2033/2/14
紡ちゃんとの暮らしはおおむね問題なく進んでいた。平日の決まった時間に学校へ通う規則正しい生活を送る紡ちゃんと、いつどんな仕事があるか毎日ばらばらな俺とで顔を合わせる時間はあまり多くはなかったけれど、だからかえってお互い気を遣いすぎずにいられるのかもしれない。家の中のものを不用意に触るような子でもないし、そもそも仕事の機密情報以外は見られて困るものもない。
「ヒロ、これ」
起きてすぐ仕事に出て行こうとした俺を呼び止めて、紡ちゃんが小さな包みを差し出した。なんなのかはすぐにわかる、今日はそういう仕事が入っているから。
「えっと、バレンタインデーだから」
華奢な手から渡された、赤いリボンがかかった透明の袋に入っているのは星のかたちに型抜きされたチョコレートクッキーだった。クッキーの夜空に白く細い筋が星屑のように見えるのはアーモンドスライスだろうか。
いつのまに作ったのか、さすがコウジの娘だと妙に感心してしまう。
「ありがとう。嬉しいよ」
わざわざ作ってくれたのか、それとも誰かへあげるついでか。それはこの子のプライバシーの部分だから踏み込んで訊くのは野暮だ。きっとコウジもこんな場面でなにも言わない。
「おやつにもらうね。あと、今日は夜早めに帰ってこれるから、よかったら夕飯は一緒に食べよう」
「うん、わかった」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
外の空気は真冬の厳しさで、家を出た瞬間に指先の芯まで一気に冷たくなる。首をすくめてマフラーを巻き直しても気休めにしかならない。
俺がついさっきもらったクッキーと同じものか、もっと豪華なものがきっと紡ちゃんの部屋の机の上に置かれているのだろう。三人で写った写真の前に、大好きな父親と誕生日の母親に宛てて。
夕飯は近所の小さなレストランへ行った。静かで照明の控えめな店だから幸い他の客に気づかれることもなくゆっくり食事をして、帰ると紡ちゃんはいつもと同じ時間におやすみと言って自分の部屋に入っていった。
俺のほうはやけに頭が冴えていっこうに眠くならず、寝るのを諦めてキッチンへ行った。棚の奥のほうにコウジが置いていったウイスキーがある。俺は酒の銘柄に詳しくないけれどコウジが選んだのだから上等なものなのだろう、何度か一緒に飲んだことはあって、確かに心地好くなるほどおいしかった。
久しぶりに取り出した瓶の中はまだ半分残っていた。背の低いグラスに氷をみっつ入れて、そこに琥珀色のウイスキーを静かに注ぐ。氷の表面を滑った液体がゆっくりとグラスの中を満たし、からりと涼やかな音が鳴った。
リビングのテレビをつけて、テレビ台に並んでいた中から適当に選んだオバレのライブ映像を再生する。すぐに馴染みのイントロが、コウジのギターが聞こえてきた。部屋の明かりを消してソファに沈みこむと気分だけは小さなシアターのようだった。コウジがいたらポップコーンにキャラメルソースをかけてくれたかもしれない。
二十年近い活動の中でリリースたいくつものライブ映像の山の中にも、資料として撮っていたソフト化していない記録映像の中にもコウジがいる。デビューしたてのまだ高校生だったころの姿も、あれからもう少しだけ背が伸びたのも、歳を重ねて色気が増したのも、全部ここ残っている。
映像の中のコウジはこんなにも生き生きと動いているのに、現実ではもうどこにもいない。
頭でわかっていてもいまだに実感は薄かった。どこかでひょっこりとなんでもなさそうな顔をして現れるような気さえした。びっくりした? なんて言って、その瞬間俺は紡ちゃんを叩き起こしに行くのだ。
働いていない脳の外側を撫でるように音と映像が流れ続ける。コウジとカヅキと一緒に俺も映っているのに画面の中の俺は別の人間のように見えた。こんなふうに家でぼうっとライブを眺めている自分とステージに立っている速水ヒロは少しずれた存在なのだろう。どっちも俺であることには変わりない。向こうの俺はいいな、隣にコウジがいて。
途中の短いMCが終わったあたりで、カチャ、とリビングのドアの開く控えめな音が聞こえた。この家にはふたりしかいないから、誰が来たかなんて振り返らなくてもわかる。
「……眠れない?」
いつもより髪がぼさぼさと広がっている──寝起きのコウジにそっくりだ──パジャマ姿の紡ちゃんは寝ぼけ眼でこくりと頷き、リビングに入ってきた。スリッパの小さな足音をぺたぺたと鳴らしながらやって来て、俺の左隣にちょこんと座る。テレビの中では次の曲が始まって演奏と同時に大きな歓声が湧き起こった。
「これは止めようか」
「……ううん」
