ローファーを捨てる話
—
桜は朝から続いた霧雨に濡れて、黒い夜空の中ぽっかりと、街灯に照らされ白い花びらをつややかに浮かび上がらせていた。重く垂れるその房は、明日の朝には見られなくなっているかも知れない。
ばらばらに散り、アスファルトと同化してそれはいつの間にか呆気なくどこかへと姿を消してしまうのだ。
光の速さで過ぎ去る、輝ける日々のように。
別れまでを一歩一歩たしかな足取りで歩んでいた毎日は、当日になれば勢いを増して時計の針を進めていった。浴びせられる幸福に目を眩ませていれば、その瞬間は必然という姿をして、僕に手を差し出した。
それを拒否する理由も選択肢も僕の中にはない。
名残惜しがる脚を動かして、最大限の笑顔をもってその手を掴み前へと進むこと。それだけが、いま僕に出来うるただひとつの積極的行為だった。
実際にその瞬間が訪れてみれば、それはひどく容易いことだった。僕の顔はなんの努力もせずに、仮面でも癖でもない、堪えてもどうにもならない歓喜を表す笑顔になったし、別れは惜しく、寂しく感じたけれど、だからといって抗おうとは欠片も思わなかった。
こんなにも美しい別れの中に自分がいることの、なんという奇跡。
ひとつでも違ったら、こんな別れにはならなかった。例えば傍にいるのが別の人間だったら。例えば彼らに対して抱く気持ちに違う名前をつけていたら。例えばあの時言葉を交わさなかったら。例えばあの目を、まっすぐに見ることをやめていたら。
きっと、生じた微かな曇りが視界を遮って感情を濁らせていただろう。
そんな間違いを犯さなかった自分を誉めて称えたい。ひとと対等に向き合うために、持ちうるすべての力を使って、逃げないこと。あるいはまた、逃げていた現実を認めること。
自分にそんなことができるなんて知らなかった。まったくもって、奇跡としか云いようがない。
荷物は少なかった。ほんとうにここから持ってゆくべきもの以外は、新しい場所で新しく揃えようと決めていた。
ここへ葬り去るものをひとつひとつ手放す。少しずつ身軽になって、代わりに心の中には溶けない雪が降り積もるような気分だった。しんしんと。ただ一面に。白く、白く、誰にも汚されない。
その最後、三年間履き古したローファーに別れを告げた。もう、あれは必要ない。
あれを履いて歩くことはもうない。ぼろぼろの靴で前へ進むことは困難だ。新しい靴、踵を鳴らして高らかに存在を叫びたい。恥じることなく。迷えども、偽ることなく。
よく見れば所々がほつれてしまった、古泉一樹らしからぬくすんだ焦げ茶のローファーは、支え続けてきた重みから解放されてその役目を全うした。
僕は心の中でそっと、その爪先にキスをした。
ゆっくりと、瞼をおろす。すっかり片づいて伽藍堂になった部屋、染み込んだにおいが海馬を刺激した。
喜びも、悲しみも、苦しみも、痛みも、楽しさも、苛立ちも、驚嘆も。怒った顔も泣いた顔も、数え切れないほどの笑顔も。
愛したものを全部まとめて閉じこめて、記憶という名の宝物にする。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます