奈津子とヒロ子がただならぬ関係になっている世界のコウジと奈津子。思考実験
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コウジは一度は離れたエーデルローズに戻るのにあわせて寮に入り、家へ帰らない日が増えた。奈津子ももともと仕事で家を空けがちだったから母子が顔を合わせる頻度は次第に減ってゆき、コウジの渡米中に数ヶ月間会わなかったことも手伝って——さすがにホリデーシーズンは帰ってきたけれど——、だからしばらくは、それは奈津子だけのことだった。
三月の終わりの春と呼ぶにはまだ肌寒い日、エーデルローズを退寮したコウジが丈幸のギターを背負って帰ってきた。四月からは大学生になるし、ハリウッドの仕事を終えて制約がなくなり新しい仕事も始まる。一人暮らしをするかもしれないと相談されて好きにしたらいいわと返したのはまぎれもない本心だ。なにかを成したいひとの気持ちに制限をかけることはできない、それはなにも生み出せない。
奈津子がいつもの時間に起きるとコウジはもうキッチンにいて、てきぱきと手際よく動いていた。淹れたてのコーヒーの香りがリビングにまで届く。奈津子ひとりの朝だと家では食べずに出てしまうから、この家に朝食があることに驚いてしまう。
「おはよう」
起きてきた奈津子に気づいたコウジが顔を向けてそう声をかけた。目尻をすこし下げる笑い方は、身体が大きくなったこともあって年々丈幸に似てきている。
「おはよう。……朝ごはん、わざわざ作ってくれたのね」
「僕がやりたいだけだから。トーストでいい?」
「ええ、もちろん」
コウジは奈津子のぶんと一緒に自分のトーストも焼いて食卓に並べた。焼いた脂の香りのするベーコンとふわふわのオムレツ、グリーンサラダが彩りを添える。
メニューとしてはありふれた朝食ではあるけれど、通勤途中に作業のように買うサンドイッチよりはるかにいい。ましてや目の前にあるのは職場の端末や資料ではなく息子の顔なのだ。
食べ終えると奈津子が席を立つより先にコウジが食器をまとめて重ねてしまったので片づけは任せて奈津子は身支度を整える。もう二十年以上続けているルーチンを手早く済ませリビングへ顔を出すと、コウジはすぐに気づいて玄関までついてきた。
パンプスを履くと視界が七センチ高くなってコウジの顔が近くに見える。
「今夜は外で食べる約束があるから、遅くなるわ」
伝えたのはただの事実だ。明日は土曜日だけど出勤するとか、来週は出張があるとか、そういうことを伝えるのと同じだ。
「……母さん」
けれどコウジはうんと頷いたあとで奈津子の顔をじっと見つめ、ぱちぱちと瞬きをした。
「もしかして、いいひとができた?」
「……え?」
「僕のことなら気にしないで」
丈幸と同じ微笑み方をしてそんなことを言う。肩にさげたバッグや履いたばかりのパンプスを急に重たく感じて、奈津子は手のひらにぐっと力を込めた。そんなことはないと言えばそれで終わる話題のはずなのに、喉になにかが詰まったかのようで咄嗟に声を出せなかった。
コウジは一瞬前の鋭さはどこかへやってしまったらしく、奈津子の内心には気づかないまま小首を傾げた。
「いつか紹介してね」
「……ええ。ええ、そうね」
「いってらっしゃい。気をつけて」
手を振る陰にドアが閉まる。家の外と内が遮断されて、吹く風が頬を掠めた。
あなたの友達のお母さんと会うのよとは言えなかった。言ってもいいはずなのに言えなかった理由から目を逸らすように、奈津子はわずかに視線を落とす。
息子に紹介できる日は、永遠に来ない。
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