九千九百九十九の残像

エンドレスエイト。いわゆるひとつの幻のシークエンス

「参ったなあ、降参ですよ。どうしてわかったんです?」
 古泉は眉尻を下げ、ひらりと両手を挙げてみせた。
 温い風が、身体の表面を撫でるようによぎる。嘘くさい爽やかな笑顔の向こう、濃紺の背景には、星なんて数えるほどしか見えなかった。

 その日はハルヒの横暴な夏休みスケジュールによって、天体観測することになっていた。だが空は薄い雲に覆われて、とてもじゃないが満天の星空など見えそうにない。団長殿はさぞやお怒りになられるだろうと思うと、連日のアクティブすぎる活動で疲労を訴えている身体が、ずしりと更に重くなったような気がした。
 長門のマンションへ行くと、そのまま屋上へ案内された。他の住人の姿はなく、先に来ていた古泉がひとり、持参したらしい天体望遠鏡をセッティングしているところだった。どう見ても軽そうには見えないそれは、しかし『機関』が今日のために用意したと考えるには古泉に似合いすぎていて、ちり、と焼けるような違和感を覚える。
「今晩は」
 望遠鏡の白く滑らかな表面を一撫でして、古泉は云った。俺と長門の顔を見比べ、口元に手をあててなにか考える素振りをしてから――きっと結果はとうに出ていて、今この瞬間に考えたのではないだろう――四ヶ月ですっかり見慣れた「古泉一樹の笑顔」を長門へ向けた。
「ちょうどいいタイミングかも知れませんね。彼に話してみるというのはどうでしょう?」
「わたしの役目は観察すること。あなたに任せる」
「そうですか。では遠慮なく」
 その短い会話に、無性に苛立った。俺の計り知れないところで長門と古泉が通じているということに。それは俺に無関係ではないはずなのに、判断が俺自身へは委ねられないということに。
 この場にいるのが長門ではなく朝比奈さんだったとしても、きっと俺は同じように感じただろう。あるいはハルヒであっても。――つまり俺の苛立ちの対象は古泉なのだ。いつもそうだった。声を荒げるほどではない、けれど見過ごすこともできない小さな引っかかりを覚えた時、その対象になるのは決まって古泉だった。
 だから、またか、と思う。また俺は、これを静かにやり過ごさなければならないのか。
 古泉はそんな俺の苦痛を察する様子もなく、例の笑顔のままで云った。
「どんな些細なことでも構いません。あなたは八月後半のこのSOS団活動中、既視感を覚えることはありませんでしたか?」

 古泉の長い演説に思考を放棄しかけた俺の脳へとどめを刺すように、いちまんかいめ、と長門は温度の感じられない声で抑揚なく云った。たった七文字のその言葉に、ぐらりと頭が揺さぶられて思わず俯く。
 夕方になっても、地表にはじりじりと茹だるような陽炎が浮いている。長門の小さな声を認識できたことが不思議なくらい、辺りには気が狂いそうなほどの蝉の大合唱が響いている。
 けれど一瞬、眩暈がしたのは暑さのせいなんかじゃない。つう、とこめかみを伝ったのは紛れもない、冷や汗。
「いちまん……?」
「ええ。さすがに僕もさきほど聞いた時は聞き返してしまいましたよ。まさか五桁の大台に乗っているとは夢にも思いませんでした」
 さすがは涼宮さんです、スケールが違う、と笑う。つっこみどころはそこじゃないだろうと思ってまた一瞬、胸が痛んだ。いつもそうだ。心臓を爪で引っかかれたみたいな、致命傷ではないが確実ななにかが与えられて、そのたびに俺は眉をひそめている。
「涼宮ハルヒと朝比奈みくるが到着する」
 不意に長門がそう云って、そのまま屋上から出て行ってしまった。長門がああ云うからには、もうすぐハルヒと朝比奈さんがマンションのエントランスに到着して、長門を呼ぶのだろう。そうしたらここへ来る。この話は中断されてしまう。
 それじゃ駄目だと思った。本当にこの二週間が一万回もループしているのなら。夏休みから脱出するためには、ただハルヒのいいなりになっているだけじゃ駄目なんだ。それは過去の、九千九百九十九回の俺たちが証明している。長門が観察に徹すると宣言している以上、相談相手に適任なのは古泉だ。
「――――古泉?」
「はい」
 柔らかい声とともに向けられた笑顔を見て、俺は唐突に理解する。
 ああ、こいつは、この話を――俺と共に解決するために、話したわけではないのだと。
「お前、こんな話をしておいて、どうにかしようとは思ってないんだろう」
 自分でも驚くくらいに低い声が出た。古泉も驚いたらしく、数度目を瞬かせたが、その表情はすぐに元の仮面に戻る。
「参ったなあ、降参ですよ。どうしてわかったんです?」
 古泉は眉尻を下げ、ひらりと両手を挙げてみせた。糾弾したこちらが面食らうほどの、呆気ない白旗。そしてそう、さっきの今ですっかり忘れていたが、こいつは自分のペースで演説をするのが好きな奴なのだった。
「考えてもみてください。いま僕たちは、終わらない夏休みの中にいるんです。閉鎖空間の発生がゼロとは云いません。事実、海へ行く予定の日に台風が来た――などという理由で閉鎖空間が発生したこともあります」
 僕のデジャヴが正しければですが、と古泉は後付けで注釈をくっつけた。
「けれど夏休みである間は、もっと大きな外的要因に脅かされることはないのです。あなたがいつか涼宮さんと閉じ込められたような、世界の終わりへの扉は開かれない。先日程度の閉鎖空間であれば、僕らは容易に消滅させられます。その意味では限りなく安全なのです。この世界は、終わらないんですよ」
「ふざけるな」
 曖昧模糊な古泉の言葉が、俺の神経を逆撫でるのがわかった。口惜しい。悲しい。同じ状況に身を置いて自覚している、一握りの相手だというのに、それに対する考え方が違いすぎることが、どうしようもなくやりきれなかった。
「お前の守っている世界の平和とやらはそんなものだったのか。それは終わらない世界じゃない、始まらない世界だ。死んだ世界を守ることになんの意味がある? お前の持っている妙な力は、そんなことのためにあるんじゃないだろう」
 俺よりずっと頭がいいのだから、この程度のことに気づかないはずがない。
「――だから、」
 古泉は貼り付けていた顔を一瞬歪めた。聞いたこともないような声だった。
「だから僕は、あなたのことが、」
 嫌いなんですと云ったのか、苦手なんですと云ったのか。あるいは。
 ちょうどそのタイミングで屋上の扉が勢いよく開かれ、ハルヒ以下二名が登場したので、その続きを直接問いただすことはなかった。ぼんやりと浮かんだいくつかの選択肢は、九千九百九十九回分の記憶の海からすくい上げられたものだろうか。
 温い風が、身体の表面を撫でるようによぎる。嘘くさい爽やかな笑顔の向こう、濃紺の背景には、星なんて数えるほどしか見えなかった。

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