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消失のような


夢と現実の区別なんてない
夢と感じていることでそれは現実と云えるし
現実なんて儚い泡雪 夢みたいなものだ
ならばどちらも正しく受け止められるべき事象
悦びも痛みも同等に

 にたあ、という擬音が似合う笑み方をして、目の前の男は俺を見た。こいつのデフォルトの表情は笑顔であり、その中にも微細な変化があることは知っていたが、こんな種類の笑みは見たことがない。ぞっとする。眸はちっとも笑っていないどころか獣のようにぎらついているし、歪んだ口元に浮かんでいるのは好意に見せかけた殺意だ。
 その表情のまま、男は鬱陶しいというように詰め襟のホックを外した。よく知っている指先だった。緑の盤上で、白を黒へ変える仕草を思い出す。
「知っていますか」
 可笑しくて仕方がないのを必死に堪えているような声だった。俺は答えない。
「古泉一樹は、あなたのことが嫌いですよ」
 尖った氷柱が頬を掠めて落ちたような感覚がした。第一ボタンまで外した古泉一樹が、俺の睨める視線に気づいて表情を変える。俺の、よく知っている、微笑のほうへ。
 違う。その微笑は知っているが、それがこんなにも場を凍らせたことはない。苛々する。
「知ってる」
 俺は簡潔に答えた。こいつの言葉に返すにはこれで十分だ。
「おや」
 小莫迦にするような口調。また苛立つ。
「ご存知でしたか。親切のつもりで教えて差し上げたのですが」
「そんな親切は要らないし、お前なんかに教えられたくはないな」
「それは残念。僕はあなたの古泉一樹とは違って、あなたのことが好きですのに」
「俺はお前を見ると反吐が出そうだ」
 その言葉に、学ランの古泉は心底嬉しそうに笑う。俺の知ってる古泉は、こういう種類のマゾじゃないな。
「古泉が俺を嫌いだろうがお前には関係ないだろう。少なくとも古泉は、お前よりは素直で可愛げがある」
 俺を好きだと云いながら全身で俺を厭うているこいつよりも、俺を嫌っていることを隠しきれていなかった古泉の方が数段素直だ。ちなみに可愛げがあるというのは単に言葉のアヤであって、実際に可愛いかと問われればかなり可愛くないと即答できる。
「お前は、古泉じゃない」
「どこが違うのですか? この服装以外に相違点を指摘できるほど、あなたは僕のことを知っているのでしょうか」
 知らないさ。だが、お前が古泉じゃないことくらい俺にだってわかる。薄目で俺を睨む学ランの古泉は、片手の掌を広げて俺に言葉を促していた。
「俺の古泉はきっと、俺が嫌われていたと気づいていることに気づいてる」
 学ランの古泉は驚いたようにこちらを見ていた。ああ、その顔も珍しいな。せいぜい最初の頃、セクハラ中の文芸部室に入ってきた時くらいか。そういえばあの頃はこっちにアドバンテージがあったような気がするのに、いつの間に同等になったのだろう。
 そんなことを漫然と考える。瞬きの間に、学ランの古泉は消えていた。

3.5699456→ロジスティック写像のカオス発生点

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