付き合ってない!

いい加減付き合ったらいいと思っている虎次郎と付き合いたくない薫の茶番(2021/9/16に出した同人誌の再録)

 はじめてそういう軽口を叩いたのは高校生のころだった。
 普段より風の強い日。そのせいか屋上はいつもに比べてひとが少なく、薫がフェンスの前の定位置に腰を下ろして見える範囲に、同じように昼休みを過ごしに来ている生徒は昨日の半分もいなかった。
 持ってきたビニール袋の中身は購買で買ったパンとペットボトルのさんぴん茶。長い両脚を投げ出して、びゅうびゅうと吹きつける風の音を聞きながらペットボトルを傾けひとくち飲んだところで、来ると思っていなかった声が届いた。
「薫!」
 薫はピアスのあるくちびるからペットボトルを離し、声のしたほうへ顔を向ける。見るまでもなく誰が来たのかはわかっていた。
 屋上への出入り口から、弁当箱をさげた虎次郎が大股で歩いてくる。
 大きな垂れ目の目尻をふにゃりと和らげながら歩を進め、あっという間に薫の隣にたどり着くと、あぐらをかいて座り込んだ。
 薫が座っている場所が薫の定位置であるように、虎次郎が座った場所も虎次郎の定位置であった。薫に比べるとそこに陣取る頻度は少ないが。
「お前、彼女は」
 こうして並んで昼休みを過ごすことを、約束したことは一度もない。たまたまふたりとも屋上へ上がってきたら一緒に食べる、それだけだ。クラスが違うのにわざわざ誘いに行くようなことはしないし、虎次郎は彼女がいればその相手と一緒に食べるときもある。
 実際、昨日は、薫は今と同じ場所でひとりで食べたのだ。
 虎次郎は弁当の包みを開けながら、ばつが悪そうに口を曲げた。
「あー……別れた」
「また振られたのか。ダセェ」
「うるせえよ」
 べり、と薫がパンの袋を開ける音が会話に割り込む。そろそろそうなるだろうという予感はしていたから驚きはしなかった。
 虎次郎は昔からとにかく女によく好かれた。古い記憶をたどれば幼稚園のころから、異性を意識し始める小学校高学年のときも、もちろん中学でも、高校生である今も、虎次郎に好意を寄せる女性は常にいた。
 相手は遠巻きに見てくるだけだったり、女友達としてうまく距離感を測ってきたり、勇気を出して告白してきたりと、アプローチの方法はさまざまだが、虎次郎のほうも女性全般を好きなのでどんな相手も粗雑に扱ったことはない。
 告白されたときにフリーであれば受け入れる、それが虎次郎の恋愛の仕方だった。
「どうせまた、こじろーくんは誰にでも優しいから〜とか言われたんだろ」
「ほっとけ」
「節操なしのなにがいいんだか」
 薫は口をめいっぱい開けて焼きそばパンにかじりついた。舌の上に濃いソースの味が広がる。家では和食が多い反動か、買い食いするときはジャンクなものにばかり手が伸びてしまうのだ。焼きそばパン、コロッケパン、たまに甘いものが食べたくなるといちごジャムサンド。
 一方の虎次郎はいつも弁当を持ってくる。親が忙しくて用意できないときは自分で作るというのが、買ったほうが早いと思う薫には理解できないところだった。
 とはいえ家庭料理を何年も作り続けている親と、キッチンに立つことを最近覚えたばかりの虎次郎では当然作れるものに差はあって、弁当箱の中身を見れば誰が作ったのかは一目瞭然である。
 薫は目線を斜め下へ向けて今日の虎次郎の弁当を確認すると、焼きそばパンを口から離した。
「虎次郎、それ」
「……俺の弁当なんだけど」
「くれ」
「ったく」
 あ、と口を開けてみせれば虎次郎は溜息をつきながらも薫の意図を汲んで、箸でラフテーをつまみ上げた。虎次郎の母親が作るラフテーは薫の小さなころからの好物のひとつで、虎次郎の家へ遊びに来た薫が無心で食べるところも、帰り際に保存容器に詰めたラフテーを持たされるところも、見飽きるような光景だった。
 虎次郎の箸先が、薫のくちびるのピアスを避けながら口の中に入り込む。むぐむぐと満足げに咀嚼するその横顔を見ながら、つーかさ、と虎次郎は言った。
