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旅行に誘われて怜治がまず思ったのは、もうそんな時期か、ということだった。
じりじりと焦がすような暑さが落ち着き、観光客のことさら増える時期。過ごしやすくはなっても鎌倉に紅葉が色づくまではまだかかる。一足早く紅葉を見に行こうと、怜治と静馬の両親が連れ立って出かけるのはいつものことだった。
これに限らず小さな頃は毎年のように、二家族であちこちへ出かけていた。怜治たちが自分の時間を持つようになっても変わらず声をかけてくる。
母親から提示された日程に、怜治はゆるく首を横に振った。
「せっかくだけど、仕事があるから」
「そう……じゃあ、静馬くんも来られないかしら」
「そうだね。いいよ、四人で行っておいでよ」
断ることは予想していたのか、怜治の母親はそれ以上食い下がらなかった。安心させるように微笑む姿は少し静馬に似ている。
「お土産たくさん買ってくるから」
「うん。楽しみにしてる」
「帰る前にどこかに寄るか?」
夕方に仕事を終えていつものように車で帰る。互いに両親が不在なのはわかっていたから、静馬の言葉は夕飯を外食にするかという意味だ。
怜治は少し考えて、首を横に振った。
「久しぶりに静馬くんの手料理が食べたいなぁ」
芝居がかっておどけながら言ってみせると、静馬がちらりとこちらを見た。なにか言いたげな目だったが、彼の口から出てきたのは具体的な単語だけ。
「……オムライスか?」
「オムライスも好きだけど、今日はハンバーグがいいな」
ああ、と静馬が納得したように頷く。
何日か前に万太郎からストライド部レギュラーメンバーのグループトークに、ハンバーグの画像が送られてきたのだ。添えられたメッセージには匡が作ってくれたと書かれていて、いいなぁ、と素直に思った。
当然、そのメッセージは静馬にも送られている。怜治の所望するものを理解した静馬は話が早い。
「作るならスーパーに寄らないと」
「じゃあ寄ろう」
怜治のその一言で車は進路を変える。家へ向かう道から少しだけ外れ、駅近くのスーパーマーケットのそばの駐車場に止まった。
「怜治様」
車を降りた怜治の視界が不意に陰った。どこに持っていたのか、静馬にキャップを被せられたのだ。目元を隠すよう下ろされた鍔はそのままに、顎を上向けて静馬を見ると、彼は涼しげな顔のままリモコンキーで車にロックをかけているところだった。
「誰も気にしないよ」
都内ならいざ知らず、ここは生まれ育った地元だ。ギャラクシー・スタンダードのメンバーになるよりもずっと前から怜治のことを見知っている人は大勢いる。
「観光客がいますから」
「言っておくけど、俺の顔より静馬の髪のほうが目立つからね。背も高いし」
ふむ、と静馬は長めの前髪を摘んだ。薄い色の髪の束に夕陽が透ける。
「では切りましょうか」
「えっ」
「冗談ですよ。少なくとも卒業まではこのままです」
カメラに向かってするようににっこりと微笑む静馬を思わずまじまじと見つめる。その髪が短くなった姿を懸命に想像してみても、怜治の中ではうまく馴染まない。物心ついた頃から静馬の髪は怜治や他の子供よりも長く、うなじが見えるほど短いことなどなかった。怜治が静馬を見間違えるはずがなくても誰だかわからなくなりそうだ。
「あっ、ねえ静馬、あとでアイス食べようよ」
スーパーの奥に見える、数年前にできたばかりのアイスクリームショップを視線で示すと、静馬はわざとらしく肩を竦めた。嗜めるポーズだけはしておこうという意図らしく、呆れたふうに笑っている。
「これから夕飯なのに?」
「水分補給だよ」
並んで自動ドアをくぐった夕方のスーパーは時間帯相応に賑わっている。メニューは決まっているから食材の買い出しはスムーズで、静馬が必要なものをかごに入れるのについていくだけで終わった。
ひき肉、玉ねぎ、付け合わせの野菜。卵とパン粉はあるはずだから、と小声で呟くのを感心した気持ちで聞いた。
「すごいね」
「はい?」
「俺、家に卵があるとか知らないや」
「その必要がないからでしょう」
静馬の返答は至極もっともだ。怜治が台所に立つことなどほとんどないし、その必要もない。もっと言えばこんなふうに食材の買い出しをすることだって滅多にない。
