恋にはしない

伝えないままの卒業式。古泉視点


 これ以上望むべくもない、穏やかで緩やかで安息に満ちた日々だった。
 三年前にひとりの少女の監視というただそれだけのために転校してきた時の、殺伐としてささくれ立った自分の精神、あるいは更に遡って六年前、突如異能の力と世界の命運を否応なく背負わされた時に夢想することすら諦めた温かなすべてのもの。過去の自分がひたすらに抱いていた薄暗くてペシミスティック、ヒロイックな情動の数々は、この三年間のための代償だったのだ。人生がプラマイゼロだなんて悠長な思想を持っているわけではないが、あの足元すら見えない永劫の暗闇を彷徨っているような時間に意味があるのなら、それは高校で過ごしたかけがえのない時のための助走なのだと、迷いなくそう思う。
 穏やかと、ただ平らに表現するには語弊があるかも知れない。高校生活、という四文字とは遠くかけ離れたいくつもの非日常な出来事が、僕の高校生活には確かにあった。けれどどんな事件も、必ず四人の仲間とあの文芸部室へと収束して、またいつもの光景へと戻るのだ。帰る場所があるように。それは他のどんなものよりも、安寧の象徴だった。
 高校生活にこんなにも強い執着を抱くようになるのだと三年前の自分に伝えてやりたい。きっと信じないだろう、けれどこれが現実だ。神が集めた、宇宙人と未来人と鍵と、僕。それはかけがえのない友人たち。
 朝比奈さんだけが私服のワンピースに身を包み、僕らは胸に赤い造花をつけて。

 抜けるような青空と満開の桜に祝福された、それは神が望んでセッティングされたロケーションなのかも知れない。
 そんな最高の、卒業式だった。

 涼宮ハルヒはもう閉鎖空間を生み出さない。
 それが僕を含む超能力者と、『機関』の約半数の人間の認識した現実だった。わかってしまうのだから仕方がない、あの力を与えられた時と同じだ。
 彼女が望むことによって雪解けが早まるかも知れない。桜花は寿命を延ばすかも知れない。その可能性はまだ大いにある。けれど例えそれが叶わず涼宮さんの気分が陰っても、閉鎖空間が発生し《神人》が凶暴性を振るうことはもう、ない。この点に関して、涼宮さんは自覚することのないまま、その能力を喪失したのだ。
 宇宙人、未来人サイドは引き続き観察を続けると聞いている(長門さんや朝比奈さんからではなく、『機関』から。ただし彼女たちがここにとどまっていること自体がそれを如実に僕へ伝えた)。『機関』に所属する人間の能力はまちまちで、今回の変化を感じ取れなかった者が約半数いるが、それでも上層部はほぼ確定事項と認識・判断。今の『機関』の任務は経過観察にとどまっている。総務の方は、組織全体の円滑な解散へ向けて準備しているとも聞いた。直接に関わる人間はともかく、ほうぼうへ無数のパイプを伸ばしているのが『機関』だ、きっと目も回るような激務だろう。幸い僕はもっぱら実務の担当なので、そちらについては任させてもらう。
 僕自身の能力には異変を感じるようなことはなかったが、もとより場所限定の超能力だ、発揮する場所が失われたのならば能力自体の喪失と変わらないだろう。
 それを寂しいと、思わなかったと云えば嘘になる。初めは死にすら思いを馳せた異能の力は、けれど自分にとって間違いなく意味と価値のあるものだった。それは時によってまったく違う意味を持っていたが、最終的にいま思うのは、僕を彼と彼女たちと引き合わせてくれたということだけだ。あの力がなければ僕は北高に転校してくることはなかったし、神や宇宙人や未来人と接触することもなかった。
「古泉」
 ――彼に、出会うことも。
「はい」
「写真撮るから並べってさ」
 彼はいつもと変わらない調子でそう云った。空はどこまでも高く、風はしずかにあたたかくて、世界はこんなにも眩しい。
「僕が撮りますよ」
「莫迦、それじゃ意味ないだろ。今ハルヒが――」
「捕まえてきたわよ! キョン、古泉くん、早く並びなさい!」
 吹き抜ける風に乗って涼宮さんのよく通る声が届いた。そちらを向くと、彼と涼宮さんを三年間見守ってきた岡部教諭が涼宮さんに連れられて、というより引きずられるようにして歩いてきている。その顔が嬉しそうに見えるのは僕だけではないはずだ。
 岡部教諭が構えたデジカメのレンズの真正面、旧館の壁を背に、涼宮さんが堂々と立つ。右手に長門さんを、左手に朝比奈さんを抱える様子を見て僕と彼が笑み交わし、女性三人を挟むように立った。ごく自然に、まるで自分の家へ帰るように。
「いい? 三年間で一番いい笑顔で写るのよ。シメの大切な日なんだからね!」
 騎士のように誇らしい気持ちで、僕はそこに立っていた。