「こんなん、お前とだって付き合ってるみたいなもんだろ」
「は?」
「一緒に飯食うし、遊びに行くし……違うとこってキスしないくらいだろ」
「ゲ……」
 ごくりと虎次郎にまで聞こえるほどの音を立ててラフテーを飲み込んだ薫が、限界まで眉をひそめて顔を向ける。
「なにお前、俺のことそんなふうに思ってたわけ……?」
「違え! ただ、よく言われんだよ」
「なにを」
 びゅうと強い風が吹き、薫の長い髪がばさばさとなびいて視界を横切った。薫が地面に置いている購買のビニール袋が、かさり、音を鳴らす。
「わたしより桜屋敷くんのほうが大事なんでしょ、って」
「はぁ……?」
 薫はあんぐりと開けた口をひん曲げた。虎次郎とは腐れ縁が続いているだけであって大事にされているつもりなどかけらもない。この女好きの幼馴染の恋愛対象はもちろん女性なのだし、そこへ首を突っ込む気もなければ引き合いに出されたくもなかった。
 虎次郎の彼女や元彼女に粘ついた目線を向けられることはたまにある。あるが、薫はそれをいつも意図的に無視してきた。彼女たちが言いたいことがあるのならそれは虎次郎へ言うべきで、薫の関わる余地はないはずだ。まさかそんなふうに名前を出されていたなんて。
「なんだそれ、お前の痴情のもつれに俺を巻き込むな」
「俺だって知らねえよ」
「お前の彼女に言っとけ、俺は関係ないって」
「だからもう別れたんだっつーの」
 虎次郎は虎次郎なりに、そのときどきの彼女を大事にしてきた。呼ばれれば昼食は一緒に食べるし、放課後にハンバーガーを食べに行ったり、夜にメールを交わしたり、週末にデートしたり、恋人らしいことをするのは楽しい。虎次郎と身長が数センチしか変わらず歩くのも速い薫とは違い、虎次郎より頭ひとつ以上背の低い彼女たちと歩くのは自然と歩幅も狭くなって、女の子といるのだと実感する。
 そうやって過ごす時間が好きなのだ。ただ、それと同じくらい、薫と一緒にスケートに乗って、歩くよりも速く風を切ることも好きなだけで。
「虎次郎、もう一個」
「お前パンあるだろ」
 反論しながらも虎次郎はまたラフテーをつまんで薫の口へ放り込む。与えたぶんだけ、当然虎次郎の昼食は減ってしまうのだが、薫が満足げに食べる姿を知っているからどうしても拒否しきれないのだった。
 虎次郎と付き合う彼女たちは虎次郎の弁当のおかずをほしがりはしないから、こんなことをするのは薫だけだ。
 弁当を食べさせるのは薫だけ。キスをするのは彼女だけ。
 あとのことはだいたい、薫とも彼女ともする。昼を一緒に食べたり、メールを送り合ったり、放課後や週末に遊んだり。
 だから、もし付き合う相手が薫だったなら──女の身体でないことに目を瞑れば──虎次郎の好きな楽しいことを全部共有できるだろうと、薫に邪魔されたせいでまだ満たされない空腹を抱えながら、そう思った。

 イタリアへ修行に行くことを決めたのは、間違いなく虎次郎の人生で一番の決断だった。
 料理人を志して、まず地元で調理師の専門学校に通った。二年かけて修了し、そのままどこかのレストランに就職する選択肢もあった。
 その道を選ばなかったのは、それではつまらないというノリと、新しい景色を見てみたい好奇心と、それから、チーズやトマトやオリーブを好きな薫のことが思い浮かんだからだ。
 虎次郎が覚えた料理の試食に呼び出すと薫はいつもすぐにやってきた。まあまあだな、とかえらそうな態度でぺろりと完食する様子はいつも変わらないと見せかけて、虎次郎にはわかる、薫はイタリアンのときだけ他の料理よりもおいしそうに食べるのだ。
 だからこの先虎次郎が自分の店を持つ日が来るのなら、イタリアンレストランがいい。そのために行く先はイタリアしかない。
 虎次郎にとってこれ以上なく明快な結論は、しかし薫には通じなかった。イタリアへ行くと伝えると、常であればなにに対しても息するように悪態をつくあの薫が、虚をつかれたように目を丸くしてしばらく黙り、そうか、とだけ返す。
 薫があと数日で二十歳になるころだった。
