六日目
驚くべきことに、全く手をつけていなかった夏休みの課題は正味三日間ですべて片付いた。終業式の日からここで宿題をすることを決め込んでいた俺は当然そのつもりでいたのだが、夜を徹してやっていたわけでもないのにあっさりと済んでしまって、拍子抜けしたような気分だった。やっぱり一人でやると進まないのか、これは。
「あなたは適応力と柔軟性があるんですから、やればできるんですよ」
古泉がコーヒーを淹れながら云った。レトルトとインスタントで生きているくせに、なぜかコーヒーだけはフィルターを通して淹れているらしい。
「こんな環境で過ごせているのですから、勉強くらいどうとでもなるんです」
あまり面白くない話だが、三日間で片付いたのは古泉のおかげだ。教壇に立つ職業に就けばいいんじゃないかと思うほど(でも小学校はだめだ、予備校か大学向きだろう)古泉の指導は的確だった。理論推論、規定事項の類を伝達するのは得意なのだ。途中で雑学寄りの話題に逸れるのが難といえば難だったが、気分転換と思えばちょうどいい。
それにしても、理系特進のくせに文系科目もできるってのはなんなんだ、不公平じゃないか。
「高校の科目だからですよ。答えがありますから。大学で文系学部を専攻するのは向いていないんです」
俺の向かいで指導しつつ特進の宿題も済ませていた古泉は、そう云って苦笑した。
「まあ、助かったよ。ありがとな」
「いいえ。お役に立てたのならなによりです」
窓の向こうでは、少しだけ早くなった日没が世界を包もうとしていた。見えるものすべてがオレンジ色に染まって、知らない街に見える。
最後の夜はそんなふうに迎えた。
お礼にというか、単に時間と食材(今使わないと古泉が腐らせると思った)が余っていたので、夕飯はちょっと頑張って作った。六日間でいらん料理スキルが上がった気がする。古泉も炒め物くらいなら作れるようになったはずだ、やるかどうかは知らんが。
「善処します」
云うだけじゃ善処したことにはならないからな。
さていつものように古泉が電気を消して、ベッドに入ろうとしたところで不意に背後から抱きしめられた。その動作は闇に紛れて見えなかったが、困ったことに俺の身体はその感覚を知っているので気配でわかってしまう。気配で感じて、頭で認識する前にはもう捕まっていた。
突然のことで反応が遅れた。
「――古泉、」
返事はない。腕の力が僅かに緩んで、かと思ったらもっと強くなった。これまた困ったことに、古泉がどうしてこんな行動に出たのか、わかってしまって次の言葉を見つけられない。俺が少ない語彙の中から云うべきものを探していると、古泉の方が口を開いた。
「今日は、」
涸れた喉を擦り切らせて出したような声だった。
「一緒に、寝ても、いいですか」
耳のすぐ斜め後ろでそう囁く。声は鼓膜を通って、脳髄に響いていた。
「――別に、構わない」
真っ昼間から押し倒してきたこともあったのに、今更なにを云ってるんだ。そう思っているはずなのに、古泉の緊張が伝染したのか、妙に震えた声が出た。落ち着かない。
ありがとうございます、と少しだけ緊張の薄れた声で呟いて、古泉は腕を解いた。ベッドに入るとまた背後から拘束される。それは決してきつい力ではないのに、逃げることのできない檻だった。
こういう状況を、俺は知っていた。古泉が、俺の顔を見たくない時にとる行動だ。俺の顔が嫌いだとかそういうことではなくて――惚気じゃない、ただの事実だ――自分の一挙一動が俺の感情に触れるのを恐れている。迷子の子供みたいに自分を囲むすべてのものに怯えるから、俺はそういう時はできるだけ刺激しないように、ただじっとしている。逃げない。
「去年のうちに」
ぽつりと、古泉が云った。俺が聞いていてもそうでなくても構わない、独り言のような軽さだった。
「こうしたかった」
響きは軽くても、その意味は重い。俺は去年の、無限にループしていた夏休みを思い出す。あの莫大な時間の中に、世界が止まったようなこの一週間があったのなら、今とは違う現在があったのだろうか。
戯言だ。十二月の三日間がふたつあったように、この一週間もひとつではないかも知れないが、そうだとしても今この瞬間に感じているものだけが真実だと、そう思うことしかできない。俺も、古泉も。
俺は胸の前に握られた古泉の手に自分の手を重ねた。古泉は一瞬震えて、抱きしめる腕の力を強めた。
意識は断続的に、しかし断絶することはなく、気づくと部屋は薄く白んでいた。古泉はもう眠っただろうか。もしかしたら最初から、眠るつもりなどなかったかも知れない。
カーテンの向こうから差し込む光が淡く眩しくて、俺はぎゅっと目を瞑った。
(途切れ途切れのストーリー 再放送だっていい)
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