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『機関』は人間社会のあらゆる部分へパイプを伸ばしている。のみならずTFEIにも。そして、未来人とも接触がある。
朝比奈みくるを監視するためにやってきた駐在員だ。
僕は直接の関わりをもっていないが、これまでのやり取りからその人物が本来は未来に生きているべき人であることは間違いなく、彼(あるいは彼女)の現代での行動を支援する代わりに可能な限りの情報提供を得ている。朝比奈みくる本人はそのような存在に監視されていることを知らない。それは正確なデータを取るためであり、未来へつながる時間平面としての現在を歪ませないためでもある。朝比奈みくるは涼宮ハルヒの観察のために未来から派遣されてきた、本来ならば現代には存在しないはずの異分子だ。その存在によって彼らにとっての正しい歴史が変化してしまわないよう監視するために、朝比奈みくるには知らされず駐在員が派遣されている。
『機関』とその駐在員は、利害の一致で仮の同盟状態にある。特に学校内での様子は彼には知りようがないため、特別なことがあれば僕が報告することになっていた。もっとも、最優先は涼宮ハルヒ、時点が彼なのでそこまで逐一観察しているわけではない。報告の必要があると僕が判断した場合のみ、だ。逆に『機関』の知り得ない――例えばこれから起こる事象の中で事前に備えておくべきものがあれば、これも歴史を歪ませない範囲内での情報を提供してもらう。朝比奈みくるがこの時間平面に二人存在することを伝えてきたのはそのためだ。二人目の存在が、正しい歴史のためには不可欠なのだろう。
昼休みの開始を告げるチャイムが鳴ると同時に携帯電話が鳴った。やおらざわめきだしたクラスメイトたちの間を縫って階段を昇る。屋上は鍵がかかっているので、一般生徒は立ち入れないようになっていた。
『あちらはあちらで、ややこしいことになっているそうよ』
電話を肩で支えてサンドイッチのビニール包装を破る。空気はつめたく、二月のそれだが風がないので思ったよりは暖かかった。
『未来人側での抗争も激化しているようです。朝比奈みくるに敵対する組織の人間が、この時間平面へ飛んでくる準備をしているらしいわ』
あちらの時代で喧嘩しているだけならさほど害はないが、この時代へやってくるとなると話は別だ。敵だろうと味方だろうと目的は涼宮ハルヒであり、そうなればいずれは接触することになる。
『けれど彼らには現代での伝手がない。そうなると、最悪の事態も考えられます。――橘京子がこのことに気づいたら』
「間違いなく同盟を持ちかけるでしょうね」
お得意の一方的な説得で、だ。けれど一時的な足がかりにするには十分だろう。吐いた溜息は白く濁ってから青空へ吸い込まれていった。
『朝比奈みくるの監視員へはこれまで以上の情報提供を要請しているところです。その対価として、我々『機関』は警戒態勢をより強化します。まあ、情報提供があろうとなかろうと、これは必要なことだけれど』
僕はあくまで北高生、SOS団団員だ。その立場を崩すことはできない。警戒の強化は『機関』の方が巧くやるだろう、なんといっても指揮しているのは森さんなのだし。僕は僕の目の届くところへ注意を向けるべきなのだ。『機関』がSOS団に目を光らすのには限界がある。それを補うことは僕にしかできない。
「了解しました」
それと、と僕の返事を待ってから森さんはつなげた。
『涼宮ハルヒを取り巻く状況があまり芳しくないことを、『鍵』にも伝えておいた方がいいでしょう。彼もいまや各組織にとっての要注意人物です。こちらへ引き込んでおけるならそうしたいわ』
「――引き込む、ですか」
『言い方が気に障ったなら訂正します。彼を正しく味方にしたい』
声のトーンが低くなったのを森さんはすぐに汲んだ。今の発言の意図するところはわかっているのに子供みたいな反応をしてしまった。恥ずかしい、と思う。彼女はなんとも思っていないだろうけど。
「いえ、大丈夫です。わかりました、現状があまり良くないものであると彼に伝えておきます」
『よろしくね。ちゃんと伝わるように説明するのよ』
「留意します」
最後は姉のような物言いになって、森さんはそれじゃあと通話を切った。僕自身は現状維持で自由に身動きの取れないまま、事態はどんどん大きくなっていく。自分の境遇をようやく捻くれずに受け入れられるようになったと思えば、次は外敵からの攻撃か。つくづく世界は僕を安寧とは遠ざけておきたいらしい。
――受けて立つと、思える力を手に入れた。ならばあとはもうそれに従って行動するだけだ。
放課後、この日も部室に彼は来なかった。「今日もシャミセン連れて病院ですって」とは涼宮さんの談。では今度みんなでお見舞いに行きましょうか、と云いかけて思いとどまった。シャミセン氏の件はどう考えても言い訳であり、彼がSOS団の活動を放棄してまでなにをしているのか把握できるまでは余計な行動を起こさない方がいい。
前日と似たような、個人活動をする集団、という奇妙なことを今日もして、やはり五時過ぎに解散した。どうも調子が狂う。彼がいないことにも、それを涼宮さんが、少なくとも表面上は気に留めていないことにも。
例の件があるので目はどうしても朝比奈さんを追ってしまったが、彼女は特に気にしたふうもなくせっせと編み物に取り組んでいた。朝比奈さんが隠し事をできるとは考えにくい、ということはこの時間平面にいる二人目の朝比奈さんは、過去ではなく近い未来から来たのだろうか。
アパートへ戻ると自分で散らかした資料の山に気力を削がれた。彼が部室へ来なかったということはなにか用事があったのだろうから、あとで電話で話をしようと思っていたらそれより先に森さんからの着信。また未来人の駐在員からの情報かと思いきや、
