センチメンタル忍足
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秋が来る。
忍足侑士は窓の外、段々に色づいてゆく学園の木々を見ながらそう思った。
黒い幹には赤や黄の葉のほうが似合う。初夏の緑とのあの鮮やかな対照も美しいが、秋の落ち着いた印象のほうが風景としては相応しく感じられる。
あの葉が、一ヵ月後には散りはじめて隙間から寒空を覗かせるのだ。
そうしたら冬が来る。
近い未来について、そう考えた。
関東大会で負けを喫した、あの日。
自分たちが相手校の急造ペアに負けたとき、ああ、勝ちが決まるのが遅くなったな、と思った。
勝ちが三つで正式な勝利となる。でも今自分たちが取ってしまったのは勝利するための要素ではない。それを埋めるために勝ちがもうひとつ必要だ。
だから思った。勝ちが決まるのが遅くなったと。それだけ思ってあとはただチームメイトの試合を観ていた。
数時間後、決まったのは氷帝テニス部の敗北だった。
それでも忍足は特に感傷的になるようなことはなかった。
或いはそう思うことで動揺を避けていたのかも知れないが、少なくとも判り易い感情――例えば涙するとか――を表すこともなく。
大会の会場から流れ解散となって、翌日はまた学校での集合。
そこで部長の口から負けという言葉を聞き、初めて終わりを実感した。
引退。
夏の終わり。
まだこれからだと主張するように蝉が鳴いていたが忍足は夏が終わると思った。
そうして夏の終わりを感じたのだが、秋はなかなか来なかった。
だからといって困ることはなにもないので特に意識をすることはなかった。だから気がついたら、もう外の樹は紅葉づいていた。
それは学園内の至るところで見られたが、校門から正面玄関へとつづく煉瓦造りの遊歩道の両側の並木が一番立派だった。
ちゃんと意識して見ていれば、毎日少しずつ変化する葉の色を楽しめたかも知れない。
そう考えるとただ校舎へと歩いていたことが惜しく思えた。
感じる風は秋のものになっていたのではなかったか。
「侑士!」
七限目を終えた校内はざわついていた。だが窓際の忍足の席はその喧騒からは微妙に離れている。
周囲を気にすることなく帰り支度をしていた忍足のもとへ、いつものように友人が迎えに来た。
「今日は委員会とかない? もう帰る?」
「ないよ。一緒に帰ろか」
「おう」
「あ、でもその前に職員室寄りたいんやけど」
「いいぜ。何?」
「進路希望調査書。まだ出してなかってん」
そう云うと迎えに来た向日は一瞬途惑うような素振りを見せたが、すぐに笑顔をつくった。
彼は詮索好きなように見えて――実際そうなのだが――本当に踏み込んでよいのか、という境界をちゃんと解っている。
神経の尖る内容には触れて来ない。例えば進路のような。
そのことに気づかないほど忍足は鈍くはなかった。
「俺も高等部進むよ」
「ほんと!?」
「ほんと」
「本当だな?」
「本当やって。これ最終調査なんやから信じて」
職員室へと続く無駄に長い廊下を歩きながらまた、秋が来た、と思った。
秋が来ると冬が見える。冬が見えるとその先に春があることを思い出す。
寂しくなるのはそのせいだ。
「じゃあ高等部でもまた一緒にテニス出来るな」
共に負けた相方がそう笑うのだから、嬉しいと思うよりほかになかった。
さっさと調査書を提出して、まっすぐ昇降口へ向かった。
大きな扉が開きっ放しで生徒を送ったり迎えたりしている。風が校舎内まで吹きつけてきた。
「さむ……っ」
向日はそう呟いて目を瞑った。塵が入ったらしく、目元を擦っている。
二人が靴に履き替えたところで向日が云った。
「秋だな」
同じことを思ったばかりなので忍足は内心で驚いて、せやな、と応じた。
他愛もない話をしながら校門へとあの美しい並木に挟まれた道を歩いた。
そうしているのは楽しいのだが、どこかでまた寂しさを感じる。冬はここまで虚しくなったりしない。
やはり秋のせいなのだ。
冷たい風に肩を竦め、ふと思いついたことを先を歩く向日に提案する。
「なあ、寄り道せん?」
向日は振り向いて、忍足の立ち止まっている処――校舎裏への脇道が、煉瓦のまま延びている――を見、厭だって云うとでも思ったか? と云って駆け寄って来た。
三年間自分たちを魅了したものが、急に解放してくれる筈などない。
裏へと延びた道を歩きながら懐かしい音を聞く。
実際懐かしい、と思うほど遠い昔のことではなく、また春が来たらきっと関わることだから、余計にこの空白がもどかしい。
黙って歩を進めていたところへ、一際大きな打球の音が届いた。
「長太郎かな」
「――やろうな」
忍足と向日は顔を見合わせて笑った。
テニスコートでは今や見慣れすぎた練習風景が繰り広げられていた。
毎日こなした基礎、相手を変えて技を試すラリー、ワンセットマッチの試合形式。
どれもよく馴染んだものだ。ただ、もうその中に自分たちの姿がないだけで。
「先輩!」
フェンス越しにこっそり見ていた二人の姿を目敏く見つけたのは、部内で一番力のあるサーブを打つ副部長だった。
だがその好感の持てる笑顔で云った科白は、およそテニスとは関係なかった。
「今日は先輩方がお迎えですか?」
「―――は?」
「跡部先輩お忙しいみたいですしねー。でも本当にお久しぶりです」
「ちょ、ちょっと待て。何で跡部の名前がここで出んの?」
「え? 先輩たち、跡部先輩の代わりに来たんじゃないんですか?」
三人で顔を見合わせての沈黙が訪れる。
「えっと―――鳳は、何の話しとるん?」
「ここです」
鳳はそう云いながら部室のドアを開けた。部員は全員出払っているため灯りはついておらず、薄暗い。だが部員でないものがひとりソファに横たわっていた。
それを見た忍足と向日は同時に溜息を吐く。
「ジロー……」
「放課後になるとたまに来るんですよ。それを跡部先輩が連れて帰るみたいな感じになってるんですけど」
「何でここに来るん。帰って寝ろや。鳳、帰れって云ってもええんやで?」
というか、云わなければならないだろう。
「でも俺たちが部活終える頃には居なくなってますし。別に困ってるわけじゃないんで」
その言葉にまた二人は溜息を吐く。言外に、お人好しも善し悪しだと告げて。
それを解っているのかいないのか鳳はまだにこにこと笑っている。
「それに芥川先輩も、ここがいいんでしょう。きっと」
結局、すこし手荒な手段を講じて芥川を起こし、連れて帰ることにした。
これはいつもは跡部がやっていることらしい。
跡部と一緒に宍戸が来ることも稀にあり、そんなわけでこの三人は結構部に顔を出しているようだった。
誰も彼も、ここから離れることを少なからず躊躇っているように忍足には感じられた。
後輩が是非また来てくださいねと云って三人を見送ってくれた。
まだ居場所はあると思った。自分たちのテニスを知っているものが居るのなら、それはまだ残されているのだ。
向日も芥川も電車通学なので、校門前で別れた。駅とバス停は方向が正反対だ。
バスに乗り込んで二十分、やっと折り返しの辺り。テニス部のメンバーの中では、忍足の家までが一番時間がかかる。
ひとりでぼんやりと思考を泳がせながらバスに揺られる。
窓の向こうを歩く人々がつくる影が長い。
秋が来た。
早くなった夕暮れの中で忍足は思った。
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