隠者と皇帝習作 隠者のことかなり都合よく書いてる
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秩序のもとに成立しているこの広い王宮にあって、ただひとり彼の存在だけが異質だった。
彼が何者なのか、どんな経歴で、どこから来たのか、すべてを知る者はいない。皇帝を頂点とした政を行う組織のどこにも属していないのに、彼が王宮のどこでなにをしようと誰も咎めず、声をかけることすら稀だった。彼自身も誰彼構わず話しかけるようなひとではなかったから、下っ端の兵士たちは、彼の姿を見たことはあっても声を聞いたことがない、ということがほとんどだ。
兵士や使用人にとっては動きづらいとしか思えない、ゆったりとしたローブを羽織って、彼はいつもどこからともなく現れる。片手には長い杖を。松明の焚かれた夜の廊下を歩くときには、もう一方の手にカンテラを。まるで触れてはならない秘密が堂々と闊歩しているようなそのさまは、普通の人間ならばまず近づこうとは思わない。向こうとて一介の兵士になど用はないから近づいてこない。
隠者が姿を見せるとき、彼が訪ねる相手はいつだってたったひとりと決まっていた。
皇帝の職務はなにをおいても玉座に在ることだ。王が確かにここにいると示すこと。民を、他国を常に見ていると知らせること。
だから王は特別なことがない限り、いつも玉座に座っている。王冠を被り、真紅のマントを鎧のように纏って脚を組む。謁見に来た者を見下ろす大きな瞳は、お前を見ているぞと言外に告げている。
大抵の人間はそれだけで額を床に向けてしまう。ただ時折そうでない者もいて、そういう人間が王の前に現れるとき、まるでそれを知っていたかのように長いローブの男が居合わせた。
「このたびはぜひとも陛下と貿易の協定を結ばせていただきたく」
客人の男はへらへらと笑いながら早口でそう言った。薄い空色の髪は、この国ではあまり見られないものだ。
「つきましてはお近づきのしるしに我が国で採掘、加工した宝飾品を献上させていただければと存じます」
男は持っていた包みを広げ、王から見えるように掲げた。色とりどりの宝石や金属が、広間にたっぷりと降り注ぐ陽光を浴びて煌めく。
王はその様子を無感動に見て、小さく口を動かした。異国の男は声を聞き取れずに眉をひそめたが、警備に就いている者たちは王が、コウジ、と名を呼んだことを知っている。
「なあに、ヒロ」
いつの間にか玉座の後ろに、ローブの男が立っていた。
少なくともこの客が王の前に膝をついた時にはいなかったはずだ。いつどこから現れたというのか。足音も気配もなかったのに、そこにいると一度認識すると、無視などできるはずがない質量があった。
王──ヒロは、客人を見下ろしたまま、背後に向けて話しかけた。
「どう思う?」
「まるきり悪い話ではないね。この国にない資源もあるし……ただあれを全部受け取るのは早計かな」
「……そうだな」
コウジはヒロにだけ話すから、その声もやはり客の男までは届かない。突然現れた、およそ政治に携わっているとは思えない出で立ちの人間と王がこそこそと会話をしているのは、自国の王に失敗を咎められるのとはまた別の居心地の悪さがある。
王はすっと息を吸うと、今度は室内の全員に間違いなく聞こえる声を出した。
「近づきのしるしに、その青い指輪をいただこう。詳しい話は改めて大臣のほうから伝えさせてもらう」
「ありがとう存じます」
男は深く頭を下げる。
再び頭を上げ王へ目をやったときには、玉座の後ろには誰の姿もなかった。
指輪ひとつぶんだけ軽くなった荷物を持って広間を出ると、長い廊下が待ち構えている。廊下をまっすぐに進み中庭が見えたと思ったら、白い花の木の下に不釣り合いな黒い影があった。
「やあ」
ローブの男は中庭からそう友達のように声をかけた。ローブのフードを今は被っておらず、後ろで縛った長い髪がローブの襟元に引っかかりながらゆるく流れている。
「……どうも」
話しかけられては無視をするわけにもいかないから、男は重い荷物を下げたまま返事をした。ここで頭を下げるつもりはなかった。
「今後ともよろしくね。外交官さん」
歌うような言葉だった。意図を測りかねて、男は曖昧に頷く。王直々に言われるならまだしも、このローブの男が何者なのか、紹介すらされていないのだから親しくする必要もない。
あけすけに無愛想な態度でもなんとも思わなかったらしく、ローブの男は満足そうに微笑むとくるりと背を向けて中庭の奥へと歩き出した。振り返る素振りもない。太陽の光の下にはあまり似合わない、くすんだ色のローブ姿がだんだんと小さくなる。
男のローブから零れ落ちた、古い書物のような香りが、花の香りに混じって消えた。
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