All I need is You

 車を降りてから建物に入るまでの数分の間に吹き出した汗を、静馬が差し出したハンカチで拭う。彼もやはり汗をかいて、額にハンカチをあてていた。
 静馬の鞄からはなんでも出てくる。怜治からなにか持っておいてもらうように言ったことはないのに、怜治に必要なものがそこから取り出され、必要なタイミングで与えられた。まるで静馬自身の象徴のようだった。
 毎月恒例の雑誌の撮影は慣れたもので、いつものスタジオに馴染みのスタッフが揃って出迎えてくれた。その他にひとの気配はなく、今日は隣でランルーリーの撮影はしていないのかと密かに少し落胆する。
「お顔に出ていますよ」
 入りの挨拶を済ませて壁際へ寄ると、静馬が小声で耳打ちしてきた。いつも通りの澄ました顔をしているが、呆れているのは声音でわかる。
「あれ」
「そんなにきょろきょろされては嫌でも気づきます」
 カメラの調整をしているスタッフが視線をこちらへ向けて、申し訳なさそうに会釈した。怜治たちが予定よりも早く着いてしまっただけなので彼女に落ち度はない。微笑んで手を振ることで応える。
「またすぐに会えるでしょう。トライアルツアーが終われば、翌週にはプレパーティです」
「うん。そうだね」
「方南が勝ち進めば、ですが」
「そうでないと困るよ。合宿までしたんだから」
 合宿をしたのは方南のためであったし、もちろん西星のためでもあったが、一番は怜治のためだった。合同合宿をしたいと言った時に静馬がわずかに眉を顰めたことには気づいている。敵に塩を送るなんてと危惧したのだろうが、それを口にはしなかったのは言ったところで怜治が合宿を諦めるわけではないとわかっているからだ。
 怜治の望みを叶えることに関して静馬の手腕は群を抜いていて、西星内部でも方南相手でも手続きは滞りなくあっさりと進んだ。怜治が方南と西星と自分の個人的な願望のために合宿を決めたことに対し、静馬はただ怜治のために動いている。昔も、今も。
「でもほら、三日間ずっと一緒にいたのに、急に会わなくなったらやっぱり寂しいじゃない」
 合宿はストライドの練習として十分に意味があったし、普段と違うことをするのはそれだけで刺激になった。西星のレギュラーメンバーだけでも賑やかなのに、方南が加わると輪をかけて騒がしい。匡は辟易していたようだが、彼にとっても糧になるものがあったのは見ていればわかる。もちろん、他のメンバーも。
 静馬にとってはどうだろう。テレパスを方南のリレーショナーに教えたことは、静馬の糧となっただろうか。
「諏訪さん、お待たせしました。メイクお願いします」
 静馬がなにか言うよりも先に、ヘアメイクのスタッフから声がかかった。怜治の身支度が終わる頃には機材の準備も終わっているだろう。
「はい。……じゃ、お先」
「行ってらっしゃいませ」
 移動する怜治を見送って溜息をひとつ。怜治の無邪気さは魅力ではあるが、静馬にとっては懸念材料でもある。彼は自ら障害を積み上げて飛び越えることを楽しむきらいがあって、その人生がなるべく穏やかなものであってほしいと願う身には胃の痛くなる部分であった。
「おはようございます」
 開いたドアから耳馴染みのよい声が届いた。声の主は中を見渡し静馬に気づいて、ぺこりと頭を下げる。
「楓。おはようございます」
「あれ、静馬さん、ひとりですか?」
「怜治様は先にメイクルームへ」
 ああ、と楓は納得したように頷いた。
「じゃあ、まずは僕たち三人ですね」
「ええ。あとの三人は三十分後に」
 調整を終えたらしいカメラマンが顔を上げて静馬を見、隣の楓に視線を移す。向こうからなにか言われるより先に楓が、おはようございます! と声を上げて挨拶に行った。
 いつもの光景だった。手を抜くようなことは誰もしないけれど、イレギュラーなことは起きない。今日の仕事はこれが最後だから、慣れた段取り通りに撮影が済めばあとは車で鎌倉の家へ帰るだけだ。
「お待たせ。つぎ静馬――ああ、楓、来てたんだ」
「怜治さん! おはようございます」
 ヘアメイクを済ませた怜治が戻ってきた。洗いたてのシーツのように真っ白なシャツに細身のジーンズ、ハイカットの赤いスニーカー。ステージ衣装に比べるとシンプルで、だからこそ普段のギャラクシー・スタンダードを見慣れているファンにとっては目新しく映りそうな格好だった。
 衣装が抑えられている代わりにヘアセットに遊びを入れて、緩く巻かれた毛先があちこちに跳ねている。スタッフが意図したことかは定かではないが、怜治自身の奔放さが表れているように静馬は思った。
「楓でもいいよ。どっちが先に行く?」
「私が行くと思われているでしょうから、行きますよ。楓はもう少し待っていてください」
「わかりました」
「怜治様。くれぐれもケータリングは控えめに」
「わかってる、わかってるよ。行ってらっしゃい!」
 怜治が急かすようにひらひらと手を振る。静馬が眉をひそめるようなジャンクフードを彼の目を盗んで食べるのはよくあることだったし、どうせ静馬もそれをわかって言っているのだ。だからこの小言も、小さな棘を生やしているように見せているだけで、刺すつもりも刺されるつもりも初めからない。
「あっ、静馬さん」
 移動しようとする静馬を呼び止めたのは、この雑誌でギャラクシー・スタンダードを担当している編集者だった。副編集長も務める彼女の、完璧に巻かれた栗色の長い髪が、顔を静馬へ向けたのに合わせてさらりと流れる。
 静馬は立ち止まり、身体ごと呼ばれた方へ向けた。
「すみません、来月のことで少しお時間をいただきたいのですが」
