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Nowhere to go

「―――よお」

 やって来た男は自分の姿を認めたきり、なんの反応も見せないので跡部の方から声をかけた。
 それを受け、観念したかのようにああ、と云ったその顔は、泣きそうだと跡部は思った。

「何してるん」

 搾り出すような声で問うた男に跡部が答える前に、その足元から黒い影が飛び出した。
 ―――いつかの黒い猫。
 初めてお互い会った時も同じ光景だった。あの時、屈んで猫と戯れていたのは逆の人間だったが。
 ただ、以前目の前の男に会った時の猫とは、明らかに様子が違った。あの時はそう―――与えられた餌がなくなったから、この場から去ったのだ。しかし今は違う、この場を棄てることがまるで義務であるかのような素早さだった。
 跡部がその影を見るともなく見つめていると、男が呟いた。

「やっぱ動物は鋭いなあ」
「なにが」

 真直ぐに訊ねてくる眸に苦笑して、男は宥めるような口調で云う。

「気づかん? さっきもどっかの猫に、ものっそい睨まれてんねんけど」
「―――わかんねえよ」
「そら善かった」
「だから何が」
「あんたはまだ、人間やゆうことや」

 いよいよわけが判らないと、視線は真直ぐぶつけたまま、跡部はその目を細めた。大抵の人間はそれだけで呑まれてしまうような、力がそこにあった。
 自分の眸がどれだけの威力を持っているのか、男は十二分に自覚していたが、相対する蒼はそんな歪んだ威力ではない澱みのないものだった。生きている世界が違う。そう思った、思わずには、いられなかった。
 だからこれ以上、ここに居てはいけない。

「―――早う出ろて、云うたやろ」

 うつくしいものは、穢されてはいけない。

「言葉が解るなら、云う通りにし。興味なんかで来てええ場所やない」

 毒されてはいけない。甘い毒は、いつか全身にめぐり、縛るものになるのだ。

「―――早く!」

 嗚呼、俺はなにをこんなに、焦っているのだろう。
 些か強い口調で促すと、漸く跡部が立ち上がった。しかしそれはこの場を去るためではなく、以前と変わらず黒い男に一歩、近づくためだった。至近距離の相手に、今度はもう、怯まない。
 その変化は、男を充分に動揺させた。その隙間に滑り込むように、跡部は口を開く。

「お前―――」

 そこで初めて、問うた。

「お前、誰だ?」

「―――難しいなあ」

 一番易い問いでありながら、一番答えの出せない問いだった。
 誰何するまでもなく、自分のことを知っている人間しか居ないような場所で、改めてそんなことを訊かれてもどう答えるのが適切かなんて知らない。だが、この相手に本当のことを云ってはいけないと、それだけは事実だった。
 それは事実だ。何にも勝る説得力を持つその理由を、しかし破ろうとするのは何故。

「名前は忍足侑士。他は云えん。訊かれても答えられんよ」
「―――オシタリユウシ」

 小さく繰り返す彼は、その名前にどれだけの意味と力があるのか、知らない。知ってもいけない。全くの部外者が踏み込める境界線の、丁度その上がここだと忍足は思った。だから云った。

「できたら、忘れたほうがええよ」
「なんだそれは」
「憶えてもええことなん、ないで」

 それはある意味で、この名前以上の真実だ。

「忘れねえよ。こんな変な名前」

 煽るように鮮やかに笑って、跡部はとん、と忍足の胸を叩いた。よくあるコミュニケーションのひとつだ―――跡部の居る世界では。
 だが今は、その下に隠された、毒に気づかずには居られない状況だった。

「―――っ!」

 忍足が慌ててその手を掴む、その時にはもう、跡部は意識の大半を忍足の居る世界に奪われていた。
 疑念を隠しもしないままの眸を向けられ、忍足はコートの内側に手を入れた。相手が決して中途半端なものではない興味と関心を惹かれているのは痛いほどにわかる。同じものを、いつかの自分も抱いていた。

「―――視る?」

 跡部の返事を待たず、忍足はそれを放つように再び曝した手を広げた。
 見せたかったのではないか。この瑕を、なにも知らない人間に。

 かしゃん、と、呆気ないほどの音をたててそれは落ちた。

 お前、これ―――と、震える声で問いかけながら、跡部は忍足が落としたものに手を伸ばした。

「触んな!」

 それは、跡部が今まで聴いた忍足の声の中で一番、圧力を孕んだものだった。
 思わず瞠られた眸に気付き、幾分柔らかく諭す。

「こんな穢<ヨゴ>れたモン、触ったらあかん」

 それから、もはや見慣れてしまった笑みを向けてやって、冷たい地面からベレッタを取り上げた。

「―――行き」

 跡部は云うべき言葉を知らず、一度だけ、しかしはっきりと忍足の眸を見据えてから身を翻した。

「次にこんな処で会うたら、俺はお前を殺してしまうかも知れん」

 自身の動揺を抑えるように言い聞かせるように、呟いた声は冬の風に吸い込まれて霧散した。そう、そうやって、消えてゆけばいい。
 そう思ったところで、忍足は彼の名を知らないことに気づいた。

 ―――リボルバーの指紋は、打たれた血と魂を吸い込んでる。

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