All I need is You

 予定よりも少し早く、夏が終わった。
 全力を出した。本気で走った。できることはすべてやったし、妥協したことなどない。全員が持てる力を尽くして、そうして、西星学園ストライド部は、決勝へ進むことなく夏を終えた。
 どんな試合をしたとしても、記録は結果がすべてだ。
 身を裂かれそうなほど悔しくても、弱音を吐いたのは一度だけ。後悔を引きずることは、静馬が許さなかった。
 だから今も、いつもの部長の諏訪怜治の顔をしてここにいる。
「引き継ぎかぁ」
 部員数三十名を超える大所帯のストライド部の部室は広い。それを今は三人で使っている。他の部員は皆、基礎トレーニングに出払っていた。
 静馬、万太郎と机を囲んで、怜治は並べられた資料を見渡した。何枚もの紙に、一、二年生の全部員のデータが出力されている。氏名、学年、顔写真、身長体重、ランのタイム、ストライドの得意分野。よく見知った者もいれば、数度会話した程度の者もいる。
「たっすんすまっちめーちゃんはレギュラー継続かにゃあ」
 万太郎が紙を一枚取り上げてひらひらと振る。二年生を総合的な実力順に並べた資料で、先頭に匡、次に遊馬の名前があった。
「今のメンバーを決めたのは四月時点の実力だからね。もしかしたら俺たちがEOSとギャラスタにかまけている間に、力をつけた奴がいるかもしれないよ」
「マッキーとか?」
 蒔山は一年生でありながら、いきなり怜治に勝負を申し込んできた部員だ。初夏の頃の出来事を思い出してくすりと笑う。彼の実力は当然のように怜治には遠く及ばなかったが、あの心意気は買ってもいい。
「ふふ、そうそう。とにかく、一度全員のスキルを測り直したほうがいい」
「今週中に実施しましょう」
 静馬は机に置いていた手帳を広げた。九月のカレンダーに試合の予定はもう、ない。
 次の部長と副部長を任命し、その仕事を引き継いだら、怜治たち三年生は部を引退する。ギャラクシー・スタンダードとしては三月に卒業公演を行うまで活動が続くが、ストライドの選手としてはこれからは後輩たちが主役だ。
 エキシビションや交流試合は冬でもある。春になればまた次のEOSに向けての試合が始まるから、それまでに各々がスキルを磨き、経験を積んで、四月の新レギュラー選考に臨む。そこで選ばれた者が来年のEOS出場者であり、九代目ギャラクシー・スタンダードとなるのだ。
「みーんな測り終わったら、ひとまず仮のレギュラー戦隊六人組が必要なのにゃ」
 まずは冬の間のスターティングメンバーを決め、トライアンドエラーを繰り返して個々人やチームのブラッシュアップを図るのが習わしだった。そのメンバーは当然、一、二年生から選出するから、現レギュラーを継続させたとしても三人は新しいメンバーが入ることになる。
「団体競技ですから、ランナー同士のバランスも考えなければ」
「新しいリレーショナーとの相性もね。そこは静馬に任せるよ。どうせ目星はつけてるんだろ?」
「何人かは。しかしやはりランナーと合わせて選考すべきですね」
「じゃあやっぱり、決められるのは来週か」
 よきランナーがよきリレーショナーとは限らない。同じ競技の選手でありながら、このふたつのポジションに求められるものは大きく異なる。ランナーとして芽が出なくても、リレーショナーとしては一流、という可能性は大いにあって、それはストライドのおもしろさや奥深さに直結している。これを見極めることができなければ、勝てるものも勝てなくなってしまう。
「部長は? やっぱりたっすんに引き継ぐのかにゃ?」
 万太郎が部室をぐるりと見渡した。ロッカーが整然と並ぶ空間に、今頃コーチの指導を受けているであろう後輩の面影を見ているのかもしれない。
「匡と遊馬、どっちかが部長で、どっちかが副部長かな。あのふたりはあれでバランスが取れてるから」
「あー。すまっちのほうが、近寄りやすくはあるよねぇ」
「静馬はどう思う?」
「皆、怜治様の決めたことに従いますよ」
「だから困ってるんだよ」
 そう嘯いた怜治の口元は笑っている。
 ここでたとえ静馬が誰かを指名したとしても、最後には怜治が決めるのだ。それなら余計なノイズは入れないほうがいい。
「チヨマッツァンはねー、おもしろいほうがいいと思う!」
「あ、それは俺も同感」
 怜治の同意を獲得した万太郎が、満足気に頷いた。誇らしげですらある。
 窓の向こうの日は高く、大きくとられた窓から惜しげなく光が降り注いでいる。部屋の中に舞う塵がその光を浴びてちらちらと白くきらめいた。
「引退しても、れいくんはどうせエキシに呼ばれるのにゃ」
「そうかなぁ。後輩の出番を奪っちゃうみたいじゃない?」
「でもでも、呼ばれたら断らないくせに」
「そりゃあ、呼ばれたらね」
 エキシビションの大きな大会では、引退した三年生が出場することもある。パフォーマンス重視の試合で、観客に望まれていることがわかっている場合が主だ。
 そんな場で「ギャラスタの諏訪怜治」が望まれないはずがない。それは怜治も、後輩たちも理解している。もちろん仕事や学業との兼ね合いもあるが、いずれ声がかかるだろう。
 けれどそれは、この夏にのめり込んだストライドとは決定的に違うものだ。あの六人で走る夏はもう二度と来ない。静馬の合図で走り出すことも。
「……やっぱり断ろうかな」
「え、なんでなんで?」
 怜治は答える代わりに目を細める。
 机を挟んだ向かいでは、今日の話し合いはもう終わったと判断した静馬が資料をまとめてファイルにしまっている。その手元から顔へと視線を上げると静馬も怜治を見て、すべてわかっているとでもいうかのように微笑んだ。

