有利が死ぬ少し前の話
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第二十七代目眞魔国国王渋谷有利の魂は確かに魔族のものであったが、肉体は地球で生まれたものだ。内に抱えた強大な魔力の影響か、地球の人間から見たら有利の成長は緩やかで、年齢を考えると信じられないほど若々しいと評されるほどだが、眞魔国の魔族とは比べものにならない。
有利の歳は百を超えた。外見年齢は地球の人間でいうところの七十歳程度だ。顔や手には皺が目立ち、十代の頃に比べればさすがに体力も落ちたが、双黒の証である黒い髪はいくらかの白髪が混じる程度でまだ艶やかだし、黒い瞳も輝きを失ってはいない。長きにわたって魔王の責務を果たし続けた彼は、今なお玉座に悠然と腰掛けている。
有利を支える者たちは、増えはしたが側近の顔ぶれに変わりはない。みな共に歳を重ね、けれど外見は有利だけが飛び抜けて老いていった。
魂は肉体に従属する。肉体が老いさらばえれば、それは魂の解放される時が近づいているのと同じこと。
有利が城の内外を移動する時に必ず側に控えて護衛につくのはずっとコンラートの仕事だった。情勢に翻弄される中でいっとき離れていたこともあったが、九十年も経てばそれも昔話で、ほんのわずかな期間のことに思える。離反した態度を取っていた時はあの時間を永遠のように感じたが、それよりも遥かに長い間、有利とコンラートは側で過ごし続けたのだ。
コンラートも当然歳を重ねたが、彼の成長は魔族のものだ。年齢は二百を超えても、外見は有利よりもふたまわりほど年下に見える。なにも知らない者がコンラートを従えた有利を見たら、王が年下の臣下を可愛がっているように思うだろう。
魔王として特別な予定のない日の過ごし方は、いつも変わらない。朝、コンラートが有利の自室に起こしに来る。以前はランニングをしていたロードワークはさすがにジョギングや散歩に変わったが、有利は暇さえあれば身体を動かしたがった。執務室で有利が仕事をする間はコンラートは隅に控え、仕事が終われば主の望む場所へついて回り、夜は寝室へ送り届ける。
魔王が平和を守る眞魔国、有利が起居する血盟城の中は、もう危険などほとんどないといってよかった。城門のセキュリティは門番が守るし、城じゅうのあちこちに兵が配置されている。有利自身も剣豪仕込みの剣技や護身術を覚え、戦地でもない自分の城で万が一なにか起きた時に咄嗟に身を守る程度のことならばできる。中庭や風呂や自室間の移動に逐一護衛をつける必要はない。それは有利もコンラートもとうに承知していることだ。
だから、それでも一日中、有利が眠るために自室へ戻る時までずっとコンラートが隣に立つのは、彼らがそれを好き好んでやっているからに他ならない。あまりにもその状況が馴染んでいて、今更もうそばにいなくてもいいなどと考えたことがないだけ。
「コンラッド」
月は明るく、風の穏やかな夜だった。いつも通りに有利を部屋へ送り届け、おやすみなさい、と言ったコンラートを、有利が呼び止める。
「一杯付き合えよ」
棚に並んでいた瓶を取り上げてみせる。丸く弧を描く酒瓶の輪郭は、王冠のかたちに似ていた。中には琥珀色の液体が半分ほど入っており、有利が手首を揺らすのに合わせて、たぷん、と誘うように跳ねた。
眞魔国へ来た頃は禁酒禁煙を公言していた有利だが、身長が頭打ちになると少しずつ嗜むようになった。なにかとパーティに招かれる立場であることを考えれば酒が飲めて損はない。
ギュンターが、初めて口にされるのならこちらを、と城の貯蔵庫から選んだ酒は有利の舌を楽しませた。一方でコンラートがお忍びの城下町で飲ませた安酒には眉を顰め、それ以降有利は飲む酒を選ぶようになった。
我が魔王陛下へ、と酒が献上されることはままある。大抵のものはそれを好みそうな臣下へあげるよと言って渡したり、厨房へ回して料理に使わせるか食事の席に出させるかしたり、来賓を招いたパーティで振る舞ったりした。けれど、いっとう上等で有利の口に合うものだけは、こうして魔王の部屋に鎮座することを許される。
いま有利が掲げているのは数ヶ月前にこの部屋に来た新参だとコンラートは記憶しているが、そのわりに半分も減っているのはいつの間に飲んだのだろうと苦笑する。味を覚えたとはいえ、彼は毎晩晩酌をするようなひとではない。
「喜んで」
コンラートが微笑んで、退室しかけていた脚を有利のもとへ向けると、有利は満足そうに頷いてグラスをふたつ用意した。
よほど気に入っている酒なのだろう。そんな酒を分けてもらえる喜びと、半分も手酌するくらいなら俺を呼んでくれればよかったのにという思いと(自分は安酒で構わない)、なにかあったのかという微かな不安が口の中から出かかって、コンラートはそのすべてを飲み込んだ。
床から天井近くまで大きく取られた高い窓は、テラスへ出入りする扉を兼ねている。黒い格子が──この国の建築物の中で、こんな色の窓格子を使うことを許されるのはこの城だけだ──何本か横切る窓の向こうには、黒い空とぽっかりと浮かぶ月、月明かりに青白く照らされる中庭が見えた。一瞬息を呑んでしまうようなその光景は、祈りの場所のステンドグラスにも似ていた。
その窓のすぐそばに、コンラートの主は佇んでいる。右手に酒瓶、左手にグラスをふたつ持ったやや間抜けな格好ではあるが、窓から射し込んだ月光を全身に浴びて、まるで絵画のようだった。
「コンラッド、そのテーブル持ってきてくれる?」
くい、とわずかに顎を向けて有利が示したのは、壁際に寄せられていた小さな丸テーブルだ。華奢な脚の上に硝子の天板が置かれている。普段はあまり使われないもので、今もなにも載っていない。
「はい」
コンラートはそのテーブルを持ち上げ、ついでに近くの椅子もふたつまとめて抱えると、大股で有利のほうへ近づいた。立ったままの有利の前にテーブルを置く。
そこへ有利が酒瓶とグラスを置くと、こつん、と硝子同士がぶつかって小さく音を立てた。
彼はつぎに部屋の中央の大きなローテーブルから、背の低い燭台を火のついたまま取り上げた。迷いのない動作は、それが有利の日常なのだと告げている。
その様子を見ながら、コンラートは椅子をテーブルに対し向かい合って座れるようにセッティングした。と言ってもただ置いただけですぐに終わるので、片方の椅子を引いてその後ろに立つ。
銀の燭台をテーブルに置いた有利が顔を上げて、視線が合った。月の光に炎のオレンジ色が混ざり、その姿を照らしている。昼間には見られない色合いの中で、黒い瞳がいっそう際立って見えた。
「どうぞ」
「おう」
有利が腰を下ろすのに合わせて、コンラートは椅子を押す。柔らかなカーペットの上を、椅子の脚が音もなく滑った。
他人に椅子を引いてもらう、というのは若い頃の有利の苦手なことのひとつだった。椅子の前に立った後、どのタイミングで膝を曲げ、身体から力を抜けばいいのかわからなかったのだ。
王が椅子に脚をぶつけていてはあまりにも格好がつかないからと、椅子に座る練習をしたのも今では小さな思い出話。
「では俺も失礼して」
「どうぞどうぞ」
向かいの椅子にコンラートも座る。ささやかで、コンラートにとってはこの上なく贅沢な酒席だ。有利は護衛の気持ちを知ってか知らずか、楽しげに笑った。
おれがやると言ってきかなかった有利がグラスに注いでくれた酒は夢のような味がした。口に含む前から、香りだけでその上質さが伝わってくる。ちろりと舐めれば舌の上でアルコールがゆっくりと広がり、熟成された深みに満たされた。
どっしりと重く感じるのは一瞬だけで、香りのよさを残したままアルコールはすっと消える。悪酔いとは無縁の酒だ。
「今までに飲んだどの酒よりもおいしい」
コンラートが率直な感想を述べると、有利は大袈裟だと苦笑した。
「あんただっていろんな酒を飲んでるんだから、他にもうまい酒はあっただろ。ヨザックに聞いたぞ。地方のいい酒はこの城でコンラッドが一番詳しいって」
「確かに各地で酒を飲んではいますが、あなたの注いでくれたこの酒が一等好きです」
コンラートは手元のグラスに視線を落とした。金色の酒が月明かりを浴びて煌めいている。目を細めてみれば、それは大きな宝石のようにすら思えた。
何杯も見境いなく煽るような酒ではない。そんなことをせずともじゅうぶんに満足できる。有利が少しずつ飲んでゆくペースに合わせて、コンラートもグラスの中身を減らしていった。
「静かだ」
そっと睫毛を伏せ、ぽつりと有利が呟いた。すこし遅い照れ隠しだったのかもしれない。
