着氷

「おまえの心と氷室の雪は いつか世に出てとけるだろ」

 足元の薄い氷に刃を突き立てて、やっとこの身を支えている。

 もともと他人との関係への執着は薄いほうだったし、例え特別な関係になったからといって、それを維持できる保障も可能性もないことなど充分に知っていた。未来も永遠も、スクリーンの中にしかない概念だ。
 だから最初から諦めている。自分を護る方法として、諦念を身につけたのはいつだったろう。ナチスのユダヤ収容所において、最もユダヤ人の死亡率が高かったのはクリスマスの時期だという。原因は、「クリスマスにはこの地獄から解放されて、愛する家族とあたたかく過ごしているはず」というありもしない幻想からくる期待を、いつもの労働で潰されたショック。そんなことで、死ぬ生き物なのだ、人間は。
 だから期待してはいけない。だから諦めていなければいけない。そうでなければ文字通り、命を落とすことにすらなりうるのだ。

 そんな状況、必死の諦念が鋭く刃となって、それだけがこの身を支えている。

「忍足」

 他に人の居ない部室で、その透き通った声は必要以上に反響して忍足の鼓膜を震わせた。首筋がざわりと疼く。それは腕をつたって、跡部の顎を掴んでいた指にまで届いたらしく、ただでさえ深い至近距離の眉間の皺が余計に刻まれた。
 しかしこんな状況で、跡部が言葉を発する方が珍しい。普段なら、軽く振り払われて終わるのに。

「―――何」
「離せ」

 跡部の視線は僅か下から忍足を睨めつけている。それが煽っているのだと、知らない筈はないだろうに。自分の価値というものを、目の前の人物以上に理解し利用している人間を、忍足は見たことがない。
 だから。忍足は都合よい言い訳を脳裏に並べ立てる。だから、誘われているようにしか思えない。

「ええやん、誰もおらんし」
「そういう問題じゃねえ」
「明日は朝練もないやろ?」

 跡部にとっての最優先事項がテニスであることなど承知している。まさか自分を一番に選んでくれなどと、そんなことは露と思ったこともない。いつだって跡部がテニスをするということを考えて、それなりの態度をとってきた筈だ。
 そのことも、跡部は理解している。もし今彼が拒んだとしたら、その理由は背を圧しつけられたロッカーが冷たいとかそんなことだろうか。忍足はやはり脳裏で、自分の欲望を達成すべく必要な項目を一つずつ塗り潰していった。
 跡部の睫毛が、す、と伏せられる。

「お前は」

 長い睫毛に覆われて見えなくなってしまった美しい眸を覗き込もうとして、また見上げられた視線とぶつかった。心臓がとまりそうになるからやめて欲しい、そういうことは。

「他の奴らからしたら随分ましだが、それでも俺に期待しすぎだ。そうじゃないだろう、お前は」

 やっとこの身を支えている、薄く鋭い刃が揺らいだ。
 ちっ、と跡部が短く舌打ちをして、顔を逸らす。

「―――疲れてんだ。喋らせんな」
「それは、どうも」
「わかったら離せ」

 頷きはしたものの言葉の意味を理解していないのか、動こうとしない忍足の手をすう、と流れるような動作で払い、跡部はその場から離れた。まだ事務作業が残っているのだろう、帰ろうとはせずに机に向かっている。
 お前だからや、と呟くと、なんだって? とすかさず返されたので、言葉では応じずに両手を挙げて白旗を示した。
 それを見て溜息を吐いた跡部を横目に、鞄を手に取り、掠れた声でそれでも云った。

「お疲れさん。また明日」

 部室の施錠はいつもどおり跡部に任せ、忍足は扉を開けた。

 足元の薄い氷に刃を突き立てて、やっとこの身を支えている。
 この氷が解けたなら、そのまま沈んでゆくばかり。

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