親友の娘

2035/2/14
ヒロ37 紡14

 今年のバレンタインデーのプレゼントはブラウニーだった。なくてもいいよと言っているのに毎年律儀に作ってくれるのは、コウジと同じで料理をするのとひとを喜ばせるのがただ好きなのかもしれない。このままだとあと何度目かのバレンタインには昔コウジがくれたようなフォンダンショコラを誰に言われずとも作り出しそうだ。
 帰ってきてからそれを食べようとした俺を見て、紡ちゃんは合うんだよと言っていつもの紅茶を淹れてくれ、自分はお茶うけなしで正面に座った。
「はい。どうぞ」
 白い皿──これもコウジが持ってきたものだ──に盛りつけられたブラウニーの断面にはくるみがごろごろと顔を覗かせて、見るからに食べごたえがありそうだった。フォークで切り分けて口に運べば、濃厚なチョコレートと香ばしいくるみの苦さが溶け合って幸福の味になる。
「おいしい!」
 紡ちゃんの作るものがおいしくなかったことはない。正確に言えば少し失敗することもないわけではないけれど、俺がたまに作る料理だって少し失敗することもあるし、ふたりで作って少し失敗することもある。どれも最終的には笑って食べたのだから全部成功だ。
 俺の簡潔な言葉ににこにこと満足そうに微笑む姿からはこのブラウニーは大成功であることが伝わってくる──それにしても、それにしたって、普段より浮き足立っているような雰囲気があった。
「紡ちゃん、嬉しそうだね」
「えっ」
「なにかいいことがあった?」
「ええと……、あのね」
 言い淀んだ紡ちゃんは視線を俺の頭の向こうあたりへうろうろとさまよわせ、いま家にはふたりしかいないのにこっそりと声をひそめて告白した。
「彼氏ができたの」
 これ以上ない解だった。この特別なブラウニーを贈って、食べてくれた相手がいるのだ。
「……その彼氏、コウジよりかっこいい?」
 途端に紡ちゃんは蕩けさせていた表情を不思議な形に歪めた。それはなによりもわかりやすい答えで、にやにやと口元が緩んでしまう。
 彼女はそれにむっとしたのか少し口を尖らせて、斜め上の反論をした。
「でもパパよりヒロのほうがかっこいいし」
「ええ? 褒めてくれるの?」
「パパがいつも、ヒロはかっこいい、って言ってたから。ヒロが出てるテレビを見てるときとかに」
「……そうなんだ」
 今度は俺が顔を歪める番だった。照れ隠しにはそうするしかなかったのだ。
 ブラウニーをもうひとくち。口の中から消えないうちに紅茶を飲めば確かに味覚の働く部分が深くなって、いっそう贅沢な味になる。
「じゃあ、俺も教えてあげる。ママがコウジと付き合い始めたのも中学二年のときだったんだよ」
「そうなの?」
 なるほど、こういう話は聞かせていなかったのか。いとちゃんはともかくコウジはなんでも話していそうだったのに意外だ。
 料理が好きなところはコウジに似ていて、恋愛に早熟なところはいとちゃんに似ていて、ピアノを弾けるところはふたりに似ていて、どちらにも似ていない部分ももちろんある。紡ちゃんは彼らの子供であり、誰とも違うひとりの人間で、彼女だけの人生を歩んでいる。
「きみもいつかその彼氏と結婚するかもしれないね」
「結婚……」
「ぴんとこない?」
 こくりと頷く。他の場所では知らないが俺の前ではわかりやすく素直な子だった。
「残念ながら俺も結婚はしたことがないからなぁ。でもコウジたちはすごく……すごく幸せそうだったよ」
 きっと俺はこの先も結婚には縁がない。だから俺の思い描ける結婚の姿は、コウジといとちゃんの姿だ。ふたりとも芯がはっきりしているから喧嘩するところも見てきたけれど、それも含めて彼らは夫婦で、唯一の相手として誓い合う関係だった。
「なにより、きみが生まれたしね」
 子供ができたんだ、と報告された日のことを昨日のことのように思い出せる。
 あのね、と、ついさっきの紡ちゃんのように、大切にしまっていた宝物をこっそり見せるような声で切り出してきたこと。コウジはいつもより目尻を下げて、整った顔をふにゃふにゃにしていた。
『まだ公表はしないんだけど』
 言葉ではそう言いながらも言いたくてたまらないのだと全身からあふれ出ている。おめでとうと素直に伝えると、コウジはふにゃふにゃの顔からありがとうととろとろの声を出した。
 きっとコウジはいい父親になる。コウジにとっての丈幸さんのようなひとになろうとするだろうと思ったし、実際それはその通りになった。
 死に方まで真似しなくたっていいだろうと心の中でだけ責めた。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!