九尾の猫が嗤う

軍パラレル

 ひゅう、と虚空を振り抜いた鞭の先から赤い雫が滴って、思わず眉を顰めた。ここまでするつもりはなかったのだが加減を誤ってしまったらしい。鞭を手袋の上に走らせてそれを拭うと、まだ鮮やかな血の筋が白い布に浮かんで舌打ちが漏れた。慣れ親しん匂いが微かに、けれどはっきりと感じられて、汚らわしいと思う。そして自分には、この汚れた場所が似合いだとも。
 そんなことはこの立場になるずっと前からわかっていたことだ。眩しい場所では巧く前を睨めない。自分は薄汚れたここで生きて、死んでいくだろう。汚れなく清潔なものに焦がれながら。

 鉄の扉を引いて部屋を出ると、がたんと重い音が大袈裟に響いて血の匂いを遮断した。先の部屋では明かりなどろくに灯していなかったので、白い廊下が一瞬、目に痛かった。
 閉じた扉には見向きもせずに廊下を歩く。すれ違う人間はみな自分を見ると怯えたように壁際に寄り、同じ角度で頭を下げた。その姿勢は美しいと思う。主と規律に忠実な姿は目を狂気にぎらつかせて、愚かで美しい。
 自分の家のような基地を、目的の部屋へ向かって迷いなく進む。軍靴がリノリウムを叩く音が好きだ。それはこの制服のようにストイックでありながら声高に存在を主張する。自分という脅威が今ここにいるのだと、お前という弱者へ忍び寄っているのだと伝える。なんという傲慢さ。見やった扉はちょうど開かれたところらしく、胸に鋲のない同じ服に身を包んだ人間が一斉に吐き出されてきた。退屈な会議から解放されて清々したといった体の彼らは、しかし自分を見ると人が変わったように道を空けて敬礼のポーズをとる。それが可笑しくて笑みが浮かぶ。疲れた部下を労るような、形ばかりの笑顔。
「お疲れ様でございます。会議はつい先刻終了しました。上官はまだ中におられます」
「わかりました。手を下ろして、持ち場へ戻ってくださって結構ですよ」
「はっ」
 自分が扉の内側へ入るまで手を下ろさない彼らの判断は、賢明だ。

 端役がすべて舞台を降りてからその入り口に手をかける。対面の壁に貼られた地図を睨んでいた彼が、こちらに気づいて振り向いた。
「……声かけろよ」
「真剣なようでしたので、お邪魔かと」
「なら来るな」
 ご冗談を。足を踏み入れ扉を閉めると、世界は途端に無音になった。乱雑に赤い印の書き込まれた地図を背に、彼がこちらに視線をくれる。
 彼の目は、いつだって澱みない。基地の中、軍の中、あるいは世界の中で、彼だけは。
「ストップ」
 手を伸ばせば届くか届かないかといった距離まで近づいたところで、彼がおもむろに制止をかけた。表情が思いのほか険しいのでひとまずは従い、両手を挙げてみせる。それを見て彼は益々不機嫌そうな顔をつくった。
「どうかなさいましたか」
 努めて軽い調子で云ってみたのだが、そのことも更に彼の精神に障ったらしい。少し長めに眸を閉じてからまた開き(あの薄い瞼にくちづけたい)、簡潔に云う。
「血の匂い」
「――ああ」
 彼はあまり生々しい現場へは赴かないので、きっと自分よりもこの鉄錆のような匂いに敏感なのだ。
 その思考を読み取った彼が言葉を続けた。
「匂いだけじゃない。手袋に血糊がついてる」
 彼がこの匂いを好ましく思っていないことは知っている。知っていて、一歩を踏み出した。かつ、と軍靴が存在を主張する。
「実はここへ来る直前まで、少々尋ね事をしていまして」
「来るなと云っただろう」
「気が立っているんですよ。これでも……人間ですから、それなりには」
「古泉」
 手など伸ばさなくても、少し身体を傾ければ触れ合えるような距離まで近づいてから立ち止まる。
「消毒、させてください」
 荒んだ神経を。
 答えは待たずに血で汚れた左手で彼の顎を掴み、唇を重ねる。わざと音をたてて乱暴にしてみせると彼は抵抗をやめた。宥めるように、舌がこちらの動きに応える。自分の口の端が上がるのがわかる。彼の舌が歯列をなぞって、舌を追うように絡めてきて、そうして精神は段々と凪いでいった。ひゅう、と鞭が風を斬る幻聴が耳の奥で響く。ざわり、背筋が疼いた。
 唾液をすべて口内へ流し込むようにしてから彼を解放する。手は頬に添えたまま。彼は真白い手袋で零れた唾液を拭い、身長差も階級の差も気にならないといったふうに睨んできた。笑顔でそれを受け止める。手袋越しにも彼の体温は克明に感じられた。温かく、心地好い。それはこの殺伐とした現実からはあまりにも乖離した温度だ。
「……気は済んだか」
 常より低いその声も、血肉を知っている身からすれば温いことに変わりない。可愛らしい人だと思う。誰にも渡さない。
「ええ、ありがとうございます。突然すみませんでした」
 まったくだ。彼は吐き捨てるように云って、ぱし、とこの手を振り払う。体温は離れ、視界に映る彼の姿は背中だけ。
 名残惜しく温度を反芻しようとする己の手を見下ろす。白い手袋の表面、乾いた血糊がかさりとひび割れ剥がれて、落ちた。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!