠めるとコウジはくすぐったそうに身をよじったが、ヒロを離させはしなかった。
「もう、なに、……っ」
 放っておけばまだなにか喋りそうだった唇にキスをする。外から帰ってきたばかりの唇は冷たい。そう感じるということは、たぶんヒロのほうが少しだけ体温が高いのだろう。
 普段はにこにこと微笑んでいることの多いコウジの瞳がめいっぱいに見開いてヒロを見ている。ヒロのほうは目を細めて返してやった。意地悪そうな笑い方は最近カメラの前で求められることの増えた表情だが、コウジにとっては見飽きたものかもしれない。
 これはさすがに度が過ぎているだろうかと思いながら、そのぎりぎりのラインを探るようにヒロが舌を伸ばすとコウジは閉じていた歯のあいだに隙間を作ってヒロを迎え入れた。今度はヒロが驚く番で、仕返しだと伝えるようにコウジの歯がヒロの舌をあわく噛む。
「んん……!」
 思わず身を引きそうになったヒロの背中と後頭部にコウジの手が回って遮られる。コウジの大きな手のひらはヒロの小さな後頭部を閉じ込めるのにじゅうぶんで、舌を引き抜いても離れたのはそれだけで視界は相手の顔で埋め尽くされている。
「コウ、ジ……っ」
「……先にやったのはヒロのほうでしょ」
 唇は触れ合ったまま、コウジの平坦な声が、ヒロにだけ聞こえればいい大きさで囁く。普段は聞けない響きはそれだけで興奮を煽って、ヒロは唇の片端を上向けた。
「ん……」
 次に舌を差し出したのはふたり同時だった。舌先が触れて、絡めようとしたヒロに対してコウジは気まぐれに舌を引っ込める。逃すまいとそれを追いかければ今度はコウジがヒロの舌を強く吸った。じゅう、と露骨な音が立って背筋がぞくりと震える。これだけ密着していてコウジがそれに気づかないはずがなく、背中に回っていた彼の腕にぐっと力が込められていっそう抱き寄せられる姿勢になった。
「ふ……っ、あ、」
「ヒロ……」
 唇同士の隙間から唾液と一緒に声がこぼれ落ちる。キスしたぶんだけ脳が溶けてゆくようだった。
 びりびりと痺れるような快感が波のように寄せて、いつまでもこうして揺蕩っていたい気もしたが、現実にはいい加減頭がくらくらしてきた。鼻で呼吸をしているといっても苦しいものは苦しい。コウジの肩を掴んだままだった手でそこを何度か叩くとコウジは抗議に従って腕を解いた。
 少しだけ離れた顔のあいだでふたり同時に、は、と深く呼吸する。コウジの視線が自分の唇へ向けられていることに気づいてヒロはそこを唇で舐めとった。
「……こんな感じか?」
「まあ……いいんじゃない?」
 適当な返事をしたコウジの声はいっそ呆れている。コウジは手の甲で口元を雑に拭った。唇を濡らしていた唾液は拭えたが代わりに手が濡れたからあまり意味はなかった。
 映画のW主演が決まったのはつい数日前のことだ。先方から名指しのオファーが事務所へ届き、一応ふたりで相談してから返事をして、正式に書面を交わした。
 ゲイカップルの役のオファーが来たことをカヅキに報告すると彼は一瞬言葉に詰まったあと、へえ、と曖昧な相槌を打った。口にはしなくても、自分が蚊帳の外であることに安堵しているのがわかった。
「映画が完成したらもちろん観てくれるだろ?」
「一緒に観に行こうね」
「カヅキが真ん中な」
「なんでだよ!」
 とはいえ脚本もまだ上がっていないからクランクインは当分先になる。役作りにしてはずいぶんと気の早い話で、だからこれは冗談が許される日のひとつの悪戯だ。
「ヒロ」
「ん?」
「気持ちよかったよ」
 今度こそ靴を脱ぎながらコウジが平然と言った。金色の瞳は愉しげに細められている。これは嘘なんかではない。
 ヒロも同じ顔を返した。まったく同じ気持ちだったので。
「俺も」

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