寂しくさせて余計に眠れなくなってしまうかもしれないと思って言った提案は、まだ夢の中にいるようなふわふわした声に却下される。それきり紡ちゃんは黙ったまま、ソファの正面にあるテレビをまっすぐに見つめているからそれ以上のことは言えなかった。画面の中でステージを照らす照明の色が変わるたび、それを映す彼女の瞳が万華鏡のように鮮やかに輝いた。
曲を奏でるたび歌声が響いて俺たちはプリズムジャンプを跳ぶ。大会で得点を得るためのものではない、ただひたすらに気持ちを高揚させ続けるジャンプ。
ローテーブルの上、手持ち無沙汰で用意したウイスキーに口をつける気にもなれなくて、画面の向こうに捧げる献杯のようになったまま氷だけがゆっくりと溶けてゆく。
「パパ……」
スピーカーから届く歓声の隙間、呼吸にかろうじて音が乗ったかのような消え入りそうな声が聞こえた。顔を隣へ向ければ紡ちゃんは画面を見つめたままぼろぼろと大粒の涙を零していて、あとからあとから溢れた雫が、膝に置いた手の甲に落ちてそこを濡らした。
俺は葬儀のときからてんで変わらず、なにも言えなかった。ずるくて優しい大人になりたいのに全然ちっともうまくできやしない。
コウジやいとちゃんはこういうときどんなふうにしてあげていたのだろう。もっとたくさん話を聞いておけばよかった。たとえば手を握るとか、頭を撫でるとか、そういうことが彼女の慰めになるのかどうかもわからない。そうして俺はただ彼女が泣くのを見ていた。テレビからはコウジの歌声が聞こえてくる。
紡ちゃんは目を背けるように俯くとおもむろに手を伸ばして、俺の胸に飛び込んできた。ふわふわの癖毛が顎のあたりをくすぐる。シャツに涙が染みてくるのがわかった。
それで俺は抱きしめてあげてもいいのだとようやく理解する。頭のうしろと背中に腕を回すと、両親のいない子供はしゃくり上げるような泣き方をした。
「パパじゃなくてごめんね」
紡ちゃんは俺にしがみついたまま何度も首を横に振る。俺なんかより彼女のほうがずっと大人で優しかった。
まるで全部見通しているかのように、テレビの中のコウジがエレキギターをアコースティックギターに持ち替えた。ゆったりとした子守唄のようなやさしいメロディは、動いていない脳の中にまでちゃんと響いて心のまわりを包み込む。三人で別のメロディを歌ってハーモニーを響かせるのはコウジがやりたいと言い出したことだった。
しばらくすると紡ちゃんは鼻をぐすぐすと鳴らしながらそっと離れた。ばつが悪そうに視線をそらす様子は、照れているときのいとちゃんの姿を思い出させる。コウジが隣にいるとき彼女はたまにそういう顔をした。それを見て頬をふにゃふにゃに緩めるコウジのことも鮮明に覚えている。
「……ごめんなさい」
「ううん」
こんなことは口が裂けても言えないし言えた立場でもないけれど、寂しいのはお互い様だ。体温と一緒に俺たちは彼らの思い出を無言の中で分け合っていたのだった。今ベッドに入ったならそのまま眠りにつけそうな気さえする。
「ちょっと待ってて」
紡ちゃんのことはテレビの中のコウジに任せて俺はキッチンへ行った。たいした料理は作れないけれど、これならコウジと同じ味を作れる。マグカップをレンジに入れて少し待つだけ。
「はい。熱いから気をつけて」
差し出したマグカップを紡ちゃんは両手で受け取ってひとくち啜った。残滓のような涙がひとつ頬へぽろりと落ちて、もうひとくち。
蜂蜜を溶かしたホットミルクは、離れて座ってもほのかに甘い香りが届く。
「ありがとう」
俺はずっと放置していたウイスキーのグラスを取った。氷はほとんど溶けてすっかり薄まってしまっているけどそんなことはほんとうにどうでもよかった。ホットミルクの香りに割り込むように届く強いアルコールだけで、コウジがこの家に来たときの匂いやウイスキーにあわせて出してくれた料理のことを思い出す。
紡ちゃんはアンコールでライブTシャツを着て出てきた俺たちを見て、それから真横にいる俺を見た。目は赤いけれど口元は微笑んでいる。
「ね、パパの話して」
「なにが聞きたい?」
「……なんでも」
目を伏せて、長い睫毛が影を落とした。吐息でホットミルクの水面を散らしながら、泣いた直後の鼻にかかった声が俺にしかできないことをねだる。
「わたしの知らないこと全部」
「……いいよ」
明日も平日で紡ちゃんは学校の授業があるけれど、そんなのは夜更かしのせいで一日休んだところでどうだっていい。今コウジの話をするより大切なことなんてないのだった。
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