古泉とみくる
ここにいる意味
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ことり。ちいさな音をたてて、長テーブルに湯飲みが置かれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
古泉は傍に立つメイド姿の未来人を見上げ、笑んだ。朝比奈は照れたように盆で口元を隠し――それはあくまでポーズだったが――それに応える。
熱い湯気の昇る玉露を一口啜り、古泉は窓際にぽつんと置かれたパイプ椅子へ視線をやった。
「長門さんは?」
「お隣みたいです。あたしも今日はまだ会ってないんですけど、いつもより隣の部屋が賑やかだから、たぶん」
「そうですか」
「涼宮さんとキョンくんはまだです。クラスでなにかあったのかも」
「二人が仲良くしてくださっているのなら、それ以上に望むことはありませんね」
言葉から毒気の抜かれた声が届き、朝比奈は茶器を整頓していた手を一瞬、止める。それから振り返らずに、そうですね、と云った。
「朝比奈さん、文化祭の時はお疲れ様でした」
唐突に一ヶ月前の出来事を振られ、朝比奈は振り返る。そこには先程と同じ位置、同じ表情で湯飲みを手にした古泉がいた。
「主演女優と聞くと華がありますが、栄光の影には苦労があるというのは本当ですね」
「あ、いいえ、そんな。古泉くんこそ、クラスの劇もあったのに大変でしたよね」
「あなたほどではありませんよ。僕は際どい衣装も、池に落ちるシーンもありませんでしたから」
「そんな――あたしは」
云いかけて、朝比奈は言葉を切った。禁則のために云えないのではないとわかったが、古泉は指摘しない。代わりに、空になったまだ温度の残る湯飲みを差し出した。
「よろしければ、お代わりをいただけませんか?」
最近は寒くなってきたので、温かいお茶がいっそう美味しいです。囁きよりは大きな声で紡がれた言葉に、朝比奈は眉を下げて、もちろんです、と承諾した。再び古泉へ背を向けて、長いスカートとエプロンの裾を揺らしながら準備をはじめる。古泉からは見えない手元で、指先が震えていた。
本館よりも人の少ない旧館の一角に二人。古泉は目蓋をおろし、急須に湯が注がれる音を聞いていた。その音はすぐに途切れて、また沈黙が訪れる。それに耐えかねたのかたまたまタイミングが合ったのか、朝比奈がいつもより真剣な声で、ぽつりと云った。
「古泉くん」
「なんでしょう」
古泉はいつもと変わらない声で返事をする。
「あたしはこの時代の人間ではなくて、禁則がかかっているから全然話せなくて、どじして迷惑をかけてばっかりで」
朝比奈は急須をそっと持ち上げて、湯飲みへ傾けた。注がれる静かな音が消えてからまた言葉を続ける。
「だから恥ずかしい格好も大変な撮影も、喜んでもらえるならいいんです」
どうぞ、熱いので気をつけてくださいね。朝比奈が差し出した湯飲みを頷いて受け取りながら古泉は、ああ、これは『彼』が無条件に庇護したがるのも仕方がないと納得した。
目的があって監視のために時間移動をしてきた朝比奈は、目的と平行して自分たちに奉仕している。なによりも、気持ちの面で。
「とても美味しいです」
「うふ、ありがとう」
ままごとのような日々の中で、少なくともこの応酬だけは真実だと、互いに思っていた。しばらく微笑み交わしたあと、あたしも飲もうかな、と朝比奈が薬缶に手を伸ばす。
「――朝比奈さん」
呟いた古泉の声は常よりも低く、小さく頼りなく、狭い文芸部室に響いた。
薬缶を持ち上げたまま朝比奈が振り返る。古泉は窓の方を向いており、長く柔らかい髪が邪魔をして顔はほとんど隠されていたが、その表情からは笑みが消えていた。
朝比奈は整った横顔を見つめて、古泉に合わせるように小さく応える。
「はい」
「あなたはここにいていい人なんです。涼宮さんにも、彼にも必要とされて、美味しいお茶を淹れることができて」
「古泉くん」
「嘘ばかりついて居座っている僕よりもずっと正しい」
言葉は窓の外へ吸い込まれて、散った。
「古泉くん、違います。あたしは嘘もつけないだけ。そういうふうになってるの。嘘をつけるなら、ついていると思います」
「そういうふうに――とは未来の技術ですか? どうやって?」
ゆっくりと窓から朝比奈へ視線を戻した古泉が、瞳に光を取り戻して訊いた。少年のような真剣な視線に朝比奈は目を丸くして、それから、悪戯っ子のような微笑みで人差し指を立てた。
「それは、禁則事項、です」
ふ、と古泉の表情に微笑が戻る。つられて朝比奈も、小さく声をあげて笑った。
「ごめんなさい、変なこと云っちゃって」
「僕の方こそ、お見苦しい真似をしてしまいました」
「とんでもないです。ふふ、ちょっとびっくりしちゃったけど」
朝比奈は首を傾げ、感情を隠しきれていない声で呟いた。
「あたしたち、似てるんですね。……あ、気を悪くしちゃったらごめんなさい!」
「――いいえ。僕もそう思っていたところです」
古泉が緩くかぶりを振って、朝比奈を見た。先程朝比奈がしたように人差し指を立て、
「では、僕たちは共犯ということで」
囁いた古泉の言葉は、朝比奈だけに届いて、笑顔によって受理された。
「ああ、どうやらお茶は三人分用意した方がよさそうですよ」
頷いた朝比奈は薬缶を持ち上げ、お水汲んできますね、と扉へ向かう。
廊下の遠くから二人分の足音と共に、古泉と朝比奈をこの場所へ導いた少女の声が聞こえてきていた。
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