冬の満ち引き

三年生まだ引退してないってことにしておいて

 意地悪な質問をしたと彼は言った。そのとおり、それはひどく意地の悪い質問で、だからこそ真琴を苦しめたのだ。
「本当に? 遙がいるからじゃなくて?」
 うすく透き通った、静かな月のような瞳を僅かに細めた彼の表情はいまも真琴の中にある。

 遙が水泳部を退部した。
 真琴にはなんの相談もなかった。所定の用紙に署名をし、あとは受理されるのを待つばかりの退部届を夏也に差し出す。当然夏也も尚もすぐには受け取らず理由を聞き出そうとしたが、遙は口を開かない。遙の意固地な部分はとうに知られていて、根気比べに負けた夏也が乱暴に紙を掴んで溜息をついた。
「保留にしておいてやる。一週間以内に気が変わったらいつでも戻ってこい。一週間経っても戻らなかったら先生に提出する」
 一週間、遙は部室に姿を現さなかった。郁弥にも旭にも、そして真琴にも、最後までなにも言わなかった。

 重い足をのろのろと運ぶ、ひとりで歩く帰り道は、永遠のように長かった。海から吹き上げる風は容赦なく冷たく、ちらちらと降る雪を真琴にぶつけた。ざざんざざんと波が寄せる海岸の端から端まで歩く間に、日は少しずつ傾いて夜を連れてくる。影は細く長く真琴の足元にまとわりついた。
(真琴は水泳好き?)
 夏の近づいたあたたかい光の中で尚が言ったその言葉が、波音の隙間に聞こえた。
「……はい」
 当たり前だ。小学校の頃から何年もずっと泳いでいた。好きでなければ続かないだろう。
 小さくこぼれた声は風にさらわれて誰に聞かれることもなく消える。
(本当に?)
 また尚の声がする。
 ざり、と靴底が砂浜を擦る。思考にかかるノイズのようだった。
(遙がいるからじゃなくて?)
 意地悪な質問が真琴を責める。
 水泳も、遙も好きだ。遙が泳いでいたから、真琴は選ぶ道に迷うこともない。泳いでいれば隣に遙がいたし、遙と一緒にいればそこに水泳があった。真琴はその両方を掴んで前へ進めばいい。そのはずだった。
 遙が水泳を辞めた。
 真琴が好きなそのふたつの存在はもう道を違ってしまった。真琴は選ばなければいけない。このまま水泳部で水泳を続けるか、否かを、真琴は、ひとりで選ばなければいけない。
(――遙がいるからじゃなくて?)
 ざざん、とひときわ大きく寄せた波が真琴の足まで届いて、靴と制服の裾を濡らした。
 尚の意地悪な質問は、あのときから真琴の答えを知っていたのだ。

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