take it easy

9話後に同居する付き合ってないジョーチェリ。桜屋敷先生はいいドライヤー使ってそう

 甲斐甲斐しいやつだということは、こんなことになる前から知っていた。
 こんな大怪我を負う前から、たとえば閉店後の店で磨き上げられたグラスにワインがサーブされることも、頼んでもいないのに帰国の日程を知らせるついでに土産のリクエストを訊かれたことも、学生鞄の中に二人分の弁当を作って持ってきたことも。立場が逆だったら薫は絶対にやらないようなことを、虎次郎はたいして苦でもなさそうにやる人間だった。
「なあ、やっぱり一緒に暮らさねえか」
 だから薫はこれも虎次郎の甲斐甲斐しさの延長線上なのだと考え、よく回る頭でメリットとデメリットを一瞬でリストアップし天秤にかけて、そうだな、と答えた。

 病院から抜け出した先、店のカウンターで眠ってしまったのは不覚だった。酒を飲んだら眠れるかと思っていたのに飲む前に寝落ちるなんてどうかしている。おまけに虎次郎がしばらく起こさなかったので、うたた寝から目覚めた薫の全身の痛みはひどかった。病院で与えられた痛み止めの効果も切れているのかもしれない。
「なぜ起こさないんだ低脳ゴリラ」
 虎次郎は薫の右隣に座って、カウンターにずらりと並べたカトラリーをちまちまと磨いていた。大きな背中を丸め、クロスに研磨剤をつけてシルバーを鏡のようになるまで磨く姿は、なんて器用なゴリラなんだと薫を心底感心させた。
「鏡見てから言えよな。……ったく」
「なんの話だ」
「隈ひどいぞ」
 ストレートに指摘されて薫は舌打ちした。病室に鏡がないのであまり直視する機会がなかったが、心当たりは大いにある。それからカウンターに置かれたワイングラスに気づき、左手で一気にあおった。
「ぬるい」
「おめーが寝落ちたからだよ」
 不満を言いながらも薫がワインを飲み干したのを見て虎次郎が立ち上がる。磨いたカトラリーと空のグラスをまとめてトレイに置き、キッチンへ引っ込んだ。
「お前このあとどうすんだ。今から病院に戻るのか?」
「眠い」
「俺も眠いわバカ」
 時刻は深夜二時を過ぎていた。明日が定休日なのが唯一の救いだ。いくら心配といっても店をないがしろにするわけにはいかず、やっと見舞いに行けると思っていたところだったから、薫のほうから訪ねてきたことで結果的に会うのが半日ほど早まった。
 食器洗浄機にグラスとカトラリーをセットする。次に店へ来ればぴかぴかになっているはずだ。
「もういいから泊まってけ。朝になったら送り返してやる」
「朝か……塩鮭と豆腐の味噌汁」
「リクエスト聞いてねえよ」
「出汁巻きは少しだけ甘いのがいい」
「病人は粥でも食ってろ」
 虎次郎が店のドアを全開にする。良い子のカーラはどこにもぶつからずに外へ出た。
「カーラ、虎次郎の横について行ってくれ」
『OKマスター』
 ウィィンと静かなモーターの音を立てて、車椅子に組み込まれた人工知能が主人の命令を遂行する。
 車椅子用に舗装されていない道路をガタガタと進むのは、電車に揺られるのに似ていた。普段の移動はもっぱらバイクが多いから、慣れない振動が妙に眠気を誘う。
 会話はなく、遠くの県道を数台の車が通り過ぎる音を聞く。同じ夜でも鉱山の熱狂とは程遠い。
 いつもは五分とかからない虎次郎の家まで十分かけて辿り着くあいだ、頭上からちらちらと視線が降ってくるのを、薫は気づかないふりをした。家に着いたころには再び眠気に両手足を絡め取られて、玄関からベッドまで抱えて運ばれたのに文句をつけることもできなかった。温かいタオルで顔や背中を拭われたのが心地よかったことだけは夢うつつに覚えている。
 翌朝の食卓には豆腐の味噌汁と出汁巻き卵と粥が並んだ。