それは静馬も知っていて、だからこうしてハンバーグにも買い物にも付き合ってくれる。怜治が物珍しいことを好きだと彼はよくよく知っていた。
会計を済ませた静馬の前を歩いてスーパーを出て、怜治はまっすぐ隣の建物へ向かった。二階へ続く螺旋階段に足をかけると、買い物袋をぶら下げた静馬の呆れ声が背中に降ってくる。
「本当に召し上がるんですか」
「ビタミン補給だよ」
夏を過ぎて行列ができることもなくなった店内は数組の客がいるだけだった。ガラスケースの中に色鮮やかなフローズンバーが並んでいる。ビタミンカラーが店の照明を浴びて宝石のように輝いた。
「静馬はどれにする?」
「お好きなものをふたつ選んでください」
「いいの? じゃあ、すみません、これとこれを」
指で示したオレンジとストロベリーのバーを店員がひとつずつ紙コップに入れる。怜治はそれを両手に受け取ると、まっすぐ窓際のイートインカウンターに向かった。並んで座り、ストロベリーのほうを静馬に押しつける。
窓の向こう、背の低い街並みは空が広く見える。天の高いほうはもう色を濃くして、夜の訪れを告げていた。
「なにか?」
ミルクの白い生地に苺が散りばめられたアイスを一口かじった静馬が、視線を受けて怜治を見た。
「静馬、結構似合うよ。アイスのCM来ないかな?」
「これからの季節にオファーが来るとはあまり思えませんね」
「そっか。残念」
半年早く気づくべきだった、そう思いながらオレンジの果肉ごとアイスをかじる。果物の甘さよりも冷たさのほうが口の中に強く広がった。
ささやかな寄り道を終えて今度こそ諏訪邸の敷地に入る頃には、太陽はほとんど地平線の裏側に沈んでいた。買い出しをした食材はそのまま静馬の手にある。
「じゃあ、ライカの散歩したら行くから」
「畏まりました」
それまでにハンバーグを作っておいてね、の意図は正しく伝わったらしい。役目を全うするため、静馬は早々に自宅へ入っていった。
庭を進むと賢い愛犬が怜治の姿を認めて駆け寄ってきた。しばらく好きにさせてからリードを持つ。
小さな頃から歩き慣れた散歩コースは人通りの多い道から一本外れているし、そもそもこの街は日が沈むのと同時にほとんどの観光客がいなくなる。都心の夜に比べると異様なまでに静かだ。
先導するライカの後ろ姿を見ながら歩く。乾いた空気が頬を撫でて、秋の匂いがした。
「ライカ」
どこかの家の庭から、ついこの間まで聞こえていた蝉の声の代わりにこおろぎの鳴き声が聞こえてきて、ライカの足音に重なる。
「次に休みがとれたらまたドッグランに連れて行ってもらおうか」
意味など通じないはずなのに、怜治の言葉に呼応するようにライカの歩く速度が上がった。
黛家のチャイムを鳴らすと、出てきたのは静馬だった。
「あれ、遊馬は?」
通されて上がった家に、他にひとの気配はない。
午前中に一緒に取材を受けたが、あとはオフのはずだ。てっきりもう帰っているのかと思っていたのにどうやらそうではないらしい。
「出かけてる。八神陸と会うそうだから、遅くなるか泊まってくるかもしれない」
「そう。ずいぶん仲良くなったんだね。次のEOSが楽しみだな」
来年のEOSに、怜治や静馬はもういない。だからこそ今年とは絶対に違う試合になる。
ものごとは絶えずそうやって移り変わってゆくものだ。少しずつ、時には大胆に。同じ瞬間などひとつもない。
「あとは焼くだけだから、少し待ってろ」
「はーい」
言われた通りに肉の焼ける音と香りを感じていれば、できあがるのはすぐだった。
居間には欅の木でできた大きな食卓がある。四人家族がゆったり使ってもまだ余裕のあるその低いテーブルに、ふたりで向かい合って着いた。
いただきます、と手を合わせ、ふっくらと焼けたハンバーグにナイフを入れる。静馬はシルバーも持たずにその手元を見ていた。表情にあまり現れなくても、出来栄えを気にしているのはわかる。切り分けたところをフォークで持ち上げると、食欲をそそる香りがふわりと嗅覚の奥にまで届いて、誘われるままに口の中に招き入れる。
「おいしい!」
「お気に召したのならなによりです」
静馬はほっとしたように頬を綻ばせ、ようやく自分のハンバーグに手をつけた。その様子を見る限り、作った側としても及第点だったようだ。
「あっ、そうだ」
