おあげのない店

コックコート虎次郎×妖狐薫

 早朝の市場で買い出しをして店へ行き、コックコートに着替えてまずすることは、表に並ぶ草花への水やりだ。
 外の蛇口から伸びるホースを持って、先端をつぶす。ぬるい水が指先の皮膚をふるわせながら扇状に飛び出して、植木鉢やプランターの緑を濡らしていった。体をかがめ、葉に隠れた土へ水を与えるのも忘れずに。
 まだアルバイトのスタッフも出勤してこないこのひとときは虎次郎だけののんびりとした時間である。
 そんな中、不意に店の影から人影が現れた。
 それだけならば珍しくはない。店はアパートの一階にあり、顔見知りの住人たちとすれ違うのはよくあることだ。
 しかし今日現れたのはアパートの住人ではなかった。顔見知りといえば顔見知り以上に見知った顔をしているが、そもそもそれを人と言うのが適切か、あまりに突然のことに判断ができない。
 目を疑うような光景に思わず手から力が抜けて、持っていたホースが地面に落ちる。流れ続ける水が跳ねて虎次郎の足元を濡らすが、もはやそんなことに構う余裕はなかった。
「か、…………薫……?」
 ぽかんと開けた口から、呼び慣れた名前がようやくこぼれ落ちる。
 人影は、幼馴染によく似た姿をしていた。
 桜色の長い髪、白い頬。ひと睨みで相手を萎縮させられてしまう切長の瞳。和装でいるところも同じである。
 ただその頭には大きな三角形の獣の耳がふたつ生え、そして身体は宙に浮いていた。
「ほう」
 口元で開いた黒い扇の影で、たしかに彼は言った。
「俺が見えるんだな」
 くすくすと笑い混じりの声すら薫に似ている。
 薫のような見た目のその生き物は、ふわふわと浮いたまま虎次郎へ近寄ってきた。
 学生のころから体格には恵まれたほうで、誰かに対して力で勝てないと、恐ろしいと感じることはほとんどなかった。普段小競り合いばかりしている薫とも、本気でやり合ったらきっと虎次郎が勝つ。身長は近くても体格には歴然とした差があって、薫が妙な知恵や道具を繰り出してこない限り負ける気はしない。
 だが今、その薫にそっくりのなにかと向き合って、虎次郎の足は一歩も動かなかった。
 かろうじて口ははくはくと開閉するが、こんな状況でなにを言ったらいいのかもわからず、間抜けに動くばかり。
 相手はそんな虎次郎の様子を、目を細めて愉快げに──この表情も薫と似ている──頭のてっぺんから爪先まで検分するように眺め回した。
 虎次郎の顔を、靴を。洗濯したばかりの白いコックコートと、裾の濡れたサロンエプロンを。
「ちょうどいい。腹が減っているんだ。なにか食わせろ、小僧」

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!