 出立の日、薫は大学が春休みで暇だからと言いながら空港へついていった。大きなボストンバッグをさげた虎次郎の隣を、見送るだけで荷物を持たない薫が歩く。
「お前まさか荷物それだけか?」
「おう。着るものがあればなんとかなるだろ」
「信じられねえ……普通、ああいう大荷物になるんじゃないのか」
 薫はすれ違ったばかりの、大きなスーツケースを引いた観光客を振り返る。
 数日間の観光旅行とは違うのだ。年単位で故郷を離れて見知らぬ国で生活するというのに、虎次郎はことの大きさを感じさせない身軽な荷物と気楽な声で薫へ笑いかけた。
「大丈夫、なんとかなるって」
「……そうかよ」
 空港を訪れるのは高校生のときの修学旅行以来だ。
 高い天井の下、ぽっかりとひらけた広い空間に、旅立つひとびとが絶えず行き来している。薫のように荷物のないひとはその見送り。異国の文字が書かれたショッピングバッグを持っているのは、さっきまでどこかの遠い国にいて、沖縄へ帰ってきたひとだ。
 ざわめきの中には日本語以外の言語も混じり、それらすべてのひとたちへ向けて空港のアナウンスがフライトや搭乗口の案内を告げている。
 観光客向けに沖縄土産をずらりと並べている一角は、見向きもせずに素通りした。この島で生まれ育った自分たちには必要のないものだ。
 那覇からイタリアまで直接飛ぶ便はない。虎次郎がまず乗るのは、成田へ向かう飛行機だ。
 虎次郎が搭乗便へのチェックインを済ませる後ろ姿を、薫は離れたところからぼんやりと見守った。薫と同じように虎次郎ももう身長は頭打ちになったはずだが、久しぶりにまじまじと見ると以前より背中が広くなったように感じる。身体を鍛えたらもっと厚みが出るのかもしれない。そんなことは、薫の関与するものではないけれど。
 ボストンバッグを預けて身軽になった虎次郎と並び、国内線の保安検査場の前まで辿り着く。薫がいられるのはここまでだ。周囲では同じように旅立つひとと見送るひとが惜しみ合って、別れの言葉を交わすのが聞こえてくる。
「俺だけか? 彼女は?」
 薫はきょろきょろとあたりを見回した。虎次郎はその人柄もあって薫よりも友人が多いし、たしか彼女もいたはずだ。──いや、あれは結局別れたのだったか?
 そうやって自分と同じように虎次郎を見送りに来た人間を探そうとする薫の姿を、虎次郎はじっと見つめて目に焼きつけた。
「……いねえよ」
 虎次郎が床に落とした声を薫はしっかり聞きつけて、顔を正面へ戻す。午後のいちばん高い日差しが薫の色素の薄い髪と白い頬を明るく照らし、金色の瞳を際立たせた。
 大学生になった薫はいつの間にかくちびるのピアスを外していた。だから今の薫の口元にはなにもはまっていない。
 耳にはまだ、いくつかの銀が光っている。虎次郎が強引に空けさせられたピアスも。あれもいつかは外してしまうのだろうか。
 誰よりも近くにいた相手だ。きっと実の両親よりも互いのことを知っている。
「薫だけ」
 親へは玄関まででいいと言って見送りは断った。他の友人たちには、イタリア行きは伝えてもフライトまでは教えていない。彼女は、少し前まではいたけれど、遠距離恋愛はうまくいかないと判断して円満に別れた。
 だから今日、虎次郎のためにここに来るのは薫だけだ。
「……ふーん」
 薫は興味があるのかないのかわからない相槌を打ち、いつもの鋭い目で虎次郎を睨み上げる。
「怪我と病気とスリに気をつけろよ。お前、女と喋ってるあいだにスられそうだからな」
「修学旅行で財布失くしたやつに言われたくねえよ」
「あれはスリじゃない!」
 薫は目を吊り上げて反論した。そう、あの原因はスリではなかった。薫が不注意で落として、そのあとすぐに地元のひとが拾って、虎次郎が勘で引き返した土産物屋の店主が預かってくれていた。落としたときのまま返ってきたから、現金も学生証もなにも失くしはしなかった。
「最悪財布をスられたとしてもパスポートだけは絶対に死守しろよ。なにかあったら大使館に連絡するんだぞ」
「あーはいはい、わかってるって」