 もはや恒例行事となったSOS団鍋パーティが今日も執り行われることになっていた。さすがに文芸部室は使えないので、第二のアジトとなっている長門さんの部屋へお邪魔させていただく。団の名誉顧問である鶴屋さんも招待されていて(家の都合で残念ながら卒業式には出席できず、パーティのみの参加ということだった)、一年のブランクなんてあのテンションにかかればなんの問題もないだろうな、と気さくな笑顔を思い浮かべてみる。
 朝比奈さんが卒業してからは四人で下っていた坂道を、あのころのように五人で歩いている。それだけで胸がいっぱいになる。これが本当に、皆で下る最後なのだと考えると、いつまでも坂が途切れなければいいのにと思った。
「あ、あたしちょっとコンビニ寄ってくから、先行ってて」
 坂の終盤に差し掛かった頃、涼宮さんがコンビニエンスストアの煌々と光る看板を見つけ、云った。
「必要なものがあるなら買い出しついでに買ってくぞ?」
 鍋の買い出しは僕と彼が、長門さんのマンション近くのスーパーでおこなう予定だった。事前に涼宮さんから拝領した買い物リストが僕の財布の中に入っている。リストが少々長くなろうと僕も彼も構わないのだが、涼宮さんは首を振った。
「いいのよ、これはまた別の用事なの。いいからあんたたちはリスト通りに買い物してきて頂戴。ちゃんと新鮮なやつを吟味するのよ。美味しい鍋は食材が命なんだから」
「じゃあお前が買い出しに行け」
「あたしは用があるって云ったでしょ。有希とみくるちゃんは器具の用意をお願いね」
「は、はいっ!」
 どうやら今でも長門さんのことが苦手らしい朝比奈さんがぴくっと肩を震わせる。マンション前で待っているであろう鶴屋さんにムードメーカー役を託して、僕と彼はスーパーへ向かった。

「新鮮な食材はどうやって見分ければいいのでしょうか」
 夕飯の買い物客でごった返す夕方のスーパー、ではなく、まだ明るいのんびりとした売場で、不覚にも立ち尽くしてしまった。
 鮮度の見分け方なんて知らない。もっと云えば、売場の配置もよく知らない。どこのスーパーも似たような配置をしているだろうけれど、そもそもスーパー自体にあまり縁がない。
 そんな部分で思わぬ男子高校生らしさを実感していると、彼はひょいとカゴを取り上げて野菜の並ぶ棚へ向かった。
「適当でいい、適当で。色が綺麗なやつにしろ。食われてるのは美味い証拠だから気にするな。あとは重さだな。量が多いに越したことはない」
「……適当でいいと云いながらあなた、注文が多くないですか」
「常識だろ。美味い鍋のためだ、しっかり働け副団長」
 そう云われてしまってはぐうの音も出ない。精一杯吟味させていただきます。
 水菜を真剣に見比べていたら、隣で大根をカゴに入れながら彼がぽつりと、云った。
「まあでも、このメンバーで食って不味い料理になることはないだろ」
 それは涼宮さんの料理の腕を信頼していらっしゃるからですか、それとも額面通りの、「誰と食べるかが決め手」という話でしょうか。
 声に出して、訊くことはできなかった。

