オレンジフィルムガーデン

三日目

 ピンポン、と、インターホンが鳴った。
 変な話だがこの一週間は古泉の部屋で、二人きりで過ごすものと思い込んでいたので――その認識は間違ってはいないのだが――第三者の存在を示すその音に、俺は少し面食らった。古泉も似たようなものらしく、驚いたように玄関の方を見つめている。それから、はっとしてインターホンの受話器を上げた。
「はい。――ああ、今出ます」
 受け答えは短かった。知り合いか?
「あなたもよく知っている人ですよ」
 それだけ云い置いて、古泉は玄関へ向かった。古泉の家に来る、俺が知っている客?

「それで古泉、メールに添付した資料は――あら、」
 聞こえてきていた女の声は、「あら」の部分だけ声色が違った。その声と顔を見て俺は認識する。現れたのは『機関』所属の年齢不詳の美人メイド、しかし今はそれよりも、凄惨なまでの笑みの方が記憶に新しい森さんだった。七分丈のブラウスにスカートという夏場のOLのような格好をして、大きめのバッグを肩から下げている。すっかりくつろいでいた俺が立ち上がるのをさりげなく制して、森さんは顔が見える位置に座った。
「こんにちは。ご無沙汰しておりました」
「あ、いえ、こちらこそ、お久しぶりです」
「その後もお変わりありませんか」
 『機関』はきっとSOS団の様子を古泉に逐一報告させているだろうから、これは時候の挨拶みたいなものだ。だから俺もそれに倣う。
「まあ、お蔭様で」
「それは喜ばしいことですわ」
 森さんは人を安心させるような、つまりあの時ではなくメイド仕様の微笑を俺に向けて、そのまま古泉を見た。古泉は森さんそっくりの笑顔を一瞬引きつらせて「すみません」と云った。なんだ? この二人の関係は、一年経ってもいまいち見えてこない。訊いてもはぐらかされたしな。
「報告が遅れました」
「報告する気などなかったでしょう。次にやったら」
「二度としません」
 悪戯を叱られた子供のようなやり取りだ、あの古泉が。妙な気分だが俺は『機関』での古泉を知らないし、少なくとも俺たちより年上の森さんからすれば子供に見えるのかも知れない。そう思ったところで、二人がその怪しげな組織の人間であることを思い出す。
「あ、俺、席外します」
「お気になさらず。渡す物があるだけですので。どうぞいてくださいませ」
 古泉の上司(推定)からそう云われてしまってはいるしかない。古泉は冷たいお茶でも、と云って、空になったままテーブルに放置されていた俺のグラスを取ってキッチンへ行った。
「ここへは、いつから?」
 ついさっき遊びに来たところです、という風ではない俺に、森さんが柔らかく訊ねる。
「一昨日からです」
「そうですか」
 森さんは納得したように笑みを深めた。こうしていると、二月のあの時と同一人物とは思えない。これも『機関』の職業訓練とやらの成果なのだろうか。つくづく得体の知れない組織である。
 バタンと冷蔵庫を開閉する音が聞こえた。森さんは、悲しいくらいに呼ばれることのない俺の名前を呼び、すべてを預けたくなるような微笑みを俺に向けて、短く囁いた。
「古泉をよろしくお願いします」

 森さんは鞄からラベルのないディスクとA4サイズのファイルを出してテーブルに置いた。中身が何なのか想像もつかない。新入生全員の素性を調べるような組織だ、知りすぎることは身を滅ぼすぞ、と俺はそれから目を逸らした。人間関係のコツは立場を弁えることだ。
 森さんの用件は本当にそれだけだったらしく、古泉が出したペットボトルの緑茶も半分だけ飲んでご馳走様、と微笑んだ。
「それでは私はお暇いたします。お邪魔しても悪いですしね」
「邪魔だなんて」
「下に新川を待たせておりますので。こう見えても忙しいんですよ」
 席を立った森さんを古泉が見送る。俺もその後についた。
「それでは。またお会いできることを楽しみにしておりますわ。古泉、定時連絡は忘れないように」
「肝に銘じます」
 苦笑いの古泉に森さんはひらひらと無邪気に手を振って、開いたドアの隙間を縫うように出て行った。ドアの向こうにヒールの遠ざかる音を聞く。それが聞こえなくなってから、古泉は鍵をかけた。
「古泉、お前って」
「はい?」
「ヘタレ」
 古泉はいつもの仮面にひびが入ってしまったような、複雑な笑顔で俺を見ている。
 この件に関しては、お前に非はないぜ。たかが高校生の俺たちが、あの森さんを出し抜くなんて出来るわけがないのだ。

(焦る僕をからかって)

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