親友の娘

2033/1/14

 約束していた時間にコウジたちのマンションへ行くと紡ちゃんはロビーのソファーで待っていて、外からガラス越しに手を振ればすぐに気づいて表へ出てきた。右手に引いている世界一周できそうなほど大きなシルバーのスーツケースは、いとちゃんが使っている姿を見たことがある。午前の明るい日差しがスーツケースのふちを輝かせた。
「おはよう。眠れた?」
「……うん。おはよう」
「持つよ」
 スーツケースの持ち手を渡してもらって、待たせていたタクシーまでの短い距離を引く。紡ちゃんは俺のあとをついてきながらゆっくりとマンションを振り返った。
 コウジといとちゃんが結婚を決めたときにふたりが選んだ家だった。ふたりとも作曲家でもあるから自宅で仕事ができるようにとスタジオを兼ねたその家はじゅうぶんすぎるほど広く、紡ちゃんが生まれたあともずっとそこで暮らしていた。
 それに比べたら俺の家はなんの特徴もない一人暮らしのマンションだけど、生活するには困らないはずだ。
「ここを使って」
 もともと一人暮らしには部屋数の多い家だった。ゲストルームとして用意してあったその部屋はベッドと簡素な机があるだけで、眠るには足りても暮らすには殺風景なのは否めない。客の来ないホテルのようだった部屋も紡ちゃんがいるだけで急に意味を与えられたように見える。
「……誰か泊まりに来るんじゃない?」
 紡ちゃんはベッドをじっと見てからちらりと視線を寄越した。なにかを探るような目をしているけれど、探られるようなものはなにもない。
「ここを使ったのはコウジとカヅキくらいだよ。シーツとカバーは新しくしてあるけど、気になるようだったら言って」
「大丈夫。……ありがとう」
「鍵もかかるから、好きに使ってね」
 前もって送ってあったものを含めても、紡ちゃんの荷物はそんなに多くはなかった。服や靴、鞄なんかの身につけるもの、勉強道具、それから家族写真。コウジの家はそのままにしてあるから、もしもなにか不足があればいつでも取りに戻ればいい。
 荷解きに時間はそれほどかからず、昼すぎにはひととおりの荷物を片づけ終えた。
 遅めのランチはふたりでダイニングテーブルを囲み、朝のうちに買ってあったサンドイッチを食べた。紡ちゃんは俺の正面、いつもコウジが使っていた席に座っている。
「夜ごはんはどうしようか」
 こんな日の高い時間からする話ではない気もするけれど大事なことだ。生きることは食べることだと教えてくれたのはコウジだった。
 俺は今日一日仕事を入れないように調整したから、夜までずっと家にいられる。こんなことはいつ以来だろうか。そもそも仕事で外に出ていることのほうがずっと多くて、家で夕飯を食べるという習慣がないのだった。
「残念ながら俺はコウジみたいな、ひとにご馳走できるようなものは作れないんだけど……」
 こんな日が来るならもっとコウジに料理を教わっておけばよかった。お願いすればいくらでも喜んで教えてくれただろうに、俺はいつまで経っても、とうとう彼が死ぬまで食べるほうが得意なままだった。
 紡ちゃんは食べかけのサンドイッチを皿に置くと少しだけ考えて口を開いた。
「わたしが作ってもいい?」
 そう言った紡ちゃんの眼差しがコウジに似ていると本人は知らないのだろう。顔立ちや背格好はコウジとは程遠いのに、ふとした瞬間にコウジの面影を感じることがある。それは残り香のようにわずかな気配がひとときだけ現れてすぐに消えて、俺は何度それを感じてもそのたびに新鮮に驚いて息をのんでしまうのだった。
「ヒロ?」
「ああ……、もちろん」
 紡と一緒に料理してるんだ、と聞かされたのはもう何年も前のことだ。コウジも小学校に上がる前から子供用の包丁を握っていたらしいから、彼にとっては当然の流れだったのだろう。
 コウジはいつもそうだった。自分の稀有なもちものをひとへ分け与えて、そうして誰かが喜ぶ姿に微笑むようなひとだった。
「ちょっとこっちへ来て」
 立ち上がると紡ちゃんはおとなしくついてきた。案内するまでもなくダイニングからつながっているキッチンは、俺には不釣り合いな設備が整っている。備えつけのものも、ここに住み始めてから増えたものも。
 ここにあるフライパンも鍋もコップも皿も調味料も、なにもかもほとんどがコウジの置いていったものだ。コウジの家以外でこんなに形見にあふれた場所もないだろう。残念ながら俺はあまりこれを使いこなせないけれど、紡ちゃんならきっとコウジと同じように、あるべき道具として生かしてくれる。
「これ、うちにも同じものがあるよ」
 紡ちゃんはキッチンをきょろきょろと見回すと、調味料棚にある、ラベルに外国の景色が描かれた塩を見てそう言った。それから視線が隣の胡椒やみりんやバルサミコ酢に移る。
「これも。……これも」
「コウジが持ってきたものだよ」
 簡単すぎる答え合わせをすると紡ちゃんは俺の胸くらいの高さから俺を見上げた。俺を見ているはずなのに、別のひとを見ているような瞳だった。
「使ってくれる?」
 紡ちゃんは一瞬だけ泣き出しそうに眉をひそめて、うん、と言った。コウジの使い慣れたものはきっと紡ちゃんにも使い慣れたものだろう。
 不思議な気分だった。俺と紡ちゃんはまったくの赤の他人なのに、身体の半分くらいはたぶん似たようなものでできている。コウジが作ったカレーとかハンバーグとかそういうもので。
「ヒロはなにが食べたい?」
「紡ちゃんの得意料理がいいな」
「……じゃあ、今夜はハンバーグにするね」
 ハンバーグ、と聞いただけでその味を思い出した。俺や紡ちゃんにとってはコウジの、コウジにとっては丈幸さんのハンバーグ。
「楽しみだな。あとで一緒に買い物に行こう」
 頷いた紡ちゃんが塩と胡椒を取り出して調理台に並べる。そういえばコウジもここで料理をするとき、必要なものはすぐ手に取れるように準備していた。
「冷蔵庫の中を見てもいい?」
「がっかりしないでね」
 不可解そうに冷蔵庫の扉を開けた紡ちゃんはすぐに露骨にがっかりした顔になった。ここに肉や野菜があるはずがなく、バターやマヨネーズといった常備品と、奇跡的に卵があるだけの空間は、料理をするひとにとってはあまりにも空虚なのだということはわかっている。
 紡ちゃんはそれ以上眺めるほどのものもない冷蔵庫の扉をそっと閉じた。ひき肉、玉ねぎ、パン粉……と指折りながら足りないものを確認する声はまるで歌うようだ。
「あの……ヒロ」
「うん?」
 食材の確認を終えた紡ちゃんが振り返る。じっと見てくる瞳は今度は間違いなく俺を見ていて、かと思えばぺこりと頭を下げたから俺も同じように返した。
「お世話になります」
「こちらこそ」
 俺が紡ちゃんの世話をするつもりでいたけれど、もしかしたら逆なのかもしれない。料理がどうというよりもっと広い意味で、俺は彼女がここにいることに予想していたよりずっと安穏を覚えていた。

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