怜治は持ってきていた紙袋をテーブルに置いた。静馬の視線が怜治からそちらへ移る。
「デザートを持ってきたから、これは部屋で食べようよ」
「ありがとう」
「頂き物だけど」
紙袋を引き寄せて中を覗いた静馬は、包装紙を見て中身を察したようだった。一瞬なんとも言いがたい表情を見せたが、怜治としてはそれも織り込み済みで持ってきたものだ。
「ハンバーグのデザートに練り切りか」
「悪くないでしょ」
悪戯っぽく笑ってみせると静馬もつられて口角を上げる。こんな組み合わせ方は、少なくとも諏訪の家ではしない。静馬もそれをわかっている。
「お茶を出すから食べたら先に部屋に行っていてくれ。残念ながら抹茶は用意できないが」
「点てようか?」
ジョークではない。頷かれたらすぐにでも茶を点てることはできる。だから答えはどちらでもよかった。
静馬は笑って否定して、次の約束に変えた。
「また今度な」
静馬の部屋は静馬の匂いがする。家にはそれぞれその家の匂いがあるけれど、静馬の部屋は特別だった。安心感と一緒に脳に刷り込まれているのかもしれない。
「お待たせしました」
その部屋の匂いに、静馬が入ってくると玉露の香りが混じった。
盆に湯気の立つ湯呑みがふたつと、空の菓子皿がふたつ。静馬はそれを部屋のローテーブルに並べて右隣に座ると、怜治が持ってきた菓子折りの箱を開けた。六種類の華やかな上生菓子が秋を閉じ込めて行儀よく並んでいる。
「どれにする?」
「俺が持ってきたんだから先に選んでよ」
「……ではこれを」
静馬は紅葉をあしらった練り切りを選んで菓子皿に載せた。その隣には兄弟のような印象の銀杏の葉のものがあったから、きっと怜治の選択肢を残すためにそれを選んだのだ。色や材料の異なるものをなるべく多く残しておくために。
静馬は優しい。彼のことを厳しいとかお堅いとか評する声があるのは知っていて、そう感じさせる原因の一部が怜治であることも知っていて、けれど静馬が優しくなかったことなど、今までそばで過ごしてきた中で一度もなかった。
怜治は銀杏の葉の練り切りを選び取った。淡い白色の菓子皿に鮮やかな黄色が映える。
端を小さく切り分けて舌の上に乗せれば、和菓子特有の柔らかい甘さが綻ぶように広がった。馴染みのある味だ。この部屋の匂いと同じくらい。
「……いつか誰か他のひとが、静馬くんのハンバーグを食べるのかな」
「俺の作ったものを食べたいと言うのはお前くらいだよ」
「母さんたちみたいに、たまに一緒に旅行に行ったりして」
「……なんの話だ」
隣から静馬の怪訝そうな声が聞こえて、怜治はぎゅっと目を瞑った。脳裏に浮かんだ想像の光景は、そんなことで消えるわけではないのに。
親しくしている父親同士の姿は、いつか来るであろう日の怜治と静馬の姿でもあった。このまま何事もなければきっとそう遠くない未来に自分たちもあんな関係を築く。今まさにそこへゆく道の途中にいる。
同じ塀に囲まれた隣の家で、まだ知らぬ誰かと暮らすのだろう。
「…………嫌だなぁ」
ぽつりと落ちた言葉に重なるように、り、と窓の外で鈴虫が鳴いた。
「さっきから、なんの話をしているのかわからないんだが」
「わかってくれる?」
ちらりと隣へ視線を向けると、静馬と目が合った。いつもそうだ。なにか言いたいことがあって静馬を見ると必ず目が合う。それは偶然などではなく、ただ静馬がいつも怜治を見てくれているからだと、本当はずっと前から気づいていた。
「わかるように話してくれるなら」
そう言って静馬はすこし首を傾げる。長い指が持っていた菓子楊枝が、食べかけの紅葉の横に置かれた。
ずっと一緒にいたのは自分だという自負がある。けれど例えば同じ幼馴染である遊馬がこの家や怜治から離れても、遊馬に大切な人ができてもきっとこんなふうには感じない。素直に応援するだろう。
だから怜治の心を、そうさせたのは静馬だ。
「じゃあ、俺と付き合って」
するりと口から零れ落ちた言葉は、怜治にとっては決して唐突なものではなかった。ひとりの人間を自分のものにする、相手にとって唯一の特別な存在になる、もっともわかりやすい方法。
静馬の表情が、怜治にだけわかるくらい小さく強張る。頭がわずかに揺れて、高い位置で結った髪がさらりと流れた。
「怜、」
「本気だよ」
