プランタニエ

「たったひとこと言わせておくれ あとでぶつともころすとも」

「夏は好きだ」、と、彼は云った。

「わかる気ぃする」
「どういう意味だよ」
「テニスが出来るとか、そういうんやろ?」

 跡部は一刹那だけ息を飲んで、夏のように笑った。

「ああ、そうだな」
「他んこと?」
「いや、他っつーより―――それも含めて全部だな」
「全部て?」
「全部は全部だろ。やること全部、夏が一番束縛されない」

 そう云って跡部は、真直ぐテニスコートを見た。つられて俺もそちらを見る。
 テニスは彼を最も解放させるものであったが、同時にまた、最も強い呪縛でもあったのではなかったか。
 しかし例えそうだとしても、跡部は悦んでそれを受け入れていた。
 呪縛の中で解放されたのか、或いは解放されることそのものが呪縛だったのかも知れない。
 それすらも、夏の陽射しに融かされる。

「まあ確かに、跡部がつまらんことに縛られてんのは、似合わんからなあ」
「んだよ、それ」
「ん? そのまんま。うちの部長は好き勝手に喋って動いてテニスして、そんで勝つひとやねん」
「それで負けてたらただの莫迦じゃねえか」
「はは、そやね」

 話し声の間に、風が吹き抜けた。
 それは噎せ返るような温度と湿度を孕んでいたが、夏の始めに感じたものとは随分変わっていた。

「なあ」
「あん?」
「口惜しかった?」

「―――死にそうなくらいな」

 跡部の視線は相変わらず鋭く、テニスコートを見据えていた。俺は彼が、そこについ先日までの自分の姿を見ているように思った。

「秋は嫌いや」、と、彼は云った。

「―――嫌いとか云うほどのものか?」

 そこまで厭うほどの要素を、俺は秋という季節の中に見つけられなかった。

「嫌い―――ああ、うん。せやな、俺は」
「なにが?」
「なにって、そんな具体的なもんやないんやけど」

 忍足は苦笑した。
 それは奴が自分を騙す時に用いる常套手段だった。指摘してやったことなど、ないけれど。

「なんや、情緒不安定になるやん、秋って」
「なんだそれ」
「こう、夏が終わってもうた後で、これから冬が来る、そんで春が来る、て思うと、厭にならん?」
「考えたことねえよ、そんなん」
「うん、考えん方がええよ」
「年中情緒不安定な奴が云ってんじゃねえよ」
「酷いわあ」

 云いながら、忍足は鞄の整理を終えたのか、立ち上がってそれを肩に掛けた。
 未だ生徒会の仕事を片付けている俺に向く。

「ほな、俺は行くで」
「ああ」

 教室のドアが、静かに閉められる。
 秋に独特の、鮮やかで遠い夕陽が手元の資料に影をつくった。

 これから忍足が担任のところへ行くと、俺は知っていた。

「もう冬なんだな」、と、彼は云った。

「なん、今更」
「もう夏だとか、もう秋だとか、この前そんなことを云ったばっかりなのにな」
「秋ってなんや、短い気ぃすんねやな」
「冬が長えんじゃねえ?」

 跡部の声は俺に届く前に宙に消えたから、俺は返事をしなかった。
 代わりに外の闇と冷たさだけを伝える窓を、カーテンを引いて遮断した。
 フローリングが冷たい。コーヒーを淹れてソファへ向かう。

「跡部は、年末年始はまたイギリス?」
「ああ」
「つくづく別世界の人間やんなあ」
「お前だって、京都へ戻るんだろう」
「まあ、戻らなならんやろうなあ。面倒やけど、戻らんともっと面倒になるし」

 溜息を吐く。どちらにしろ、多分、跡部景吾と居ることの次くらいに面倒なことになる。
 おもしろくない上に逃げられない状況。

「こっちだって似たようなもんだ」
「―――そか」
「形式は大分違っても、本質は変わらねえよ。そういうもんだろ」

 云って、コーヒーを飲み干す。
 暖房を入れたばかりの部屋はまだ寒く、それはとうに冷めていた。

 跡部はコートのポケットに片手を入れて、もう片方の手をドアノブにかけた。
 部屋に居る恰好のまま外気に晒されて首を竦める。跡部のそれはマフラーに守られている。
 マフラーから覗く唇が薄く笑った、ように見えた。

「せいぜい足掻いて来いよ」

「別れの季節やね」、と、彼は云った。
「―――春か?」
「せや。桜と別れの季節。そう思わん?」
「普通『出逢いと別れの季節』って云わねえか?」
「それは幻想や。春は、別れの季節」

 意見が喰い違うことは度々あったが、ここまで断言することは珍しいので、俺は興味を持った。

「他人と出逢うことは、お前にとってはなんの意味もないってことか?」
「大いにあるよ。他人と出逢うことは、出逢わなかった頃の自分との別れや」
「それなら、出逢った後の自分との出逢いと解釈すれば良い」
「でもその自分とも、いつかは別れることになるで」
「だから、それなら最初から、出逢わない方が良いと?」

 忍足はなにも云わず、俯いて少し笑った。

「―――出逢いとか別れだとか、そういう変化はない方が幸せか?」
「そんな単語が跡部の口から出るとは思わんかったわ。イコール幸せとは限らんけど、少なくとも、安定しとるやろ」
「それと退屈とどこが違う?」
「退屈だと思わなければ、案外平気なもんやで」

 平気だと、忍足は云った。それはこの男の口癖のようなもので幾度となく聞いた単語だった。
 だから俺は聞かなかったことにした。

「お前、転校してきた時からずっと思ってたけど、器用に臆病だよな」

 忍足ははっとした顔をこちらに寄越した。
 けれどそれほど驚いているとは思わない。俺が忍足を臆病だと気付いていたように、忍足は俺がそれに気付いていたことを知っていた筈だった。
 はっとする、その顔を向けるのは、気持ちの整理の為のワンクッションだ。

「敵わんなあ」
「当たり前だろ」

 それきりこの話題は出ない。幾らかの沈黙の後、やがて忍足が呻くように云った。

「俺、跡部のそういうとこが好きや。やから別れとうない」

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