あふれる

散文四篇

「あさまで一緒にいてください」
 と、いつもに増して不審で気色悪いせりふを、いつもとはかけ離れた、描写を躊躇う声と顔をして古泉が云った。その目は俺を見ているようで、俺を通り越したどこか遠くを見ているようにも感じる。透視能力はないと云っていたはずだがあれは自己申告だった。点・古泉から点・俺を通った直線上で、例の《神人》が暴れているのかもしれない。しかし古泉は赤玉に変態するどころか数ミリも動く気配を見せず、ただじっと正面から俺を見ていた。
 古泉の眉尻が下がって、返事を待たれているのだと気づく。適度に散らかった部屋はおそろしく静かだった。古泉はなんと云っていた? 「朝まで一緒にいてください」? そんなせりふが飛び出るようなフラグが立った覚えはない。けれど古泉の口からは、いくら待っても冗談だとおどける軽口もお詫びして訂正するアナウンスも出てこない。
 だから、そう、理系特進的にこの状況が正解ならば、従ってやってみてもいいと、気まぐれに思っただけだ。
「わかった」
 古泉は自分で提案しておきながら了承されたことに驚いたように俺を見て、それからゆっくり音もなく破顔したその表情については、これも描写を割愛させてもらう。なんせあまりにもひどくて一瞬で目を逸らしてしまったせいで、よく覚えていないからな。

(朝まで一緒に)

 ふあんなんて、身近すぎるほどいつでも傍にある。人生が思うようにいったことなどないし(その逆ならたくさんあるが)、目まぐるしく変化する環境に耐え馴染んで一体化してしまえるほど簡単な精神構造をしているわけでもない。無自覚な神に与えられた力はあまりにもちっぽけで、結局のところ自分がせいぜいおまけつき程度のただの人間でしかないことを思い知らされただけだ。
 こんな現実を受け入れられる人間なんているものか、いたらお目にかかりたい。そう思っていたのに。
「わかった」
 あなたが神も未来人も宇宙人も莫迦な超能力者も、すべてまるごと受け入れてしまうものだから。
「あ、りがとう、ございます」
 その残酷な優しさを享受できるような、もう少しだけ無茶をお願いしても大丈夫だろうかと、愚かな夢を見てはそれを当人に伝えるだなんて莫迦な真似をしてしまうのだ。

(不安なんて)

 れいがいなんだ、と思う。長門も朝比奈さんもハルヒによって集められたらしいが、あのふたりは観察や観測のためにハルヒを見ている。それぞれの組織や親玉の方では面倒なあれこれがあるのかもしれない、けれど古泉は更にそれにプラスしてハルヒのご機嫌取りという厄介すぎる任務を抱えている。《神人》退治よりもよほど重労働なんじゃないか。ああ、でもあれを倒すのも結局はハルヒの機嫌を宥めているようなものなんだったか。
 これは推測だが、『機関』とやらの中でも古泉のポジションはかなりデリケートなんじゃないかと思う。なんせハルヒを神様に例えるような組織だ、その神様のすぐ傍で毎日過ごしている奴がいることを快く思わない輩だっているだろう。しかし古泉になにかあればハルヒが黙っていないのは火を見るより明らかで、世界崩壊を阻止するための組織はそんなことはできないはずだ。
 すべてがどうしようもなく抗えずただ受け入れるしかない現実だとわかっていても、感情が反発してしまうのが人間で。古泉の置かれた立場はあまりにも雁字搦めで。
(古泉は、孤独だ)
 唐突にそう思い至った途端、心臓が締め付けられたような気がした。
 古泉が孤独なら、そんな状況であんな顔をして俺に手を伸ばすなら、俺は考えるより先にその手を掴んで引いてやるだろうと、そう、思った。
 その感情の名前はまだ、わからない。

(例外)

 るりいろの空がゆっくりと世界を覆ってゆくのをカーテンの隙間からに見ていた。きれいだと、素直に思う。きれいすぎて泣きたくなる。自分が守っている世界はこんなにも美しく、僕はただそれを誇っていればいいだけなのに、いつの間にか胸のうちにはぐちゃぐちゃとまとまりのない、そのくせ手にも負えないなにかとてつもなく恐ろしいものが住み着いてしまった。
(ちがう、泣きたくなるのは、)
 自分の存在がそぐわないせいなんかじゃない。どんなにつらい現実でも、すぐ傍に優しさがあることを知っているから。無邪気な神は僕がこんなものを抱えていることを知らないのに、そんなこととは無関係に優しい。彼だって。彼女たちだって。
 表面張力だけで保っているコップの水は、少しの衝撃であっけなく溢れ出す。理科を勉強するまでもなく、それは生活の中で知ることだ。
 ――僕はなにかを、誰かに望んでも、ゆるされるのだろうか。
 瑠璃色の空が白んで朝が訪れる。やわらかい光の中、彼はまだ、隣で眠っている。

(瑠璃色の)

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