付き合ってないけど緊縛するジョーチェリ
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昔から、突拍子のないことを言い出すのは薫のほうだった。
そのたびに虎次郎は幼馴染の破天荒さに頭を抱えながらそれに付き合うことになる。薫は虎次郎のほうこそ自由気ままと思っているらしいが、虎次郎から言わせればスケールが違う。確かに薫は準備や下調べを念入りにおこなうタイプで、虎次郎のように身ひとつで海外へ飛ぶようなことはないが、肝心なのは薫が準備や下調べをしてまでなにをするかということだ。
その夜、いつものように閉店後の店のドアを勝手に開けて入り込んできた薫はいつものように酒を飲みつまみ代わりのアンティパストを食べ、ああそうか、となにかに気づいたような、それでいて上の空のような曖昧な声で言った。
どうかしたか? なにげなく訊いたのが綺麗な墓穴を掘っていたことを、虎次郎はすぐに思い知る。
「この間、縄師の著作の題字を書いてな」
「なわし」
まるで唐突な話題の転換に虎次郎は思わず復唱した。薫とはもう何十年も腐れ縁の続いている仲だが、まだ初出の単語があったとは。
薫はグラスをゆらゆらと揺らしながらカウンター越しに虎次郎を見上げた。
「SMで縛るほうの奴のことだ」
「や、それは知ってるけど……」
「その献本が送られてきて」
「お前んちに?」
「他にどこに送るというんだ」
「まあそうだけど」
「それで読んでみたら」
「読んだのか」
「つまらなかったら三行でやめるつもりだったが面白かった」
「へえ……」
もしその本がつまらない内容だったらきっと今、虎次郎は巻き込まれようとしていない。虎次郎は名も顔も知らない縄師に心の中で恨み言を言った。
だがそんなものはもちろん薫には聞こえないので、薫はワインを舐めながら淡々と言葉を続ける。
「なるほど緊縛というのは性的なイメージが強いが芸術的な側面も大いにあるという。見目の美しさや手順の鮮やかさ、相手との息の合い方などがそうだ。だから」
淀みなく語る薫の姿に悪い予感しかしない。だから、という接続詞は絶対に間違っていると、続きを聞かなくてもわかる。
虎次郎がやめろそれ以上言うなと制止する前に薫は本題に入った。
「俺を縛ってみろ、虎次郎」
案の定だ。虎次郎は静かに目を瞑り、長い長い溜息をついた。
「………………えーと……」
「逆でもいいが」
「譲歩のポイントがおかしいんだよな……」
虎次郎はいったん落ち着くため、あるいは考えるのをやめるために手元のグラスを煽った。アルコールが一瞬喉を焼くが効果はそれだけで、薫の言葉は頭の中にこびりつき、虎次郎に返事を迫っている。
「なに? お前そういう趣味でもあんの?」
「馬鹿なのか? あるわけないだろう」
「え、この流れで俺が馬鹿なのかよ」
薫のワインは今夜三杯目だが、眼鏡の奥の切れ長の瞳はいつも通りに鋭く、酔いで据わっているようには見えなかった。酔っているほうがまだ救いがあったのに。
「次の作品を作るのに刺激がほしい」
常人には理解できない方向性の好奇心をお持ちの芸術家先生は、わからないのかとでも言わんばかりに堂々と言った。
「お前毎晩違う女を食ってるんだろう、そういうプレイをしたことはないのか」
「毎晩じゃねえよ! ひとに勝手に妙な性癖を付け足すんじゃねえ」
確かに虎次郎はそこそこ、まあまあな頻度で女遊びをするが、性癖はいたってノーマルだ。薫が言うようなプレイをしたことはないし、なんならそこらへんの男よりも優しいほうだと思っている。相手のほうから縛っていいよと言われたとしても、いや普通にやれればいいよと断るだろう。
