古泉一樹の陰謀+古キョンの第一歩
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涼宮ハルヒは安定している。
それが現状における唯一の救いだった。年末の雪山の事件を受けて『機関』内は一気に慌ただしくなり、僕は能力者ではなく当事者としてそのコアメンバーに組み込まれていた。といっても、経験したことを色々な人へ繰り返し話し伝えただけだ(一部分については丁重に伏せさせてもらった。贋者だろうと醜態であることに変わりはない彼のためだ)。幸か不幸かここで関わる人間は皆、この世界では科学的実証の叶わない事象が往々にして起こり得ることを身をもって知っているので、僕自身の頭の具合を検査されるようなことはなかった。その代わりに何度も説明させて齟齬がないか確認していたのだろうが、そんなことはどうでもいい。
現状を脅かす存在がここまで直接的な行動をとったのは初めてのことだ。それがこの事件の持つ最大の意味だった。
『機関』と、あるいは現在小康状態にある情報統合思念体や朝比奈みくるの属する未来人サイドなどとは相対する立場をとる組織は掃いて捨てるほどある。朝倉涼子のいた急進派のようなものも含めれば、監視の目はいくらあっても足りない。だがその朝倉涼子でさえ、彼を手にかけるという間接的な方法で涼宮ハルヒを刺激しようとしたのだ。涼宮ハルヒ本人には特別な接触をしていない。それを考えれば、雪山での犯人がいかに強引な方法をとったのかがわかるだろう。
元々が普遍的な意味で普通の人間である、という点では僕らに近い橘京子の組織のこともある。『機関』が便宜上(僕は。中には真実、神だと信奉している者もいる)神という定義を用いている涼宮ハルヒはなにかの過ちでそうなったのであって、実際は違う。それを理解して協力しろ――という、狂ったとしか思えない提案を何度も持ちかけている彼女たちは、ここ半年ほどは大人しかったのだが、最近また不穏な動きを見せているのだという。
その報告だけでうんざりした。彼女たちがまともなことをしているとは到底考えられなかった。こちらが今の立場を変える気はないと云っているのに何度も協議を持ちかけてくる姿勢は莫迦だとしか思えない。なにか違う方向からの提案をするならまだしも、いつも同じことしか云わないのだから恐れ入る。それは真摯ではなく単細胞というものだ。頭の悪い相手と馴れ合っているほど『機関』は暇ではない、けれど向こうが新しい行動に出るのなら、無視するわけにはいかない。考えなしに涼宮ハルヒや彼に直接接触することも予想できたので、未然に防ぐ意味も含めて、特に監視を徹底することになったのが一月の末。僕はSOS団の人間として彼女たちの傍から警戒し、『機関』側からの監視は森さんが指揮を執ることになった。何事もなければいいのだが、そう甘い状況でもないことは明らかで、緊迫した中涼宮ハルヒが揺らぎを見せないことは本当に、救いなのだ。
『機関』の方へ仕掛けてくるならそうすればいい。その時は総力をもって叩き潰すだけだ。
けれど、もしも。
もしも奴らがこれ以上の前触れもなく僕の目の前でSOS団に手を出すようなことがあれば、僕はどんな手段を使ってもそれを赦さないだろう。『機関』もなにも関係がない、ごく個人的な感情を理由に考えうる最も残忍な方法を取るだろう。
そう、例えば閉鎖空間へ招待して人知れず《神人》によって殺させることだって、僕にはできるのだ。
ともあれ閉鎖空間が発生する予兆もなく至極穏やかな二月の日。授業を終えていつものように文芸部室へ向かうと、がらんとした空間が出迎えてくれた。誰もいない。ただ長テーブルの上に学校指定の鞄が一つ、無造作に投げ出されていた。その隣には乱れたメイド衣装が横たわっていて、ということはあれは朝比奈さんのものだろう。忘れ物でも取りに戻ったのだろうか。
不自然に開いた掃除用具入れの扉を閉めてからいつもの席に座った。二月は一年の中で最も寒いといわれるが、こう毎日寒くては感覚も麻痺するというものだ。朝比奈さんが戻ってきたら温かいお茶を淹れてもらおう。彼ほど無条件に賛美するわけではないが、僕だって彼女の淹れるお茶を楽しみにしているのだ。
今日はなんのゲームを持ちかけようかと考えていると、朝比奈さんは戻ってきた。続いて長門さんも入ってくる。これは少々珍しい組み合わせだ、長門さんはともかく、朝比奈さんは長門さんを苦手としているはずなのに。
「こんにちは。お出かけでしたか」
「古泉くん。ええ、うん、そうですね……ちょっと席を外してました。待っててくださいね、着替えたらすぐにお茶を淹れますから」
「いつもありがとうございます。では僕は出ていますので」
朝比奈さんがどこか困惑した表情を見せたが、長門さんには特に変化はない。ここに彼がいれば僕よりも微細にその表情を読み取ってくれるだろうが、あいにくまだ到着していなかった。さて、それよりも僕には懸念すべきことがある。
年末の大掃除以来、掃除用具入れは開けていないはずだ。これは僕の気にしすぎか?
朝比奈さんが手ずから淹れてくれた温かいお茶をありがたくいただいていると、乱暴に扉を開いて涼宮さんが入ってきた。吐き出すのを聞くところによると進路相談がお気に召さなかったようだ。これは報告すべき事項だと判断する、同時に、閉鎖空間の発生する気配がないことに内心で驚く。自分のことは自分でできてしまう涼宮さんが、自分の力ではどうにもならないことに直面した時にディレンマから作られるのが閉鎖空間である(という仮定が定着している)。それを鑑みると、いま閉鎖空間が発生しないということは仮定が間違いであるか、または涼宮さんが成長という名の諦念を獲得したかのどちらかだ。どちらが真実だろうかと巡らせていた思考を中断させたのは、三杯目のお茶を飲み干した涼宮さんの声だった。
「キョンは?」
彼がこの場にまだ来ていないことに気づいたらしい。彼がいるといないでは明らかに雰囲気が違うのだから当然だ。
「進路相談ではないですか?」
「あいつの進路相談はもう終わってるもの。まったく、こんな時間までどこで油売ってるのかしら。平団員が団長を出迎えないなんて減俸ものだわ」
具体的にはなにを減らすつもりなのだろう。涼宮さんは携帯電話を取り出して、数回操作したあと耳にあてた。通話の相手は訊くまでもない。
「どこにいんのよ」
少し苛立っている。短くやり取りを繰り返して、涼宮さんは思い切り怪訝そうな声で云った。
「シャミセンが脱毛症ですって?」
不覚にもお茶を吹き出すというコントのようなことをしそうになった。猫が脱毛症だなんて、寡聞にして聞いたことがない。どうして部室へ来ないのか知りませんが、もう少しまともな言い訳をしてもらえませんか。世界崩壊の危機があまりにも間抜けな理由で訪れたら、守っている人間としては虚しくなります。
「あんた、今誰かと一緒にいる?」
涼宮さんの声のトーンが変わった。低く落ち着いた、普段あまり聞かれない類のものだ。涼宮さんの問いに彼は否と答えたらしかったが、それを涼宮さんが気にする様子はない。ほどなくして通話は切られた。
仮に彼が誰かと一緒にいるとして、その相手は誰だろうかと脳内で彼の交友関係を俯瞰する。涼宮さんに知られたくない相手とは誰だ? 佐々木、という名前がよぎったが、涼宮さんと面識のない人物については隠す必要はないだろうと可能性を打ち消した。
結局そのまま各員個人活動をして、五時過ぎに解散となった。彼のいない帰り道はなんとなく手持ち無沙汰で団員の観察などしてみたが、やはりこれといった変化は見受けられなかった。
僕は閉鎖空間の出現を感知できる。どこにいようと、なにをしていようと、だ。どんなに深い眠りの最中にあっても、その出現とともに普段もこうなら困らないのにと思うほど一瞬のうちに覚醒して、状況を把握する。身体を起こす頃になって『機関』との連絡用の携帯電話が鳴る。それが夜中に仕事をする時の常だった。
だからこの電話は、閉鎖空間ではない。
まだ半ば眠りの淵に足をとられながら携帯電話を開いた。ディスプレイの眩しさに目を閉じる。その一瞬の間に確認した発信者の名前に、一体なにが起きたのかと最悪の事態を数パターン想像しながら通話ボタンを押した。
「……はい」
『状況が変わりました。警戒態勢は継続。そのうえであなたは周囲の人間に対し、より留意するように』
森さんの声が簡潔に告げた内容を、その倍の時間をかけて理解する。なにかが起きたが僕は平常営業でいろと、そういうことか。それはわかったが、それだけでは足りない。
「なにがあったんですか」
『朝比奈みくるがこの時間平面上に二人いるわ』
またしても簡潔な回答。こういう話し方をすれば、彼に話が長いと疎ましがられることもなくなるのだろうか。しかしそれは無理な相談だ、彼との会話は事務伝達ではない。
「大人の朝比奈さんですか」
『いいえ。外見的にはあなたが普段一緒に過ごしている朝比奈みくると変わりないそうよ。着ているものも北高の制服。今日の十八時半頃、彼と連れだって長門有希のマンションを訪れたというところまで報告を受けています』
ちなみに彼はその後ちゃんと自宅へ帰ったから安心なさい、と森さんは笑った。僕は笑えない。どこが笑いどころだったのだろうか。
「僕らと別れてからなにかの理由で彼と朝比奈さんが落ち合って長門さんへ助けを求めたのではないですか」
十二月の三日間とその事後処理のような事例もある。あの件に関しては、僕は相変わらず蚊帳の外、オブザーバーでしかない。また似たようなことが起きたのだとしたら、今度も僕の預かり知らないところで事件は動くだろう。
『それはないわ。放課後あなたと過ごした朝比奈みくるは通常どおり自宅へ戻り、目立った動きはないとのことです。TPDDの使用もなし』
「どうして、そんなに」
『確実よ。これは』
森さんはいつだって淀みなく話す。
『未来人側の監視員からの情報だから』
これ以上の説明は不要でしょうという隠れた声には同意見だったので、わかりましたとだけ応えて通話を切った。半日もあれば追加で詳細情報が届くだろう。それまでは森さんの云うとおり、身近な存在に気を配っているしかない。
ふたたび瞼を閉じると身体がやけに重く感じて、重いのは身体じゃなく精神のほうだと考え直す。ならばやはり精神は身体の中に宿るものなのだろうか。そんな思考実験を、続ける気にはなれなかった。
――なにかが起ころうとしている。
今夜だけはどうぞ涼宮さんが悪夢を見ませんように。どこかにいるかもしれない悪戯な神に願う。眠りはすぐに訪れて、夜明けまで乱されることはなかった。
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