「わかりました。撮影の合間に待ち時間があるでしょうから、その時にでも」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 最低限のやり取りで用件を済ませた彼女は仕事に戻り、静馬も今度こそ出て行った。
 ギャラクシー・スタンダードには山根というマネージャーがついているが、彼が万太郎と匡と同居していること、メンバー六人が別の仕事をすることが少なくないこともあり、必ずしも現場に同席するわけではない。今もここに山根の姿はなく、そういう時に仕事の打ち合わせや調整をするのは静馬の役目だった。彼女もそれを理解しており、だから静馬に声をかけたのだ。
 それだけの、仕事場ではよくある一場面が、今日はなぜか怜治の中に微かな爪痕のような違和感を残す。
「怜治さん?」
 静馬を見送ったまま黙り込んだ怜治の斜め前で、楓が見上げるように振り返った。
「どうかしましたか?」
 どうかしたか、などと。違和感の正体がわからないことには答えようがない。それに楓には話す必要のないことだと、これは掴み損ねたものの名前を知らずともわかることだった。
「なんでもないよ。さっ、楓、静馬が戻ってくる前に一番カロリーの高いおやつ食べちゃおう」
 ぱちりと音のしそうなウインクを投げた怜治の頬にかかる髪が一房、外へ向けて揺れた。

「怜治様」
 滞りなく撮影を終え、私服に着替えていたらいつの間にか見えなくなっていた静馬の姿が、後ろから現れた。
 スタジオの一角に設置されたケータリングのテーブルから拝借したチョコレートケーキを齧りながら振り返る。静馬は一瞬眉根を寄せたが、それについてはなにも言わなかった。
「申し訳ありません、打ち合わせにもう少し時間がかかりそうで……よろしければタクシーを呼びますが」
 静馬の表情はいたって真面目だ。
 大袈裟だ、と怜治は思う。保護者が必要な子供ではないのだから、本当に早く帰りたいなら電車に乗ればいいだけだ。見つかって多少騒がれはするかもしれないが、あしらえないほど未熟でもない。
 けれどそれは選択肢の話であって、怜治がそれを選ぶ理由はなかった。
「いいよ、急いでないし。向かいのカフェで待ってるから、終わったら連絡して」
「わかりました。できるだけ早く済ませます」
「うん」
 まっすぐに怜治を見て目礼すると、静馬は踵を返して足早に去っていく。結い上げられた淡い色の長い髪が、彼が歩くのに合わせて左右に揺れた。
 怜治がとりえた選択肢はもうひとつあって、打ち合わせに同席してもよかったのだ。怜治はギャラクシー・スタンダードのメンバーでありリーダーなのだから、仕事の話の場にいてはいけない理由はない。
 自分も行く、と言わなかったのはなぜだろう。怜治の意見が必要なら、静馬のほうから来てほしいと言ったはずだ。けれどそれは言われなかった。今回の件に怜治はいなくていい、静馬はおそらく怜治を煩わせるまでもないと思っている。煩わしいと言ったことなどないのに。
 不意に撮影中の光景を思い出した。怜治が他のメンバーとの撮影をしている間、静馬はスタジオの隅で件の編集者と打ち合わせをしていた。机に並べた資料やパソコンの画面を見比べて、声は届かないけれど真剣に話し合っているのはわかる。彼はいつも実年齢より落ち着いて見られるほうだけれど――実際怜治よりもひとつ歳上であるし――今日はそれがより顕著だった。
 離れていく、見慣れているはずの静馬の背中がいつもより大人びて見える。遠ざかる影がドアを出て見えなくなるまで、怜治はじっとそれを見つめていた。

 夜のカフェは静かだった。人もまばらで、時間の流れが緩やかに感じる。
 怜治は窓に近い席を選んで座った。通りに面した窓の真横に座ったら迎えに来た静馬が怒るだろうから、それよりは中の、外の様子が見える席。表を過ぎゆく人々はみな忙しなく、店の中など見向きもしない。怜治は目深に被っていた帽子の鍔を少しだけ上向けた。
 テーブルの上ではアイスカフェラテのグラスが汗をかいている。席についてすぐに半分飲んでしまい、残りがそのままになっていた。氷が徐々に溶けてさっきよりも随分と色が薄くなっている。持て余した指先でストローを弄えば、小さくなった氷がグラスにぶつかってからんと涼しげな音で鳴いた。
 表に向けてテーブルに置いたままのスマートフォンは大人しい。ここに来てからずっと、静馬からも、誰からの連絡も告げなかった。こんなことなら今度出演するドラマの脚本でも読んでいればよかったと思っても、その脚本は静馬の鞄に預けたままだ。
 じっとしているのは落ち着かない。なにかにのめり込んでいるほうが性に合っている。
 ストライドもそのひとつだった。性に合っているのだ、とても。惹かれて始めたことでも、違うと思ったらしがみつきはしない。ストライドはそうではなかった。思わず目を瞠るほど怜治に馴染んだ。誰よりも早くゴールするというシンプルさ、チームで戦う面白さ、他の陸上競技にはないリレーションやギミックの存在、そして、いつも隣に静馬がいた。怜治が夢中にならないはずがなかったのだ。
 最後の夏はもう始まっている。最後の夏の、その終わりへと、あとは駆け抜けてゆくだけだ。
 窓の外へとまた目を向ける。今は夜のネオンと賑わいがさざめく大通りを見て、日の射す青空の下、交通規制されて通行人がいないところを想像した。この街は今年のEOSの会場ではないが、もし走るとしたらどんなふうになるだろう。スタートエリア、背後から近づく歓声を聞きながら、インカムに耳を澄ませる。目を閉じて、静馬の合図を待っている。
 ――3、2、1、GO!