 まるで親のような言いようは、心配しているからだとわかっている。薫は絶対にそうは言わないけれど。
「薫」
「なんだ」
 少しだけ不機嫌そうで、でも目を逸らしはしないところは薫らしかった。
 意識の遠くのほうで空港のアナウンスを聞く。虎次郎の乗る予定の飛行機はトラブルもなく、定刻どおりに飛び立つらしい。
「ありがとな」
「……別に」
 まるで安っぽいドラマの別れの場面だ。べつに、という薫のたった三音を、きっと虎次郎は旅先で、身を守る呪文のように何度も思い出す。
 畢竟、虎次郎はこの場に薫にだけいてほしかったのだ。
 じゃあな。短い別れの言葉を交わして離れ、保安検査場を通り抜ける直前に振り返ると、薫はまだそこに立って虎次郎を見ていた。虎次郎が手を振ると、薫も小さく手を振って返す。
 あの手と握手くらいしておけばよかった、そう思ってももう遅く。
 もしも恋人という肩書きを持っていたなら、握手どころかハグでもキスでもしていたのかもしれない。そんな突飛な空想は、不思議と違和感も嫌悪もなく虎次郎の頭の中に浮かんだのだった。

 虎次郎が日本を離れて料理と口説きに明け暮れているあいだに、薫は耳のピアスを外すどころか髪型も服装もがらりと変え、AI書道家という虎次郎にはてんで馴染みのない分野で身を立てていた。
 仕事の場では穏やかで物腰柔らかな書道家の先生として微笑んでいるものだから初めて見たときは思わず目を疑ってしまった。お前、ちょっと前まであんなにバチバチにピアス空けて、一緒にスケートで警察から逃げ回ってたじゃねえか。──と言わなかったのは、虎次郎もまた社会人としての立ち居振る舞いを覚えたからだ。
 すっかり外向きの顔を身につけたその薫も、虎次郎の前では以前と変わらなかった。隙なく着込んだ着物姿で、眼鏡越しに不躾な視線を向け、しなやかな指先で扇子を自分の手のようにあやつりながら虎次郎へ悪態をつく。
 顔を合わせてはくだらないことで飽きずに喧嘩ばかりするくせに、虎次郎が念願叶って自分の店を構えると、薫は頻繁にやってきた。営業中のみならず閉店後にも現れては酒をねだり、そうされると虎次郎は料理人のさがとして、酒に合わせて食べるものも出してやりたくなってしまうのだった。
「お前の飯ほとんど俺が作ってんじゃねえか?」
 今夜のカウンターにはいつもの白ワインと、即席ドレッシングをかけたカプレーゼ、きのこのバルサミコマリネが並んでいる。営業はとうに終わっているから虎次郎もカウンター越しにグラスを傾けた。
 ほとんど、というほどではなくても、昼夜問わず薫がふらりとやってくるのは週に一度では済まない。それは薫本人も自覚があるようで、そうかもな、と涼しい顔で言った。
「近所にあって、使い勝手がいい」
「好き勝手できるの間違いだろ」
 薫はクライアントとのコミュニケーションを兼ねて来店することもあれば、ただ食事のためだけに来ることもある。後者の場合はメニュー表に触れもせずに、カルボナーラだとかペスカトーレだとか、あるいはもっと漠然と、味の濃い牛肉が食べたい、というような注文をしては虎次郎を働かせた。食べたいものを主張して待っていれば出てくるのだから、他の店より使い勝手はいいに決まっている。
 今夜はおとなしかった薫の手首の相棒が不意にぴこんと音を鳴らした。
『マスターの食生活におけるジョーの料理の割合は、平均して週に二十パーセントです』
「ありがとうカーラ。そんなものか」
「五分の一って相当だぞ」
「ほう、算数ができるなんて賢いゴリラだ」
「るせえ! ったく、そんなんでもし俺が結婚したらどうすんだよ」
 虎次郎は空になった自分のグラスと、ついでに薫のグラスへワインを注ぎながらぼやいた。
 仮定の話だ。もし虎次郎が結婚して、帰りを待つひとが家にいるようになったら。今のようにクローズ後にいつまでも店にいるわけにはいかない。
 一笑に付されそうな不確実な話題を、薫は虎次郎が想像したより真剣に受け止めたらしい。グラスへ伸ばしかけた手を止めて、切れ長の瞳をぱちりとまたたかせ虎次郎の顔をじっと見る。