 ストライド部の夏が終わっても、九月はまだまだ真夏だ。もうしばらくは茹だるような暑さが続くだろう。西星学園ストライド部のトレーニング設備は主に屋内にしつらえられているが、外に出ないわけではない。焼かれるような日差しに照らされるたび、あの日のことを思い出す。終わったものに対して振り向くことの少ない怜治には珍しいことだった。
 あのあと後輩に指導するという名目で彼らのトレーニングに混ざったけれど、大会の間にこなしていた運動量に比べるとウォーミングアップのようなものだった。近くにいる部員に気まぐれに声をかけ、相手をしてはまた別の部員に目をつける。チャイムが鳴るまでそれを繰り返した。
 今日は夜に仕事が入っておらず、制服に着替えてそのまま帰路につく。車のウインドウ越しに、道路に揺らめく蜃気楼を見た。
「そういえば、進路調査が来たけど」
 帰りのホームルームで事務的に配られた紙は、春の頃から定期的に配られていたものと同じフォーマットをしていた。今までは「一次」「二次」だった表題が「最終進路希望調査」となっただけだ。
「静馬は建築?」
「そうだな」
 静馬の答えに躊躇いはない。彼が諏訪家の庭で汗水流して肉体労働しているところはうまく想像がつかないが、いずれ父親の跡を継ぐつもりでいるのはわかっていたからその進路に意外性はなかった。
「そっか。俺はどうしようかな」
 アスファルトを溶かすような蜃気楼の揺らめきを見つけては注視する。車は一定の速度で走り続けていて、それにあわせて見える景色も同じ速度で後ろへと去ってゆく。
 選びたいと思えるものはいくつもある、けれどどれかひとつに絞るのは難しい。欲張りなのは昔からだ。欲しがったもののひとつは怜治の手中に収まることのないまま、夏の彼方へ行ってしまった。海外へ行けばストライドで高みを目指すことも可能だが、他のものを手放さなければならなくなるだろう。
 芸能活動も、ギャラクシー・スタンダードとしては三月で終わりだ。歌やダンスを続けたとしてもこれまでとは違うかたちになる。諏訪家の門下生からはっきりとした立場を求められている自覚もあった。
 すべて怜治が望んで選んだことだ。こうなることは初めからわかっていた。それでもいざ直面すると、翳ってしまうものがある。
「怜治は」
 静馬が前を向いたまま言った。沈黙の凪にさざ波がひとつ立つ。
「やりたいことをやればいい」
 淡々と、断ずるような声だった。それが怜治の力になると、きっとわかって言っている。
 静馬はいつもそうだった。怜治がなにか意見を聞こうとしても、結局は怜治の希望が優先される。呆れた顔を装ってみせることもあるけれど、本当に愛想を尽かしているのならとうの昔に離れているはずだ。もしも怜治が留学してストライドを続ける、静馬もリレーショナーをやってほしいと言えば、静馬はついてくるだろう。ストライドを始めた時のように。
 不意に思い出したのはいつかの撮影の光景だ。編集者と対等に意見を交わす静馬はまるで彼女と同じ社会人のようだった。取材に限らず交渉ごとは静馬の得意とするもののひとつで、もしもそういう力が必要とされる仕事に就いたならきっとうまくこなすことだろう。
 あるいは、と、怜治は運転する静馬の背中を見る。
 誰かひとりの女性が静馬の隣に並ぶ日がいつか来るかもしれない。その可能性は限りなく高い。怜治と静馬が父親たちのように生きてゆくなら、それは半ば約束された未来だった。
 あの日怜治の意識に引っかかったのは、つまるところ静馬なのだ。
「……静馬くんは」
 幼馴染の未来を思う。怜治とはまた別の意味で、静馬も生まれた時から定められた道の上にいる。それを外れることは不可能ではないが、エネルギーの要ることだ。
「やりたいことをやってる?」
 バックミラー越しに視線が合った。青灰色の瞳が、眩しそうに眇められる。
「俺はいつもやりたいことをやってるよ」
 そうだろうか。念を押したところでどうせ静馬は頷くだけだ。
 ――そうならいい、そうだといい。静馬が欲して選んだ場所が、怜治のそばであればいい。そうであってほしい。
 静馬がウインカーを左に出した。車は緩やかなカーブを下り、高速道路から市街に出る。いつもより早い時間だからか、いつもより道が混んでいた。家に着くにはもう少しかかりそうだ。
 六本木を出た頃はまだ高かった太陽も、南下しているうちにだんだんと傾いた。気温は夏でも暦は着実に進んでいることを実感する。
 夏が終わり、秋が来るのだ。

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