white lie
言葉でしか、成せないことがある。
やはり自分は光のもとを歩いてはいけない人間だったのだ。忍足は眼鏡の奥で眸を歪めた。相対する彼のそれは驚きに大きく見開かれている。当然だ、あの路地裏ならまだしも、ここは真昼の駅前で、自分には無関係な人間で混み合っている。勿論彼もそちら側の人間なのだが、向こうから歩いてきたのが忍足であることに気づいてしまった。
やり過ごすことは、できない。そう直感的に判断しながらもどこかで彼がなんの接触も図らないことを願っていた。陽の光から顔を逸らす。その一瞬にも距離が縮まる。死に近い経験は腐るほどしたはずなのに、今は自分の鼓動に殺されそうだった。
擦れ違う。このままで、どうかこのまま。
「―――忍足」
鼓膜の振動が伝えたのは、紛れもなく自分の名。
ああ、やっぱり名前なんて教えるべきではなかったのだ。振り返ると蒼い眸がしっかりと自分を捉えていた。こんな色をしていたのか。あの路地裏では、あの真夜中では、わからなかった色だ。
美しいことは、知っていたが。
「―――憶えてたんや」
「忘れねえって云っただろ?」
そう云って微かに笑った表情は、この明るい風景によく似合っていた。昼の人間の表情だ。
できない、と忍足は思う。こんな場所に居るべきではない自分は、あんな風には笑えない。
ついこの前、二度目の邂逅を忘れたはずはないだろうに、蒼い眸は忍足の姿を映すことに臆さなかった。それでもいい、それでいい、と、恐らく昼食のために会社から出てきたのだろう相手に、縋るように願う。忘れたふりをして、そのまま忘れてくれ。
そうすれば、なにも崩さずに終えられる。
「何してんだ、こんなところで」
他愛ない言葉は、彼にとっては挨拶のようなものなのだろう。しかし、そんな世界には棲んでいない忍足を抉るには充分すぎた。
喉が渇く。早くしなければ。言葉で埋められない空白は不審を生んでしまう。
「―――なんも。ちょお、コンビニ寄るだけや」
「へえ。近くに住んでんのか?」
答えられるはずがない。誤魔化すための笑顔は酷いものだっただろうと、自分でも思った。
その空白にすら急かされる。
「悪いんやけど、急ぎなんや」
「ああ、引き止めて悪かった」
堪忍、と残して足早に去る。その脚は、コンビニなんかでは入手できないもののために動いていた。
今更急かなくとも自分は充分に、彼にとって疑問視されるべき対象である。だから今度こそ、もう二度と彼に会うようなことがあってはならない。これが本当に、『赦される』最後のラインだ。それなのに。
あの蒼い眸の名を知りたいと、思ってしまう自分に気づいてしまった。
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