過熱

2018年2月発行の冷や汗アンソロに寄稿したもの。嘔吐するヒロ

『風邪引いた。ごめん』
 グループトークにヒロから短いメッセージが届いたのは、コウジが朝食を済ませて家を出る支度をしようとしていたときだった。ぽん、と軽やかな音で着信を告げた端末の画面を見下ろし、コウジは眉をひそめる。
 卒業式ライブでオーバーザレインボーの活動を再開した数日後。今後の活動についてミーティングするため、コウジとカヅキはヒロのアパートへ行く予定になっていた。
 これからどんな曲を作って、どんなプリズムショーをするのか。プリズムショー以外の仕事もたくさんしてきたし、三人揃ってではなく個別に手がける仕事もある。話し合い、決めなければいけないことは山のようにあった。
 しかし先のメッセージでは、今日の予定はリスケになりそうだ。ヒロがごめんと謝るのはミーティングに参加できないという意味にほかならず、三人のことは、三人で集まって決めなければ意味がなかった。
 ぽん、とまた着信音が鳴る。
『そっか。ゆっくり休めよ! お大事に』
 カヅキの返信は早く、簡潔だった。彼らしい。
 ミーティングは延期すればいい。今はとにかく、ヒロの体調が気がかりだ。
 コウジはトーク画面を開くとメッセージを送った。もしかしたらヒロは最初のメッセージを送ってきたあとすぐに眠っていて、コウジのメッセージには気づかないかもしれない。それでも予告なく不法侵入するよりはいいだろう。
『今から行くよ』

 預かっていた合鍵で鍵を開ける。そういうことに手慣れた人間なら数秒でピッキングできてしまいそうな鍵でも、戸締まりをするようになっただけ以前よりはましだ。
 薄いドアの向こうはしんと静まり返っていた。ひとの動く気配もなく、時間が止まっているような錯覚に陥る。
「……ヒロ?」
 眠っているならば起こさないように。起きているならば聞こえるように。
 呼びかけた声に返事はない。
「入るよ」
 コウジは足音をたてないようゆっくりと部屋に入った。昼前の明るい時間だが、カーテンが閉められていて部屋はぼんやりと薄暗い。
 ヒロはベッドで眠っていた。カーテン越しに射し込む陽の光が頬にあたり、影を落とす。額には汗が滲んで寝苦しそうだ。
「……ただ寝てるだけじゃ治るものも治らないよ」
 コウジはそう小さくこぼし、アパートへ来る途中で買い出してきたものを卓袱台に置いた。ヒロはアイドルとしてのプロ意識は高いのに、妙なところで自分自身に対して無頓着なことがあって、たとえばこういうときがそうだった。
 ドラッグストアのビニール袋から冷却シートの箱を取り出して開封する。ヒロの額に汗で貼りついた前髪を払ってタオルで拭うと、まるい額に冷却シートをのせた。
 指先で触れた肌は、常よりもだいぶ熱い。
「ん……」
 ヒロが億劫そうに身じろいで、うっすらと目を開けた。普段の半分ほどしか覗いていない瞳は焦点が虚ろで、コウジが来ていることにも気づいていなさそうだった。
「ごめん、起こしたね」
 声のした方へ顔を傾けたヒロが、コウジの姿を認めてゆるりと瞬きをする。
「……コウジ?」
 囁く程度の声は少し掠れて熱っぽい。
「うん」
「どうして……」
「心配だったから。どうせなにも食べてないんでしょ?」
 ヒロはばつが悪そうに視線を逸らした。叱られるのを待つ幼い子どものようだ。
「具合は?」
「熱があって、暑い……けど寒い……」
 コウジは小さく微笑むとヒロに掛け布団を掛け直してやり、立ち上がった。この部屋のどこになにがあるかはよく知っているから、家の主がダウンしていても困りはしない。
「お粥なら食べられる?」
「……うん」
「よし。ヒロは寝てて」
「コウジ」
「ん?」
 布団から顔を半分だけ出して、ヒロがコウジを見る。琥珀色の瞳が熱で溶け出しそうだ。
「ごめん」
「謝ることはないよ。いいから寝て」

