ジョーチェリ覆面小説企画にお題「酔いどれ」で参加させていただいたもの
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こいつの酔っ払った姿なんて、俺だけが知っていればいいと思う。
酒に弱い、なんてことは全然ない。接待でさんざん飲まされたから口直しだとか言って、閉店後の店にワインを飲みに来るようなやつだ。だから俺以外の人間は薫の酔っ払ったところなんて見たことがないんじゃないかと思う。半分は願望で。
「聞いてるのか虎次郎」
「聞いてる聞いてる」
長くて意外と筋肉質な左腕をめいっぱい伸ばして俺の肩に回し、薫は思いきり顔を近づけてきた。アルコールのこもった息が頬にかかる。
薫の手の中にはいつものワイングラス──ではなくお猪口があった。ローテーブルには藍色のカラカラ。泡盛用の酒器だ。細い首とぼってりと平たい胴体がくっついた壺のようなかたちから注ぎ口が生えている。店の常連客が泡盛を差し入れてくれたもののイタリアンレストランで提供するにはそぐわず、こうして宅飲みと相成ったのだった。
「お前の顔、嫌いじゃないぞ」
そう言って、酔って赤くなった手のひらで俺の頬をつうっとなぞる。鼻先がくっついて、眼鏡の奥の据わった目がじっと覗き込んできた。そこまでするなら早くキスしてほしい。
「なあこれ、素面のときにやってほしいんだけど」
「素面でこんなことできるかボケナス」
「そういう判断する理性はあるんだ……」
「類人猿とは違うからな」
ふふんと満足げに笑って小首をかしげる。いま手元にカメラがないことを心底悔やみながら、薫が首を傾けた拍子に口の端に引っかかった髪をよけてやった。
「薫」
してくれないのならするまでだと、こっちから両手を伸ばして頬を包む。ちょっと尋常じゃないくらい熱い。大丈夫か?
俺が一瞬手を止めた隙に薫はするりと離れていって、右半身が急に肌寒くなった。三人がけのソファは平均以上の体格の男ふたりで座っても余裕があるのがいいところだが、こういうときに逃げ場ができてしまうのはよくないところだ。
「残念だったな?」
薫は目を細めてくすくすと笑っていた。悪戯が成功した子供のようにというには色気がありすぎる。
距離が近いのは俺限定でいつものことだが、やけに物理的に絡んでくる、かと思えば上機嫌に笑う、いい感じに酔っ払った薫はたちが悪い。
そうやってころころと態度を変えていた薫は最終的にお猪口をローテーブルへ置き、顔をしかめた。
「……う、」
「どうした?」
「…………頭が痛い」
奇遇だな、俺もだよ。
◆
こいつはここがどこだか忘れているんじゃないだろうか。カーテンもブラインドもないこの店で、こんな遅い時間に店主がこんな顔をしているのをもし外から誰かに見られたら、とは考えないのか。
訝しんだのは一瞬だけだった。まがりなりにも理性のある大人なら考慮できるだろうが、今のこいつはどう見てもそういう状態ではない。
「客より飲むシェフというのはどうなんだ」
「お前は客じゃねえだろ」
カウンターの外へ出て、俺と並んで酒を飲んでいた虎次郎が真顔で言った。アンバーの瞳が湿度をもって俺を見つめてくる。
身体の大きいぶん、いつもの人当たりのいい笑顔がなくなると迫力があった。目は真剣だが理性はもうありませんと顔に書いてある。なんなら俺が書いてやってもいい。こんな油断しきった姿、虎次郎はSではべらせている女相手には絶対に見せない。
「薫」
普段はうんざりするくらい口が回るくせに本当に酔いが回ると言葉少なになる。言外に込められたものは胸焼けするほど伝わってくるがあえて無視していると、それを咎めるように、カウンターのグラスに添えていた俺の手に大きな手のひらが重なった。まだ中身が残っているのに。
「薫、」
なあ、と鼻にかかった甘ったれた声が耳元で聞こえてきて、これを肴にもう一杯飲むのもいいような気がしてくるが、それが叶わないのは経験上もうわかっていた。
「……かおる」
顔を寄せて、とびきりの低い声を、無自覚で注いでくるのだからたちが悪い。
そんな声を出すくせにそれ以上のことはしないあたり、賢い大型犬のようでもあった。主人の許可を待っている。許可した瞬間に全力で飛びついてくるやつだ。
「……ベッドまで我慢しろ」
言うと虎次郎は俺の飲みかけのグラスを引ったくって厨房へ置きに行った。仕方ないので俺はまだ中身のあるボトルにコルクを挿してワインセラーに戻してやる。どうせ明日も飲むから酸化は気にしない。
厨房から戻ってきた虎次郎がホールの明かりを消して、途端にあたりは真っ暗になった。そんな中でも分厚い手が俺の手首を迷いなく掴んで店の外まで引きずるように連れていく。
「おい。痛い」
抗議すると馬鹿の虎次郎はもう日本語もわからないらしく掴む力を強めてきた。本当に痛い。でも気分はいいから、振り払わないでおいてやる。
月あかりの中で虎次郎は一度俺を見て、手首をぎゅうと掴んだまま、たいした距離もない帰り道を大股で歩き出した。
心優しいゴリラのくせに、こういうときだけ名前のとおり虎のような目で見てくるのが、好きか嫌いかで言うと、嫌いではなかった。
こいつの酔っ払った姿なんて、俺だけが知っていればいい。
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