 買い物を終えた僕たちは長門さんのマンションへ向かい、先に着いていた涼宮さんを含む女性陣に食材を託した。吟味はなかなかうまくいっていたようで、鍋はいつも以上に美味しく、パーティは過去にないほどの盛り上がりで、それは同時に、とても寂しい、と思った。
 今日が最後だと、理解しているからこそ。そんなことを一時でも忘れてしまうほどに騒いで、楽しみたいのだ。たとえばこれから先に同じメンバーで集まって同じメニューを食べて同じことをして遊んでも、それはもう、これまでとは違う。決定的に。具体的に説明できない感覚的なものだが、きっと時間の断層よりもはっきりとした断絶が、節目として区切りとして、今日と明日の間にあることは確かだ。
 誰だって、そこに悔いなんて残したくない。それをこの場の全員が思っていて、そしてそれほどに皆SOS団が大切なのだ。
 そこまで考えて、同じ気持ちを共有しているのだということが嬉しくてどうしようもなくなった。同じものを共有するなら心ゆくまで。彼と涼宮さんが押し合いへし合い状態なツイスターゲームに、次回戦は参加させてもらおうと決めた。

 パーティは深夜まで続き、結局女性陣はそのまま泊まることになった。後片付けは翌朝するそうで、任せてしまうのは心苦しかったがまさか僕らも泊まるというわけにもいかず、お願いすることにした。
 帰り支度をした僕と彼を、満面の笑みを浮かべた涼宮さんが玄関まで送り出してくれる。
「気をつけて帰りなさいよ。ふらふら浮かれて溝にはまるなんてバカなことしないようにね」
「するかアホ」
 答える彼の方も笑顔。ただやはり、名残惜しいと感じる尾ひれのようなものが混ざっている、と思う。僕もそうだから、きっと間違いではない。
「古泉くんもね。そんなことになったら副団長の解任を考えなきゃいけなくなるわ」
「それは困ります。僕はこの役目を気に入っているのでね」
「当然でしょ! あたしのSOS団なんだもの!」
「ハルヒ、声抑えろ。近所迷惑だ」
 兄らしい彼のセリフに反抗はせず、涼宮さんは笑顔のまま、真剣な眸で僕たちを見た。
「いい? 卒業してもSOS団は不思議を探し続けるのよ。活動回数は必然的に減っちゃうけど、その分密度は濃くなるんだからね。大学が遠いとか関係ないわ。精々団員の心構えを忘れずに、次の活動まで備えておきなさい」
 同じような内容の言葉を、涼宮さんは朝比奈さんの卒業から何度も云い続けていて、僕はそれを何度も聴いている。いま聴いたのは、今までの中で一番力強い言葉だった。
 神様で、団長で、ひとりの女子高生。その笑顔に僕がこんなにも安心しているなんて――元アルバイトとは関係なく――彼女は知らないだろう。知らないままでいい。そのままでいてほしい。
「これは団長からのプレゼント。大切にしなさいよ」
 涼宮さんは僕と彼の鞄の外ポケットへそれぞれなにかを押し込み、顔を見て、高らかにさよならを告げた。――少しだけ眉尻を下げて。
「じゃあね、また!」

