低空飛行

誘う話

すぐ傍を圧倒的な存在を以て過ぎる
貴方という人

「跡部」

部活動終了後、着替えを済ませネクタイを締めた瞬間に呼び掛けられた。
首元にかけた手はその侭に、視線だけをそちらへ向けて跡部は返す。

「何だ?」

自分より少し高い位置にある黒い瞳は、真直ぐにこちらを見ていた。
じっと見つめて来る忍足は黙った侭で、跡部がキレる寸前でやっと口を開いた。

「あかん、その泣き黒子そそるわ」
「巫山戯てるのか?」

ただでさえ放っておけばツケ上がる奴なのだ。
部室で妙な状況にだけは絶対になりたくなかったので、跡部はぴしゃりと遮った。

「巫山戯てなんかあらへんよ」

その飄々とした物云いはその時の跡部には何故かとても不快だった。
思い切り溜息を吐いて云う。

「それで?」
「それでって?」
「―――何のつもりだ」
「どういうつもりでもあらへんけど」

揶揄われている。
跡部の不機嫌は顕著に顔に表れた。

「何の用だ」
「え? ああ、今日跡部ん家往ってええ?」
「断る」

考えるより先に言葉が出た。
金曜の夜に家に上げるなんて自殺行為だ。
この場に燻って居るのも危険な気がして、跡部は目を逸らした。

「何で?」
「煩い」

もう自分の視界に奴の姿は無いのに、目蓋に焼き付いたものは消えない。
それは何処か余裕を帯びて愉しげな忍足の、毒を含んだ黒い瞳。
歪んだように嗤う口元。
跡部は焦燥じみた苛つきを覚えた。

「跡部?」

その声は微かに笑いで震えている。

「しつけぇよ。来るんじゃねえ」
「何怒っとん?」

跡部は何か云い返したいのを抑えて踵を返した。
ここから逃げたかった。

「行くぞ、樺地」

二人分の鞄を抱えた後輩は、いつものように黙って従って来た。
隣の男を見ないように跡部は離れた。
苛々する。
呼吸が乱れる。
見てはいないのに、元凶である人物が薄ら笑っているのが手に取るように判る。
擦れ違う瞬間に身体の間で生じた風に乗って、低い、捕われる声が耳元で囁いた。

「―――今夜、往くから」

身体が凍り付く。
声はある種のかたちを伴って頭に残る。
振り返れば忍足はこちらを見て微笑んでいた。

そう、優しく。

それを厭味を込めた睨みで返し、跡部は部室を出た。
長く延びる夜道に先は見えない。

「―――ちっ」

対象の判らない舌打ちは、夜の圧力に紛れて消えた。
忍足の、低く縛り付ける声は、直ぐ頭上を過ぎた航空機の騒音のように跡部の中に尾を引いて残った。

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