夜を渡る鳥の影が硝子のテーブルの上を横切る。そのほかは、まるで世界が凍ってしまったかのようになんの音も気配もなかった。
「あなたが、こんなに静かな夜を迎えられる国にしたんですよ」
ひどく凪いだ気持ちでコンラートは言った。
「敵襲がない。誰かの悲鳴もない。酒場の呑んだくれたちだって、夜が更ければ眠りにつく。いくらかの夜警のほかはみな夢の中だなんて、あなたがここへ来る前は夢物語だった」
有利が誰よりも深く黒い瞳でコンラートを見る。底のない色に吸い込まれそうだった。いっそ吸い込まれたかった。そうしたら彼にほんとうに取り込まれて、ずっとずっと離れずにいられるのに。
「おれの功績じゃないよ。おれはただわがままを言って……みんながおれを見捨てずにいてくれただけだ」
「本気でそうおっしゃっているのなら怒りますよ」
声音は穏やかでも、言葉の内容は嘘ではない。それを感じ取った有利が戸惑うように小さく瞬きをする。百を超えてなお、彼はときおり少年のような仕草をすることがあって、コンラートはそれがとても好きだった。
「あなたがそのわがままを言わなければ、俺はとっくにどこかの戦場で死んでいたかもしれない。こう言えば伝わりますか?」
決して大きな声ではない。聞かせるために必要なだけの声を出し、けれどそれが空気を揺らして燭台の炎がゆらゆらと踊る。
「うん」
有利が噛みしめるように、確かめるように頷く。
「あんたが生きててよかった」
飾りのない率直な言葉は意味を捉え違えようがなく、コンラートの魂が歓喜で震える。どんな黄金にも勝る褒賞だ。二百年の中で与えられたどんな地位や名誉や褒美よりもコンラートを満たすものだ。
溢れ出そうになるよろこびを噛み締めながら、しかし短く吐息する。
「けれどあまりに平和で、予定が少々狂ってしまった」
「予定?」
「あなたを守って死ぬ予定だったのに」
こんなにも安寧の日々では、もうそんな機会は訪れそうにない。
コンラートが心底残念がるように言うと、有利は、げ、と潰れた蛙のような声を出した。
「なんだよそれ。馬鹿なことを言うな。一生夢に見そうだ」
「ああ、ぜひそうしてほしかった」
「死ぬなよ。おれが死んだら、」
仮定の話、ほぼ確定している少し未来の話にコンラートがひゅっと息を呑む。
「やめてください」
「聞けよ。おれが死んだら、あんたはもうおれのお守りをする必要はないから、どんなふうに生きたっていいけど、絶対に自分からは死ぬなよ。まだ若いんだし、あんたのことを好きな奴がたくさんいるんだから」
別に若くはない。それを言うなら有利はコンラートの半分ほどしか生きていないのだ。遺言をするには早すぎる。それに好いてくれている人の数の話をするならば、どう考えても有利の方がずっと多いし、重みも違う。
有利の言うことすべてに反論したかったが、言葉の真偽の話をしているのではないことくらいはわかるので言わなかった。けれど完全に黙ることもできなかった。
「でもあなたはいないじゃないですか」
「コンラッド」
コンラートのたったひとつの反論に、有利は直接の返事をしない。
「おれの国を頼むよ」
その言い方はずるい、とコンラートは内心で叫んだ。有利が百年治めたこの国は、今やどこへ行っても有利の功績に溢れている。本人の姿はなくとも、あちこちにその気配が、城の中から国境近くの端の町まで、まるで太陽の光が降り注ぐように存在していた。
「ああ、つぎの魔王にコンラッドを指名すればいいかな? おれが命令したら断れないだろ」
「ユーリ、あまり困らせないで」
有利はくつくつと笑った。そんな命令を本当に下すつもりはない。人には向き不向きというものがあるし、日本には適材適所という言葉もある。目の前の男はどう贔屓目に見ても王として人の上に立つのには不向きだった。スザナ・ジュリアがしたように、己の死後までコンラートの行動を縛るつもりもない。
有利自身が王に向いていたかはまた別の話だが、周りに支えながらもなんとか信念を貫いてこれたのだから、及第点はもらってもいいはずだ。
「なあ」
グラスの中で、球体の氷が少しずつ小さくなってゆく。
「おれはみんなが生きてくための国にしたつもりだよ」
黒が不吉な色だと、言い出した人間は誰だったのか。
少なくともコンラートは、これほど優しく深く包み込むような色の瞳を他に見たことはない。