『彼が二人目の朝比奈みくるを鶴屋家へ預けました』
今度は鶴屋家からの連絡が入ったらしい。また関係者が増えてしまった。しかもこれまでとは違った意味でややこしい。
『彼とはもう話した?』
「いえ、これから電話をしようと思っていたところです」
彼は『機関』と鶴屋家の関係を知らないから、長門有希の次に鶴屋嬢を頼るというのは理解できる。けれどあまり勝手気ままに振る舞われると、こちらのフォローが追いつかなくなるのも事実だ。
「鶴屋家とのことは、彼に話しても?」
そうね、と一瞬だけ間を置いてそれはすぐに許可された。
『そのくらいの手札は見せてもいいでしょう。これ以上鶴屋家とSOS団が関わりを持つと、よくない状況にもなりかねないわ』
敵が増えている現状で、味方に反旗を翻されるようなことは極力避けたい。鶴屋家はこちらの要請に協力こそすれ、向こうから積極的に首を突っ込んでくるようなことはないからほぼ杞憂だろうが。
『電話じゃなく、直接話してもらえるかしら。今ならまだ彼は鶴屋家にいるから、接触しやすいと思うわ』
「――いいですよ。変質者だストーカーだと罵られに行けばいいんですね」
『あら、嬉しいくせに』
そんな罵倒の言葉は嬉しくない。けれど彼に会うのは自分にとって単純に喜ばしいことなので、云われたとおり鶴屋家へ向かって彼との鉢合わせを図ることにした。
家の外周を回るだけで散歩になりそうな鶴屋邸付近をのんびりと歩いていると、ほどなくして彼が自転車に乗ってこちらへ走ってきた。僕に気づいて案の定怪訝そうにブレーキをかける。
二日ぶりに会う彼はいつも通りの冷たい素振りで僕に受け答えし、的確に訊いてきた。
「お前はどこまで知ってんだ?」
「朝比奈さんが二人いるというところくらいですか」
これは本当だ。駐在員からの追加情報はまだ届いていない。続けて鶴屋家と『機関』との関係を簡単に話すと、彼は途方に暮れたような表情になった。ことの重大性がどこまで伝わったのかは不明だが、鶴屋さんがただの準レギュラー員ではないことはわかってもらえただろう。
「古泉、おまえはこの前、朝比奈さんなどどうにでもできると言ったな。ありゃ、どういうことだ」
今日は彼から話題を振られることが多い。それだけ僕の発言を信頼してくれているのなら嬉しいが、単に朝比奈さんが関わっているからというだけの理由も考えられる。女性の知人が多いだけの僕とは違って、彼は根っからのフェミニストだ。
未来が不安定なものであることを説明する。朝比奈さんの監視員について話すわけにはいかないのでそのあたりをぼかして伝えると、彼は些か憤慨したようだった。
「正直言って僕にも解りません。言ったでしょう、僕は末端の人間なんです。すべてを知っているわけではありません。それは朝比奈さんもそうでしょう」
これも本当のことだ。末端、という表現は正しくないのだが(能力者は他の構成員に比べてあらゆる面で優遇されている)、それにしたって知ることのできる情報には限りがある。朝比奈さんも似たようなものだろうが、彼女の知らない未来人の介入を僕が知っているという構図はどこか倒錯的ですらある。
「じゃあ何か、お前らは朝比奈さんたちと対立してるのか」
「敵対とまではいきませんが。一言でまとめると、小康状態でしょうね」
仲良く手を取り合っているわけでも、あからさまに敵視しているわけでもない。利害関係をもとにで手を組むことで安定を図っている、というところか。
彼がいい具合に話を向けてくれたので、『機関』や未来人の敵対組織が互いに手を組む可能性があることを比喩的に説明した。僕としては巧い例えをしたつもりだったのだが、彼は身体をさすりながら苦い表情をしている。お前の例えはわかりにくいと、そういえばいつかの閉鎖空間でも云われたことがあった。今度は森さんに具体的な例を考えてもらっておいた方がいいだろうか。
けれど今はこんな話し方をするしかない、特に彼を相手にするならば。そう云うと、当人には難儀な奴だと呆れられた。
「自分でもそう思いますが、しばらくはこんな調子ですね」
年末に、仮面が煩わしいなら捨ててしまえばいいとあなたは云ってくれたけれど、それは到底無理な相談なのです。この仮面を剥がしたら素の部分が見えてしまう。あなたの知らない、あなたの望まないであろう古泉一樹が。
「いつかそのうち、完全に対等な友人となったあなたと昔話を笑い話として語る日が来て欲しいものです。任務や役割など関係のない、ただの一人間としてね」
さあ、これで今話すべきことはすべて伝えた。あなたも随分と寒そうにしていることだし、名残惜しいですがそろそろ終わりにしましょう。
挨拶をして背を向ける。呼び止められることもなく、自転車の音は遠ざかっていった。
その音を聞きながら、すらすらと考えるより先に出てきたさっきの自分のセリフに苦笑した。よくもそんな大嘘が吐けたものだ。完全に、対等な、友人。笑わせる。誰と誰がだって?
僕は彼が好きだ。
一度自覚してしまえばその想いに捕らわれるのは早かった。彼ともっと近づきたい。笑って欲しい。怒って欲しい。泣いて欲しい。他の誰にも見せたことのない表情を、聞かせたことのない言葉を、僕だけに向けて欲しい。
けれどこれはどの現状にもそぐわない願望だ。『機関』の人間としても、彼の望む僕の姿としても。いいではないか、今の状態だって十分、近すぎるほど彼の傍にいて、多少の信頼すら獲得できた。これ以上なにを望むことがある?
だから、
しばらくはこんな調子。今までも、これからも。
本当にそう思っていたのだ。この時は。
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