「髪を洗え」
 退院後、頭から包帯が取れたのでそう告げると虎次郎はいよいよ呆れたような目を返してきた。
 美容院へ行けばプロが丁寧に洗ってくれることくらいわかっている。だがそれをこの先毎日続けるのはあまり現実的ではなく、かといって髪を洗わないのはもっと現実的ではなかった。
 そこで先日泊まっていったときのことを思い出したのだ。半分寝ながらではあったが、タオルで身体を拭かれたのは決して悪い気分ではなかった。
 あの手ならなんだかんだと文句を言いながら及第点くらいには髪を洗えるだろうと踏んだのは正解だったと、その晩早々に証明されることになる。顔に水がかかった耳の後ろが洗えていない毛先までちゃんと洗えドライヤーは一箇所に当て続けるなと薫が注文をつけたのを、虎次郎はうるせぇなと言いながら全部叶えていった。
「一応聞くけど、明日も来るのか」
「来る」
 はぁ、と虎次郎はこれ見よがしに大きな溜息をついてみせた。薫がそんなことで気を改めるとは露ほども思ってはいないが、これくらいは許されるはずだ。
 案の定薫は自分のせいでそんな溜息をつかせたという意識は微塵もないようで、いつもの憮然とした顔を向けている。
「もう治るまで泊まってけば」
 虎次郎は心底どっちでもよさそうな声で言った。薫は考える必要もなく、そうする、と答えた。
 それから一ヶ月、腕のギプスが取れるまで薫は虎次郎の家にいた。両手がなんとか使えるようになったので帰っていった。
 それが二週間前のことだ。

「待て、やっぱりってなんだ」
 提案に頷いてワインの続きを飲もうとグラスを持ち上げた手をはたと止める。薫は職業柄、不自然な言葉に敏感だった。
「俺は怪我人だから他人がいた方がメリットがあるが、お前はなにも得しないだろう」
 ギプスは取れたとはいえリハビリに通っている途中で、以前と変わりなく動けるとはまだ言えない。日常のいろいろな動作が少しずつ遅く、小さな不便が積み重なっている。虎次郎の甲斐甲斐しさやその体躯からは想像しにくい器用さは、薫の不便を取り除くのが得意だった。
「メリットっつうか……」
 虎次郎は鸚鵡返しにしながら首をひねる。薫は本人が言ったとおり、なにかを選ぶときに損得勘定をきちんとするほうだが、虎次郎はそうではない。そのほうがいいと思ったからという以上の意味は特になく、訊かれても説明に困る。
 だがそれで納得する相手ではないことはわかっていた。うーん、と声に出して考えながら、カウンター越しに手を伸ばす。
「うっかり転んでないかとか、ちゃんと飯食ってんのかとか、心配するより見えるところにいたほうが楽だろ」
 真っ白い小皿から真っ黒のオリーブをひとつつまみあげて大きな口へ放り込む。前菜にも手を抜かないのが虎次郎の主義だ。修行先を思い出す味が広がって、我ながら完璧と虎次郎は満足した。
 その動作や表情を、薫はぽかんと口を開けて見ていた。
「なんだよ」
「お前、俺が好きなのか」
 言うことをきかないカーラのデバッグをして原因を見つけたときと同じ気分で言うと、虎次郎は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。ゴリラのくせにそんなもので衝撃を受けるのか。
 薫は左手を額に当てて俯いた。そうでもしなければ近所迷惑になりそうなほど大きな笑い声を上げてしまいそうだったので。結果大きな笑い声はなんとか制御したが、肩が震えるのまではどうしようもなかった。
「ふ、ふふっ……そうか、なるほど……はぁ、おかしい……」
「は!? 勝手に納得してんじゃねえぞクソ眼鏡!」
「いや、だが、お前……いかん、涙が出てきた……」
 虎次郎は薫に対して甲斐甲斐しく、女性にも相手の望む気配りをできる人間だが、それがアガペーではないことは知っている。愛抱夢のこともそうだ。彼は懐に入れた身内には甘いが、そうでない人間にはときおり驚くほど冷徹に境界線を引くことがある。それは薫が誰に対しても一定の距離を保つのとは違う意思であり、明確な拒絶なのだった。
 腐れ縁が続いているせいで虎次郎が女に困ったことがないことも、女を家に住まわせたことがないことも知っていた。
 今回の提案はその対極にあった。虎次郎が引く境界線の内側の、一番近いところへ薫を置こうと言うのだ。それがどんな含みを持っているか、本人がどう認識しているかはさておき、薫を境界線の外側へ追いやることも、誰かをもっと近くに置くつもりもないらしいことだけは確かだ。
「おい、いつまで笑ってんだ腐れ狸」
「お前が笑わせてきたんだろうがドアホ。はぁ……よし、そうだな、まず、ずっと使うにはベッドが狭すぎるからキングサイズに換えておけ。洗面所も片づけろ。ドライヤーは俺のを持っていくから使いたかったら使ってもいい。一分あたり百円だ」
「家の中で商売すんじゃねえよ!」

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