「結婚するのか?」
「……しねえけど」
「しないのか」
「予定はねえな」
「なぜ」
 そこに食い下がるのか? 意外に感じつつ虎次郎は首をかしげる。なぜと問われても、相手がいなければできない予定をひとりでは立てられない。
 そう、相手はいないし、この先する見込みもない。たまたま街で出会って気の合った女の子とその場限りで遊ぶのは楽しいが、家で待っていてほしいわけではなかった。
 付き合うのなら、もっと気楽で、喧嘩できるくらいなんでも言い合えて、毎晩会っても苦にならない、そういう相手がいい。
 そう考えて、虎次郎はグラスを持ち上げた手をはたと止めた。
 そういう相手が、虎次郎の交友関係の中にひとりだけいる。今、目の前に。
 ワインをひとくち飲んでグラスを置いた。店にあるワインはすべて虎次郎の選んだもので、当然虎次郎の好みに合っている。いま開けている白ワインは特に、虎次郎だけでなく薫も気に入りで、水のようにするすると喉を通って身体に馴染んだ。
 虎次郎にとっての薫も、いうなればそういう存在だった。あって当たり前で、違和感がなくて──いてくれないと困る。
「お前がいいから」
「………………は?」
 薫の喉から、ひどく間抜けな声がこぼれ落ちた。口をぽかんと開け、柳眉を器用にひそめて眉間にしわを刻む。
 虎次郎はカウンターを挟んだ反対側に立っているので、座席に座っている薫の三白眼は自然と見上げるかたちになる。真上から射す照明が、桜色の髪を淡く輝かせていた。
「……なんだって?」
「お前がいい。薫」
「待て、虎次郎、なにを……言って、」
「なんでいま知ったみてえな顔してんだ」
 虎次郎はついさっきようやく思い至った自分のことは棚上げした。気づいたのがついさっきだっただけで、きっとずっと前からそうだったのだ。だって薫がいいという言葉がこんなにも自分の中にすんなりと収まる。
「いま知ったからだが……?」
「まあいいけどよ。だからもう付き合おうぜ」
「なぜそうなる!?[#「!?」は縦中横]」
「だってこんなんもうほとんど付き合ってるようなもんだろ。しょっちゅう会って、酒飲んで、飯食って」
「それとこれとは、」
「お前だって今フリーだろ? 別に付き合ったって今更なんも変わんねえよ」
 言えば言うほどそれが道理であるような気がしてくる。学生のころ付き合っていた彼女たちだって、この先出会うかもしれない誰かだって、薫ほど長い時間をともに過ごしはしない。
 虎次郎の思い描く未来の光景に、薫の姿はごく当たり前のようにあった。薫だって似たようなものだろう。だからこそこんなふうに平然とやってきては、顔をつき合わせて過ごしているのだ。ともにいることが当然になっているからだ。
 しかし薫は口をはくはくと震わせたあと、地を這うような声で言った。
「…………嫌だ」
「あ?」
「俺とお前は、そういうのじゃないだろう……!」
 薫は見てわかるほどうろたえていた。吊り上げた目をきょろきょろと泳がせて、陶器のような頬を心なしか上気させ、カウンターの上に置いていた手をぎゅっと握りしめる。しまいにはガタンと大きな音を立てて立ち上がった。
「帰る」
「あっ、おい、薫」
「うるさい話しかけるなついてくるな、この発情ゴリラ!」
 薫はそう吐き捨てると、着物を着ているとは思えない足の速さで店を飛び出していった。
 そのあとを追いかけるかどうか、一瞬だけ迷ってやめる。今は虎次郎もすこし冷静になったほうがいい。
「……発情って、なに想像してんだよ」
 付き合うという単語からいったいどんな連想ゲームをしたのか、少なくとも手をつなぐ抱きしめるなどというかわいらしいものではないことだけは確かだ。
 ならばと虎次郎も妄想をめぐらせる。さっきはなにも変わらないと言いはしたが、実際いざ恋人同士になったとしたらするであろうこと。
 脳裏に思い描いたものに嫌悪がないどころか期待すら湧いてくることに、もはや疑問もいだかなかった。
