窓越しに冬

キンプリの少し前。『ヒーロー』を聴いて書いた

 エーデルローズ女子部が独立した。すこし前のことだ。氷室主宰の判断だった。
 主宰は僕たちにそれを伝えて、申し訳なさそうなあいまいな笑顔を見せた。詳しくは語らなかったが、良いことでないことくらいはわかる。地下の寂れたレッスン用リンクはかつてのエーデルローズのそれとは比べ物にならない。オーバーザレインボーの活動こそ順調でも、華やかなのはほんの表面上だけの話だ。
「疲れた?」
 今日はヒロのリクエストで肉じゃがを作った。最近はフランス料理がおもしろくてそればかりだったから、和食を作るのは基本に立ち返った気分で新鮮だ。ヒロはいつも通りおいしいおいしいと言って食べてくれて、僕はいつも通りそれに喜ぶ。
 食事を終えて手を合わせ、ごちそうさま、と言ったヒロの声には覇気がない。そのまま指摘したら、ヒロは一瞬取り繕うようなそぶりをして、僕を見て、諦めたように溜息をついた。
「ちょっとだけな」
 ちょっと、と彼は言うが認めている時点でだいぶ疲れているのだ。けれどそこまでは指摘せずに、そっか、と肯定する。僕が単独で表に出る仕事はあまり多くない。ドラマや映画、CMを何本も抱えているヒロに比べたらほんのわずかだ。ヒロがどれくらい疲れているか、僕にほんとうにわかるはずがない。
 手を伸ばしてヒロの頬に触れ、目の下を親指でなぞった。狭いアパートの小さな机は使い勝手がいいとは言えなかったが、距離が近くなるのは利点だった。
「何? 隈でもできてる?」
 くすぐったそうに少し笑って、大きな目をぱちぱちと瞬かせる。睫毛から音がしそうだ。
「できてないよ」
 ヒロはいつもきれいだ。朝から晩まで引っ張りだこで睡眠もままならないだろうに、白い肌はいつだってしっとりして心地好い。ヒロを好きでたまらないあの何万何十万の女の子たちが知り得ないことのひとつだ。
 触れていた手を首のうしろへ回してそのまま引き寄せる。抵抗もなく、ヒロの頭は僕の肩に収まった。
「なんだよ、コウジ」
 さっきよりも疲れを隠さない声が顔の下からくぐもって聞こえる。細くてさらさらの髪が首筋にあたってむずがゆい。気持ちいい。ヒロはおとなしく、動かない。
「噛んでもいいよ」
 襟ぐりの広いカットソーを着ているから、ヒロの顔は僕の素肌にくっついていた。潜めるように繰り返される呼吸が熱を与えては引いてゆく。
「なに、それ」
 今度は笑うのに失敗した声だった。言葉でこたえる代わりに、髪をなぞるようにしてまるい頭を何度か撫でる。こうして触れると見た目よりもずっと小さく感じるから不思議だ。
「コウジ」
「うん」
 ヒロは顔の向きを少しだけ変えて、それから、ちょうど鎖骨のあたりに触れていたくちびるを開いた。吐息の熱のあと、痛みには程遠い違和感が伝わる。跡なんかつくはずのない噛み方で、けれどヒロはしばらくそのまま離れなかった。
「ヒロ」
「…………うん」
 ヒロがこんなふうにひとに触れることがあるのも、彼のファンの女の子たちは知らない。知ってはいけない。彼女たちの前に立つのは、アイドルの速水ヒロであるべきだから。
 エーデルローズは、オーバーザレインボーは、僕たちがやっと獲得したものだ。僕の歌をヒロが見つけてくれて、僕たちの違ってしまったものにカヅキが気づいてくれて、ようやく、ようやく三人で浴びることのできたスポットライトを、失いたい気持ちなど微塵もない。
 ひどく縮小してしまったエーデルローズのことを考える。大きなライブ会場に立ち続けるオーバーザレインボーのことを考える。まだ僕の腕の中に収まって、肌に歯をたてているヒロのことを考える。それから、数日前に氷室主宰から聞かされた話のことを考える。
 答えなんてひとつしかなかった。

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