「ええ。知ってる。知っています」
呻くような声が出た。知っている。コンラートよりも若く小さな身体で頂点に立ち続けるのをずっとそばで見てきたのだから。
有利はおもむろに立ち上がって窓の近くのチェストを開き、中から木箱を取り出して戻ってきた。平たい小ぶりの箱には紙のラベルがかけられ、そこに金色の文字が並んでいる。
箱を硝子のテーブルに置き、ぱちんと金属の留め具を外せば、茶色の筒が整列して顔を覗かせた。
葉巻だ。これは酒よりもあとに覚えた。
有利は箱の中から一本を摘み上げ、卓上の燭台の炎で火をつけた。立ち上るのを邪魔された炎が震えて、部屋に落ちる影を揺らす。
ゆるりと腕を持ち上げ、葉巻の端をうすく開いた唇にのせる。コンラートはその動きをじっと見つめた。映像の記録などできないこの世界で、有利のこの姿を思い出すすべは、自分が鮮明に記憶しておくほかにない。
「はい」
コンラートの視線が葉巻に注がれていると思った有利が、箱をコンラートに寄せる。こんなふうにぞんざいに扱うような価値のものではない。
上等なものを覚えてから、有利は貫禄が出てきた。いまや誰もが付き従う王に、一番初めに跪いたのは自分なのだと思うと誇らしく思う。
「いえ、俺は結構」
葉巻が喫いたいわけではないので断る。有利はそれを遠慮と捉えたのか、咥えていた葉巻を唇から離すと、向きを逆にしてコンラートの唇に押しつけた。コンラートが咄嗟に咥えたのを確認して手を離し、新しい葉巻に火をつける。
ちり、と一瞬葉の燻る音がした。
コンラートは長い指で葉巻を支えると、大きく呼吸して瞼を下ろす。視覚情報のなくなった世界はひたすらに葉巻の香りが支配して、その中に微かに有利の匂いもあった。これも記録のしようがないものだ。有利のいない場所で同じ葉巻を喫ったとて、この香りには再会できない。
煙の気配を残したまま酒を口に含むと、アルコールが溶け合って今までとは違う香りがした。そういう香水だと言われたら信じてしまいそうな美しい香りにはっとして目線を上げれば、悪戯が成功したとでも言いたげな黒い瞳がコンラートを見ている。
「あのさ」
有利は顎を上向け、天井へ向けて細く長く息を吐いた。最低限の灯りしかない部屋に、白い筋が昇ってすうっと溶け消える。
「こっちに来て、初めにおれを支えてくれたのがあんたでよかったって思ってるよ。コンラッド」
顔の向きをコンラートへと戻した有利が、少し首を傾げて言った。肩に流れる黒い髪がさらりと揺れて、月明かりに輝く。
コンラートは生まれて初めて自分に絵の嗜みがないことを悔やんだ。もしも自分が宮廷画家であったのなら、今の有利の姿を描いて城に飾れたのに。
「……そんなに俺を喜ばせてどうするおつもりですか」
なんでもない人の相手をするのは得意でも、有利が相手だとうまく口が動かない時がある。そのせいで彼を何度も傷つけたし、今の返事も完璧な正解ではなかった気がする。もっとうまく、スマートな言葉を選べなかったのかと思っても、彼の耳に届いてしまった声をなかったことにすることはできない。
「別に? 臣下は労ってやらないとな」
そう嘯く有利の方がよほど会話が巧みだ。
コンラートは手にしたままの葉巻を指先で弄った。この葉巻すらも、今の状態で永遠に保管できたらいいのにと思う。
目を伏せて、深く、息を吐いた。額のあたりに有利の視線を感じる。
「俺の方こそ、あなたに、ユーリに出会えて……この想いに、なんと言葉を尽くせばいいのか」
「いいよ、言葉なんて」
有利が本当に不要だというように軽くそう返すから、コンラートは星の数ほど並べ立てるつもりだった下手な言葉を全部取り上げられてしまった。一方で、そのことに安堵している自分もいた。
いま、言葉がなんの役に立つだろう。百年を共に過ごしたこと、それ以上の役目をいくつかの言葉が果たせるとはとても思えない。
「ねえ」
それでも零れ落ちてきたのは、あまりにもささやかで、けれど有利にしか叶えられないことだった。
「ここでひとりで晩酌をするくらいなら、俺を呼んでください」
できうる限りの時間をそばに。
有利は目尻に皺を寄せながら、おれが眠る時は子守唄を歌えよ、と笑った。
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