 嚥下しやすいように多めの水分で煮た粥に卵を落とす。菜箸で手早くくるくると混ぜると、淡い黄色の卵が白い粥の中に花弁のように散った。
「できたよ」
 声をかけると、うとうとしていたヒロが瞼を上げてコウジを見た。そのまま肘をついて起き上がろうとするので、背に腕を回して手伝う。
「風邪引いてると味はわからないかもしれないけど、食べたほうがいいから」
 ベッドの端に座って粥を盛った茶碗を見せると、ヒロはへにゃりと力なく笑った。熱のせいだとわかっていても、一挙手一投足が鈍くなってしまっているのを見せられると世話を焼きたくなる。できることはなんでもしてあげたい。
 れんげに少しだけ粥をすくって冷まし、ヒロの口元へ持っていく。ヒロは口を小さく開いてそれを受け入れた。
「熱かった?」
「……おいしい」
「味わかる?」
「コウジのだから、おいしいに決まってる」
 少し掠れた小さな声で、けれど隣に座っているのだからコウジが聞き逃すはずがなかった。それはヒロからコウジへの絶対的な信頼の言葉で、コウジの中にむずむずと震え出しそうな歓びが灯る。こんな見返りを求めて料理をしてきたわけではなくても、確実にヒロの中に積み重なってきたものがあるのだと一言で伝わった。
 止まってしまったコウジの手を不思議そうに見て、ヒロが、あ、と口を開けた。コウジは慌ててれんげを粥の中に通し、ヒロに食べさせる。与えられたものをおとなしく咀嚼している様子は愛玩動物を彷彿とさせた。
 何度かその動作を繰り返し、茶碗の中身が半分に減ったころ、不意にヒロが口を閉じて俯いた。長い前髪が冷却シートの端に引っかかりながら垂れる。
「ヒロ? もういい?」
 無理に全部食べさせるより薬を飲ませて寝かせたほうがいい。隣からでは表情がよく見えず、コウジはヒロの顔を覗き込んだ。
 けれど顔を見る前にヒロはふらりと立ち上がった。コウジを見もせずに、両手で口元を押さえて。
「ヒロ」
 普段の溌剌とした姿からはかけ離れたおぼつかない足取りで、口を押さえたままよろよろと歩き出す。コウジは茶碗を置いて慌てて追いかけた。
 ヒロは数歩で辿り着いた薄いドアを開け、膝をついた。顔を伏せて手を離す。
 ぼたぼたぼた、と水面を荒らす音がした。
「ぐぅっ……はっ、はぁ……うぅ……」
 俯いたヒロの口から吐瀉物が落ちて、その続きのように喘ぐ声が漏れた。ぜえぜえとざらついた呼吸をするのに合わせて背中が大きく上下する。
 コウジはその背中にそっと手をのせた。反射でヒロがびくりと反応する。衣服越しにも身体の熱さが伝わってきて、ヒロの熱を宥めるように、のせた手のひらをゆっくりと動かして撫でた。
「ヒロ、……大丈夫だよ」
「あ……」
「つらいだろ。全部出していいよ」
 ヒロの胃から逆流して吐き出されたものが何であるかなんて、ヒロにもコウジにもわかりきっている。それをヒロが吐き出すことに必要のない罪悪感を覚えていることも。
「コウ、ジ」
「うん」
「ごめん……」
「ううん」
 ず、とヒロが鼻を啜った。声にも涙が滲んでいる。
 嘔吐した時はそうなるものだ。発熱で朦朧とするのも、食べられないことも、戻すのも身体の反応であって、それ以上にヒロが苦しむ必要はない。
「はぁ、はぁ……は……っ、ぅあ」
 呼吸がゆっくりになり落ち着いたようだったのに、また喉につっかえるようなくぐもった声で呻いた。
「まだ出そう?」
「うっ……ん、」
 げほ、と病人の見本のような咳き込み方をする。ヒロはぜえぜえとと大きく息を吐き出すものの、透明な唾液が唇を濡らして垂れてくるだけでそれ以外のものは出てこない。
「ヒロ、ちょっと我慢して」
「な、に……?」
 コウジはヒロの背後から左腕を前に回して支えると、右手の中指をヒロの口の中に入れた。
「んぁ……! や……っ」
「ごめんね、大丈夫だから」
 混乱して身を捩るヒロの身体を押さえつけ、耳元に吹き込む。
 ギターを弾くために普段から爪を短く整える習慣があってよかった。これが原因でヒロの喉を傷つけてはたまらない。
 指を入れた口内はぬるぬるとして焼けるように熱い。はぁはぁと荒く繰り返される呼吸の源を求めるように、躊躇うことなく指先で喉に触れ、そこを強引にこじ開けた。
 こんなことをされたくはないだろうが、吐き出せなくて苦しみ続けるより早く終わらせてやりたかった。
「こうじ、」
 後ろからでは顔が見えなくても、ぼろぼろと泣いているのはわかる。顎を押さえた親指に温い涙が落ちてきた。
「よしよし」
「ぐっ……っあ、ああ……っ、」
 コウジに無理矢理開かれた喉奥から、胃に残っていたものがぼたぼたと零れ落ちた。

 今度こそ全部を吐き出してぐったりと脱力したヒロを支え、口をゆすがせてベッドに戻る。熱で真っ赤に染まった頬に、涙の跡がいくつも残っていた。
「薬飲んで、ゆっくり休んで」
 ヒロはコウジが渡した錠剤と水の入ったコップをおとなしく受け取って、緩慢に嚥下した。水分が足りていないのだろう、水を一気に飲み干したので「もっと飲む?」と確認したがヒロは首を横に振り、そのままベッドに倒れ込む。
 疲れているのだと全身から伝わってくる。当然だ、ただでさえ熱があるのにあんなふうに嘔吐したら体力は底を尽きてしまう。
 ヒロがそっと重たげに瞼を閉じる。その縁に残る涙の跡をなぞるように、コウジは指先で触れた。コウジにとっては心配になるほど熱いが、ヒロにとっては冷たくて気持ちいいのだろう、頭をわずかに動かして頬を擦り寄せてくる。
「コウジ」
 ゆるりと開かれた瞳はひどくぼんやりとして、それでもまっすぐコウジを見る。
「ありがとう」
 たった五文字の言葉を言い終えるより先に再び瞼が落ちた。
 コウジは返事の代わりに、両手で頬を包み込む。伝わる熱が手のひらいっぱいに広がって、このまま融けあえてしまいそうな感覚が、コウジの全身を満たした。

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