古泉一樹の見舞
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「こんにちは。気分はいかがですか?」
重い身体を叱咤して階下へ降り、これまたやけに重く感じる玄関の扉を開くと、いつもの嫌味なまでに整った笑顔が秋晴れの下でそう挨拶した。
平時ならばともかく、今の俺にはこいつに気の利いた返答をしてやる義理はない。
「……怠い」
そこまで落ち度はなかったと思う。ただ、そう、少し油断していただけだ。残暑も落ち着いて涼しく過ごしやすくなったものだと思いつつ、室温調節のために窓を開けていて、そのまま閉めずに寝てしまっただけなのだ。
一晩が経ち、妹に起こされる頃にはすっかり風邪の初期症状が現れていた。
「今はお一人ですか?」
「ああ」
母親は買い物、妹は病気の兄を放置してミヨキチの家にお呼ばれしているのでここにはいない。そのせいか、家の中は妙に静まり返っていた。
「てっきり四人で来るものだと思っていたんだが」
そして俺はナース姿の朝比奈さんに癒して貰うつもりだったんだ。そのためにしんどい身体を引きずって玄関を開けたのに、それに応えたのがお前一人とはどういう了見だ。俺の癒しはどこへ。
「もちろん、涼宮さんはそのおつもりでしたよ。ですが僭越ながら僕が制止させていただいたのです」
つくづく余計なことしかしない奴である。
「朝比奈さんや長門さんならともかく、涼宮さんにはそんな姿を見られたくはないでしょう?」
そんな姿ってどんな姿だ。思ったが口に出すのはやめておいた。風邪をひいてぼんやりしているところなど、見られて気持ちのいいものではない。そういう意味では、古泉は実にどうでもいい対象だった。
ああ、だからハルヒではなく古泉から「お見舞いに行きますが何か食べたいものはありますか」とメールが来たのか。
「どうぞ、ご希望の品です。これでよろしかったですか?」
ゼリー、と三行メールならぬ三文字メールを返した俺の要望を古泉は忠実に守っていた。
「ああ。悪い」
「いいえ、このくらいお安い御用です」
カップのゼリーにコンビニで貰えるプラスチックのスプーンを添えて渡してきた古泉が、そのままじっと俺の顔を見つめた。
なんだ、顔になにかついてんのか。ついているといえばついているが。
「うわ」
流れるような動きで長い腕を伸ばした古泉が、そのまま俺の額に触れる。肌ではない。何故なら額には冷却ジェルシートが貼られているからだ。
「なに」
「だいぶ温くなってしまっていますね。換えましょう」
云って、ベッド脇に置いてあった予備のシートを手に取る。ぺりぺりと透明のシールを剥がして俺の額に手を伸ばしてきたので、そのくらい自分でできると丁重にお断りした。
「遠慮しないで甘えてくださればいいのに」
健康体の分際で妄言を吐いている。これ以上頭痛を酷くさせないで欲しい。シートを貼り換えると、熱をもったそれを古泉が自然な動作で受け取ってコンビニの袋へ片づけた。
大体なんでこいつはこんなに甲斐甲斐しいんだ、こんな時に限って。
「そういうつもりでもないのですがね。九割は下心ですし」
後半はよく聞こえなかったな。ゼリーのビニール蓋を開けると、甘い匂いがした。
「僕が甲斐甲斐しく看病していただいた経験があるので、自然とそうなるのでしょう。『機関』に迎え入れられて間もない頃、恥ずかしながら体調を崩してしまったことがありまして、その時にまあ、森さんに大変お世話になったわけです。いろいろあった時期でしたから、涙が出るかと思うほど嬉しかったんですよ」
そう云って古泉は極上の笑みを寄越したが、残念ながら俺はゼリーを食すのに精一杯だ。そういうことは森さんに直接云いたまえ。
「それと同じように――とはいかないかも知れませんが、具合の悪い人がいたら優しくしたいですから。身体でも拭きましょうか?」
「要らん」
というかお前は森さんに風邪で汗だくの身体を拭かせたのか。それはもはや介護じゃないのか。 「まさか、そこまでは。ああ、それも捨てておきますよ」
「ご馳走様。うまかった」
「どういたしまして」
早々に空になったカップとスプーンもコンビニ袋に放りこまれる。先程古泉は遠慮するなと云ったので、遠慮せずベッドに潜り込んだ。
しかし――看病、か。
まさか三年前と今の外見が一緒ということはないだろう。森さんはいまだに年齢不詳だが、中一の古泉と森さん、しかもダウンしている古泉と看病する森さんというのは想像するだにシュールだ。
「それは羨ましいな」
「でしょう? その場で手ずから作ってくださったお粥は、この世のものとは思えない美味しさでしたよ」
「違う」
ああ、頭がくらくらする。そっと目を閉じると、一気に身体がベッドへ沈んだような気がした。
「森さんが」
「…………え」
間抜けな声が遠く聞こえた。今の俺には再び玄関まで降りて鍵をかけて戻るだけの体力がない。帰るのは母親か妹か、とにかく家人が戻ってきてからにしろ。
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