 エントランスを出るとさすがに夜風は冷たく、反射で首を竦めた。マンションの明かりを背にして彼の隣を歩く。会話は少ない。ぽつり、ぽつりと声が落ちてはアスファルトにこぼれて、道端へ転がっていった。
 いろいろなものを、捨て置きながら歩いている気分だった。
 自分にはどうしようもなく大切で、手放したくなくて、けれどそれから離れなければ先へ進めないたくさんのものを。一歩進むごとに取りこぼして、身軽になって、けれど心は逆に重量を増していく。街灯の明かりがひどく頼りない。精神を引きずるようにして彼の横顔を盗み見た。
 とても、きれいだった。
 さっきのような浮いた笑顔はもうなく、ただまっすぐに澄んでいて、偽りがない。前を見つめて、しっかりとした足取りで歩を進める。「節目」を、きちんと定められた顔をしていた。その表情に言葉を失い、けれど同時に思う。彼はそういう人なのだと、ずっと前から知っていただろう、と。
「古泉、」
「……はい」
 いつしか僕と彼は、いつもの分岐に立っていた。いつも、ではまた部室で、と挨拶をしていた場所。数え切れないほどの回数、彼とそこで別れたはずなのに、まるで今日が初めてであるかのような気がした。まったく知らない光景に見えた。
 今までお世話になりました、とか。これからもどうぞよろしくお願いします、とか。決まりきった定型句を、決まりきった顔で声に出すのは得意ではなかったか。その行為を身体が、喉が拒絶して、彼もその間なにも云わず、沈黙がおりる。
 見つめ合っていたのはほんの数秒のことだろう。まるで永遠のような時間、なんて、初めて体験した。彼の口がなにかを云おうと動き、声にならないまま止まって、また動いた。
「また、な」
「……ええ」
 辺りは暗くて、彼がどんな表情でその言葉を口にしたのかはよくわからなかった。
 精一杯に取り繕った僕の笑顔も、できれば見えていなければいい。彼の記憶の中の自分が、少しでもきれいなものだったらいいのにと、祈るように見上げた夜空、少ないながらも星が瞬いて、それは確かに、道標の姿なのだった。

 彼の存在すら取りこぼしてなお歩き続ける。空いた両手に寂しさを拾い上げて。今日のように彼と別れて歩いた、閉鎖空間からの帰りに疲労を背負って歩いた、なにもない部屋なのに遊びに来る彼を伴って歩いた、SOS団の皆を連れて歩いた、よく馴染んだ、どこにでもあるような、道。
 かんかんかん、と鉄の階段を上り薄い扉の鍵を開けて暗いままの部屋に入り、扉を閉める。アパートの廊下の明かりも遮断されて途端に視界が真っ暗になった。閉鎖空間よりも暗い。背中を預けた扉はブレザー越しにも冷たい。けれどどうしようもなく、心はあたたかい。
 だめだ、と小さく掠れた声で呟いて、ずるずるとその場に座り込む。その拍子に荷物の少ない鞄をつぶしてしまって、がさりと音がした。そういえば涼宮さんがなにか、思って手を差し入れる。引っ張り出した一枚のそれ、感触から察した予感にどくどくと鼓動が聞こえそうなほど緊張しながらふらりと立ち上がり、玄関の電気をつけた。

 旧館前でそれぞれに「三年間で一番いい笑顔」を見せる、五人の写真。

 ぶわあ、と感情の激流が足元から押し寄せて目が眩み、今度こそその場にへたり込む。
 楽しかった。すばらしかった。輝いていた。そして、残酷だった。三年間、変わらぬ笑顔で蓋をしていた想いが溢れ出す。

 僕は彼が好きだった。
 それがどういう類の好意なのか、自分でもわからないままに。彼は最愛の友人で、守るべき人で、包み込んでくれる存在だった。その一方で時にはっきりと、性を伴った目で見ていたこともある。不思議とそれらの感情は拮抗せず、寄り添い合うようにして僕の中を静かに満たしていた。
 僕はきっと、彼のことが好きすぎたのだ。伝えることに怯えるほどに。
 彼を好きな僕にとって、この三年間は過ぎるほどに至福で、心地が好く、そしてパズルの最後のピースだけが巧く嵌らないような一欠けの物足りなさがあった。その正体になんてとうに気づいている。気づきながら見過ごして、見過ごして、三年が経った。その最後のうつくしい日に、一番うつくしい形で終わらせようと思うのは自然なことだ。綺麗なものはいつまでも綺麗なままで。破壊衝動なんて、今日この場にはあまりにもそぐわない。身の程を知らない。
 だから僕は間違っていない。今日を、いつもと同じように振る舞って過ごしたこと。彼の表情を伺うために手を伸ばしはしなかったこと。

 頬を伝う水滴も、すぐに蒸発して消えるのだ。無理に拭う必要などない。だから、気にしなくても、いい。
 嵌らないピースのことなど、このまましずかにしずかに、忘れて。

 涙が肌に染み込んで自分の一部になることを、ほんとうは知っている。

恋かもしれない

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