「本に初心者向けの縛り方が載っているから、それをやってくれればいい。縄はこっちで用意する」
「正気か?」
「失礼な奴だな。俺はいつだって正気だ」
困ったことにこれは事実で、だからこそ虎次郎はいつも困らされているのだが、薫がそれを慮ったことなど一度たりとてないのだった。
数日後の夜、虎次郎は薫の家にいた。いつも薫が店へ来るから虎次郎のほうから訪問することはあまりない。まさかこんな理由で家へ行く日が来るとは夢にも思っていなかった。
薫は虎次郎を寝室へ通した。畳に布団が敷いてあるほかはたんすと鏡台があるだけの部屋の中、布団の上に用意されていた赤い縄だけが明らかに異質で、虎次郎は思わず唾液を飲み込む。
「その格好でやるのか?」
薫は普段よく見かける濃紺の着物を着ていた。眼鏡をかけて、髪は左肩のあたりで結って、どこから見てもいつも通りの姿をしている。
「ああ、いや……着物を傷めたくはないから、」
そう言って後ろ手に貝の口を解く。しゅるしゅると生地の擦れる音とともに帯が解かれて足元に落ちた。薫はそれを拾い上げると数度折りたたんで床に置き、着物も脱いで同じようにした。
「これで」
白い襦袢姿になった薫が虎次郎へ向き直る。当たり前だがそうそう見る機会がないので新鮮でついまじまじと見てしまい、それからその視線を肩のところで止めた。
「……髪巻き込みそうで怖え」
「ああ。結ぼう」
薫は一度髪を解くと手早く結い直した。サイドで軽くまとめる、温泉に入ったときと同じ髪型。きっちり結い上げてはいないから毛先があちこち飛び出しているが、肩より下になければ縄に巻き込むこともないだろう。
「ほら」
「……立ったまま?」
「座ったほうがいいか」
薫が布団の上に正座した。こんなときでもぴんと伸びた、襦袢に包まれた背筋と普段は見えないうなじ、その上に無造作に結ばれた桜色の髪があって、虎次郎の手元には赤い縄。
「縛り方は、ええと……ここだ」
件の本を開いて虎次郎へ渡してくる。後ろ手縛りと書かれたページに、折り紙の折り図のように縛り方が懇切丁寧に図解されていて、いよいよ本当にこれをやらなければならないらしいと虎次郎は腹を括った。
「言っとくけどこんなこと本当にやったことねえし加減わかんねえからな。痛かったら言えよ」
「わかってる」
言いながら薫は両腕を背中へ回し、それぞれの手でもう片方の腕を掴んだ。準備を念入りにおこなう気性はここでも発揮されていて、手順はもう頭に入っているのだろう。
虎次郎は薫の背後に膝をつくと、縄の端を薫の背中と腕のあいだに通して両手首まとめてぐるぐると巻きつけていった。日差しの強いこの島で日焼けしないよういつも気を遣っている薫の肌はどこも白くて、縄の赤色がやけに鮮やかに見える。
手首でいったん結んでから、腕の外側を通って胸の前へ回し、背中へ戻す。それをもう一度繰り返して背中の縄に縛る。
「ふーん……」
図を見て手を動かしながら、料理みたいだと虎次郎は思った。レシピを見ながら食材を切ったり焼いたり煮たりするのと似ている。できあがるものはずいぶん違うが。
「んっ……」
背に回した縄をきゅっと引いたところで薫が眉根を寄せたので虎次郎は慌てて手を止めた。
「悪い、苦しかったか?」
「いや……」
はぁ、と薫が熱のこもった息を吐く。耳を通り越して脳まで届きそうな熱さ。
「平気だ。苦しくて……ちょうどいい」
コメントに困る発言に虎次郎は言葉に詰まって、そうかよ、とだけ返した。
「なあ……なんでこんなこと俺にさせてんだよ」
「なんで、って……」
薫は自分の胸の前を通る赤い縄を見下ろし、ちらりと後ろを振り返ってからまた前を向いた。
「こんなことさせられる奴、他にいない」
「あ、一応そういう分別はあるんだ……」