いま静馬がなにを考えているのか、手に取るようにわかる。賢くて、優しくて、ひとを理解するのに長けた心が、怜治の言葉の真意を測ろうとしている。
だからそんなことをしなくてもいいように、もっとわかりやすい言葉を使うことにした。
「俺の恋人になって」
静馬の目が、なにかを必死に見ようとするかのように見開かれた。そんなことをしてもいま彼が求めているものはたぶん見えないだろうと思う。視線の先には怜治がいて、怜治はただ静馬を見つめているだけだ。
それをわざわざ口にはしない。少なくとも静馬が怜治のことを見ている間は、静馬は怜治のものだった。
なにか求めたものを見つけたのかそうでないのか、静馬は引き結んでいた唇をゆっくりと開き、絞り出すような声で言った。
「……断る」
驚いたし、驚かなかった。
どうしてと思う気持ちと、静馬ならきっとそう言うだろうと予測し得たものの答え合わせがぶつかって、怜治の中で波を立てる。これは嵐だ。怜治にだけ吹き荒れる嵐。
「どうして?」
できるだけ声を抑えるように努めた。そうでなければ叫び出してしまいそうだった。
静馬はそっと目を伏せる。答えはない。あるいはその態度こそが答えなのかもしれなかった。言いたいことがないはずはないのに、静馬はあまり大切なことを多くは話してはくれない。話してくれたらいくらでも聞くのに。
「俺が嫌いなら嫌いって言って。そうしたら諦めるから」
「怜治」
「言ってみろよ」
静馬の瞼がゆっくりと持ち上がって、その瞳がまた怜治へ向けられた。いつもすべて見透かすような青灰色が、今は違う色に見える。
「言えるはずがないだろう」
「静馬くん、案外嘘つけないよね」
嘘でも嫌いって言えば思い通りになるのに、優しいな。自嘲するような響きになってしまったのは静馬にも当然伝わっていて、彼は堪えるように眉を顰めた。
「そういうところ好きだよ」
正しくは、そういうところも、だ。
今ここに鏡はないけれど、自分がカメラの前に立っている時のような顔をしているのはわかった。
「……もし、ここで頷いたとして」
静馬が慎重に言葉を選びながら言った。なんと続けるつもりなのかわかってしまって、心に石を抱かされたような気持ちになる。
「この先俺のせいでお前が後悔するようなことになったら」
「しない」
その石の重みでなにも言えなくなってしまう前に否定した。遮られた静馬がぐっと息を呑む。
「後悔なんて絶対にしない。今までに選んできたものを後悔したことなんかない。知ってるだろ」
後悔を、してしまいそうになったことはある。それを止めたのは他でもない静馬だった。満足のいかない結果に終わってしまったことを悔いかけた怜治に手を上げてまで、後ろを振り向かず常に目標に向かって走り続ける「諏訪怜治」の姿にさせたのは静馬だ。
「俺が後悔したのは、静馬くんを怪我させた時だけだよ」
これだけは偽りようのない本当のことだ。怜治の軽はずみな行動がなければ、それを庇って静馬が怪我をすることもなかった。
もしそうだったら、と詮無いことを考えたことはある。静馬は留年せずに今頃は大学生になっていただろう。ストライドを始めたかどうかもわからない。あるいは同じランナーとして、テイクオーバーゾーンでハイタッチを交わしていたかもしれない。どれもあったかもしれず、起こらなかった仮定の話だ。
静馬の目が、迷路の出口を探るように瞬く。こんな表情を見るのは初めてかもしれなかった。
「……どうなりたいんだ」
「静馬くんを他のひとに渡したくない」
怜治の目的は明確だ。静馬を手離したくない。恋人という肩書きは絶対条件ではないけれど、いま出来得る最もわかりやすい関係だったし、怜治にとっては不思議なほど抵抗がなかった。静馬にとってどうかは知らないが、少なくとも嫌われてはいない自覚はある。
「……そんなことを望まなくとも私は怜治様のものですよ」
「本気で言ってるなら殴るぞ」
もしも怜治が靴を舐めろと言ったら静馬は躊躇いなく跪くだろう。
「ねえ」
それなのに、恋人にはなりたくないと言う。
「俺を喜ばせることが、静馬の喜びなんだろ?」
静馬が鉛を飲んだような顔をした。今の静馬の態度が、怜治の役に立つという彼のポリシーに反していることは自分でもわかっているらしい。
静馬は理想を重んじるきらいがある。それは美しいことではあるが、時に枷となって言動を縛るものだ。怜治が欲望を叶える己の姿を追い求めるのに対し、静馬の理想はあるべき姿を思い描いていた。