 静馬の声で走り出すのが好きだった。弾かれたように飛び出した身体は軽く、酸素を取り込んで加速する。そのままどこまででも走っていけそうな気がした。後半に脚が重くなっても、呼吸が苦しくても、走れないと思ったことはない。怜治の欲しいものは走り続けた先にしかないのだから。
 スマートフォンのバックライトが点いて短く振動した。怜治は伊達眼鏡越しの視線を、窓の外から画面へと下ろす。表示されている待ち人の名前に目尻を下げた。
 数度のタップでメッセージを表示させる。彼の連絡はいつも簡潔だ。
『終わりました。車を外へ回します』
 了解、と手を挙げるゆるキャラの画像を送って返事した。
 グラスの中に残っていたカフェラテを啜る。氷はすっかり溶けきって、薄い水の味しかしない。ストローを咥えたまま横目で外を見ていると、ちょうど怜治が飲み干すのと同じタイミングでよく見知った車が現れた。
 車から降りた静馬が、まるで怜治がどこに座っているのか知っていたかのようにまっすぐに怜治を見る。このまま店の中まで迎えに来かねないのを目で止めて、手早く会計を済ませ外へ出た。
「怜治様。お待たせしました」
 静馬が流れるような仕草で後部座席のドアを開けた。
「なるほど、執事ね」
「なにか?」
「いや。どさんこちゃんが、静馬のこと執事みたいだって言ってたから」
 いつか方南のリレーショナーとした会話を教えると、静馬は困ったように苦笑した。他意のあるなしに関わらず言われ慣れたことだ。世間一般の幼馴染はこんな関係は築かない。庭師の仕事でもない。ただ怜治と静馬にとっては、パズルの正解のピースのようにぴったりとうまくはまる関係なのだった。
 怜治が乗り込んでからドアを閉め、静馬が運転席に座る。左側通行の日本の道路では左ハンドルは運転しづらいとされるけれど、歩道への行き来はしやすいのだと、静馬が車を運転するようになって知った。
 出しますよ、と静馬の声が穏やかに告げ、車はエンジンの心地好い振動とともに滑らかに走り出した。ウインドウの外を色とりどりの明かりが通り過ぎて、視界の端に尾を引いては消える。
「……ねえ静馬」
「はい」
「打ち合わせ、どうだった?」
 静馬がバックミラー越しに一度視線を向けてきて、すぐに前へ戻した。
「特に大きなことはありませんよ。来月の撮影の日取りや内容を相談されただけです。決定事項は改めて先方から連絡が来るかと」
「結構時間がかかってたみたいだけど」
「なにせ向こうの要望が多くて。……なんだ、待たせたから拗ねてるのか」
 帰路についたせいか、従者然としたほうの静馬は今夜は閉店らしい。代わりに幼馴染の「静馬くん」が、からかうような声で言った。
「違うよ」
「どうだか」
 くすくすと笑う気配が、閉じた車内の空気を揺らす。昔のもっと聞き分けの悪かった頃のことを思い出しているのかもしれない。
「本当に違うってば」
「ああ、はいはい。仰る通りです」
 わかっているのかいないのか、静馬はあしらうような態度のまま。それが本当かどうかよりも、怜治と軽口を叩いていることのほうが楽しいのだろう。怜治だって静馬とたわいのない応酬をするのは好きだ。
 そうしていると、まだ彼が敬語を使い始めるよりもっと前、ただの幼馴染だった頃の静馬のようだった。ついさっきまでは従者の静馬だったのに。そしてそれよりもう少し前の静馬は。
 ――編集部の女性と向き合っていた姿を思い出す。
 あの時引っかかったものがなんだったのか、怜治は結局その正体を捉えることができていない。
 いつかその輪郭をうまく掴んで適切な処理をすることができるだろうか。今夜わかったのは、少なくとも静馬の顔を見ただけではわからないということだけだった。

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