「イメージは大事だからな」
「俺にはいいのかよ」
「お前相手に保つ体面などないだろう」
今更。薫は当然のように言う。
それはそうだ。幼稚園のころからの付き合いの中で、格好悪いところも情けないところもお互いもう嫌というほど見てきたし見られてきた。恥ずかしい思いだって何度もしたのに、それでも縁は切れなかった。今更ちょっと縛り縛られたくらいで崩れるものもない。
だが虎次郎にとって今の薫の回答では不十分なのだった。
「それ、答えになってないだろ」
薫の中でただひとり、こんなことさせられると判断された理由を知りたい。消去法ではなく、虎次郎ならいい、虎次郎がいいと判断された理由を。
薫の言う「苦しくてちょうどいい」強度を保って縄を引き、結ぶ。少し力を込めているのでそれに引っ張られて薫の上半身が揺れた。
「お前ならこんなことさせても、俺を傷つけないだろう?」
こんな状況でなにが楽しいのか、わずかに弾んだ声で薫が答えた。
薫の判断は正しい。現に虎次郎は、絶対に傷つけないようにと観察しながら手を動かしている。
二本目の縄を背中側に結び、今度は首の横へ這わせて身体の前へ回す。胸の前を横に通っている一本目の縄へ通して反対側の首のほうへ返し、すでにごちゃごちゃとしている手首の近くまで戻した。
なるほど女の身体であればこの縄が乳房を強調させるのだろう。薫にそんなものはないので平らな胸の上を赤い縄が走るばかりだが、それがかえって倒錯を生んでいるように見えた。
「……できたぞ」
余った部分を背中側の縄に巻きつけて処理すれば手順は完了だ。虎次郎は縄の跡がうっすら残る指先で、薫の身体を拘束している赤い縄を撫でた。
初めてにしては上出来だと思う。そして薫のほうも、何度もやって慣れているのではないのかと懸念してしまうほど似合っていた。
白い襦袢に赤い縄、さっきよりもいくぶんか血色のよい肌と、結び目から少し落ちて乱れた桜色の長い髪。
「きつくねえか?」
「ん、大丈夫だ。鏡を見たい」
「持ってくるか」
「いい、歩ける」
縄が飾っているのは上半身だけ。脚は縛っていないから自由に動かせる。薫は正座の姿勢から立ち上がろうとして、しかしぐらりとよろめいた。
「おっと」
その肩を虎次郎が抱きとめる。立ち上がるのも歩くのも脚の動作だが、人間は常に全身でバランスをとっているものだ。両腕を動かせない状態で普段通りに動こうとすれば当然バランスを崩す。
薫は、そうだった、と呟いて、今度はうまく立ち上がった。壁際の姿見の前に移動して、まずは正面から、それから鏡に背を向けて振り返り、肩越しに背中や腕を確認する。
「へえ……」
「お気に召したかよ」
「上手いじゃないか」
「そりゃどうも」
満足げな薫に反して虎次郎は疲れていた。日曜のディナータイムが終わったあとだってここまでではないというほどには疲れていた。慣れないことを、薫に負担をかけないようにと気を遣いながらやり遂げたのだ。めったにないほど神経を張り詰めていたのだと縛り終えてから自覚しながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
一方の薫は鏡の前で何度も身体の向きを変えては縛られている己の状態を見つめていた。薫のためにやったので、薫が会心ならなによりだ。
「おい虎次郎、写真を、」
布団に膝をついたままやれやれと気を抜いている虎次郎のほうへ薫が向く。縛られているとは思えないほどいつもと変わらない態度で虎次郎を見下ろすと、あからさまに眉をひそめた。
「……お前、なんで勃ってるんだ」
「それ訊く!?」
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