それは怜治自身の望みとは必ずしも一致しない。現に今も。
「そんな立場を取らなくても、俺はお前のそばを離れたりしない。お前が離れろと言うなら別だが」
「そうじゃない。俺が欲しいのはそんな言葉じゃない」
聡い幼馴染が、どうすれば怜治が喜ぶかわからないはずがないのに、それを選ばないことが無性にもどかしかった。
ひとの心は思い通りにはならない。努力してランのタイムを上げたりダンスの振りを覚えたりすることとは全く違う。静馬の心は、怜治の努力の及ばない部分だ。どんなに言葉や態度を尽くしても、静馬自身が納得しないことにはどうにもならない。
「……だから付き合えと?」
「形が欲しい。証拠になるものが」
「それが恋人?」
見たものを視線で本当に射抜くことができたらいいのに。そうしたら、静馬を繋ぎ止めることができるのに。
静馬は霧を払うようにかぶりを振った。
「怜治、それは……それはなんの答えにもならない。わかるだろう」
聞き分けの悪い子供を窘めるような言い方だった。伝わっていないと突きつけられたようで肚の底が重くなる。
「……静馬くんは、俺のことは嫌いじゃないけど、恋人にはなりたくないってこと?」
なにを確認しているのだろうと思う。自分の口から出たはずなのに、知らないひとの声のようだった。
そうだ、と静馬は常になく低い響きで頷いた。そんなに顔を歪めるくらいなら、いっそ全部振り切ってしまったほうが楽になれそうな気がするのに、それをしないのが静馬というひとなのだった。
「わかった。じゃあ、付き合わなくていいから、」
怜治の欲と静馬の理想の間にふたりでいられる場所を探る。たぶんそういうことは、静馬よりも怜治のほうが得意だ。
「キスして」
静馬の目が見開かれて、瞳の色がまた変わったように感じた。怜治の姿が映っているからだ。間違いなく、怜治だけが。
こんなことをしなくても静馬がきっとこの先一生離れて行かないことは頭の隅ではわかっていて、だからこれはただただ怜治がその上でもうひとつなにかを欲しがっているだけだ。静馬が確実に、怜治のもとにいるという証が。
「静馬くん」
床に座ったまま半歩分だけ身体を寄せた。静馬の匂いが強くなる。
静馬はぴくりと肩を震わせて、でもそれだけだった。離れはしないし、怜治を突き放しもしない。
結局そういうことなのだ。静馬は怜治を完全には否定しないし、嘘もつかないし、離れても行かない。それは怜治がそうさせたのではなく静馬が選んでいることだ。その証が欲しかった。感覚でわかり合うのではなく、互いに目に見える認識で。
床に放られていた静馬の手に右手を重ねる。手のひらの下で長い指が強張った。こういう触れ方をするのはいつ以来だろう。
静馬が視線をその手に下ろした。睫毛が伏せられて、頬に影が落ちる。静馬の手のひらが上へ向いて、怜治の手を包み込むようにすくい上げた。怜治よりもわずかに体温の低い静馬の手。
心臓が早鐘を打っている。その勢いでなにか衝動を起こしてしまいそうなほど。
静馬が目を伏せたまま、怜治の指先に唇で触れた。
吐息がかかってじわりと熱が灯る。まるでそこだけ別の器官になってしまったようだった。持ち上げられた手はそのままに、静馬の顔がそっと離れるのをただ見ていると、静馬が視線を向けてきた。これでいいかと問うてくる瞳に背筋が震える。
いいはずがない。こんなもので満足すると思われてはたまらない。
「唇にも」
ねだる言葉は命令じみていただろうか。もうあまり、正気の判断ができなくなっていた。欲しがったものがこんなふうに目の前にあるのに、正気でいることにどんな意味があるだろう。
静馬は瞼を下ろし、なにか覚悟を決めたように再び瞳を見せた。怜治の手を握ったまま、右手で怜治の頬をゆっくりと、確かめるようになぞる。指先が耳と首筋を掠めてそこにも熱を灯した。
「……触れても?」
尋ねてくる淡いグレーの瞳に強い感情はない。ただ、今はそこに怜治だけが映っている。
それは、それこそが、怜治のあまたの「欲張り」の中でいっとう求めたものだった。
「ずっと、そうして欲しかった」
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