 ふぅと溜息をついてカウンターに目を落とす。プレースマットの上に、薫が口をつけなかったワインが取り残されていた。

 店という場において、虎次郎はあるじで、薫は客だ。薫は店へ行くかどうかを決められるが、虎次郎は薫を強引に客として呼び出すことも、客として来た薫を拒否することもできない。
 自意識の芽生える前から対等に向き合っていた虎次郎と薫の関係のなかで、唯一この店だけが違っていた。薫が来なければ、それきり。
 だから先日の一件のあと、虎次郎は薫がもう店へは来なくなる可能性も考えていた。そうなると残りは虎次郎が薫に会いに行くか、街中で偶然鉢合わせるか──なんの因果かその機会はままあった──しかない。しばらくは薫の出方をうかがおうと思い、虎次郎のほうから今すぐ会いに行くつもりはなかったから、次に顔を合わせるのはいつになるやら。
 果たして、そんな思索をめぐらせていたのは虎次郎だけであった。
 数日後の二十二時半、店のドアにかけたプレートを裏返そうと虎次郎が外へ出ると、まるでそのタイミングを見計らったかのように薫が現れた。こんな時間にこんな場所で、ただの散歩とはとうてい思えない。
「……薫?」
「腹が減った」
 薫はふてくされたような顔で平然と言い放つと虎次郎を押しのけて店へ入り、もはや指定席と化しているカウンター席に腰かける。
「薫」
「カルボナーラ」
「こんな時間にか?」
「腹が減ったと言っただろう」
「はあ……まったく、昼はなに食ったんだよ」
「食ってない」
「は?」
「適当に出前を取ったが、あまり美味くなかった」
 薫はへの字に曲げた口でそう言って腕を組み、待ちの姿勢に入った。
 なるほど薫の不機嫌の原因はそのせいか。
 世間には霞でも食べていそうな顔を作っておいて、その実虎次郎と同じていどには薫も食に楽しみを見いだすタイプだ。職業上の興味を兼ねている虎次郎よりも、ただ純粋に自分の舌を満たすものを求める薫のほうがグルメであるともいえる。
 原因はわかった。だが。
 それはつまり、どこぞの出前よりも、虎次郎の料理のほうがいいと言っているのと同じだ。口に合わなかったものを残してわざわざ深夜に外へ出て食べにくるほど、虎次郎の作るカルボナーラを食べたいのだと。
 レトルトやコンビニのものではなく、他のイタリアンレストランのカルボナーラでもなく、この店の、虎次郎の。
「…………薫」
 なんとか名前を呼ぶと、薫は席に座ったまま、早くしろとでも言いたげにぎろりと虎次郎を睨み上げた。
 昔取ったなんとやらのその凄みのある表情も、今の虎次郎にはむしろ逆効果だ。
「もう店は閉めちまうから、うちに来いよ。そうしたら作ってやる」
「……」
「来ないなら今日はなしだ。これで閉店、またのお越しをお待ちしております、ってな」
「……ずるいぞ」
「なにが?」
 とぼけてみせると薫はむっつりと虎次郎を睨めつけた。
「……ちゃんとグアンチャーレを使うんだろうな」
「使う使う。お前の好きな白も出してやるよ」
 レシピはいつもと変わらない。ベーコンではなく自慢の自家製グアンチャーレ、生クリームは使わずに、薫の好みに合わせて店で出すよりもチーズをたっぷり使って濃く仕上げる。
 作って食べさせる場所が虎次郎の家になる、ただそれだけだ。
「……ならいい」
 薫は全身からしぶしぶと訴えながら席を立つ。虎次郎は手早くコックコートを脱ぐと、火元を点検してから薫を連れて表へ出た。
 ──それが一時間ほど前のこと。
 不機嫌の原因が空腹だけではなかったことを、そのあとの会話の中で察知した。
 激務と寝不足。良くないことだが残念ながら薫にはよくあることで、薫自身もカルボナーラを食べながら愚痴っぽくこぼしはしたものの、さして気にした様子はなかった。
 明日は余裕があると薫が言い張ったので、パスタを食べさせていたダイニングテーブルからソファへ移動して飲み直す。
 ワインの次に日本酒を飲めるのは家飲みのいいところだが、今夜に限って万全ではなかった薫には合わなかったらしい。普段ならこのていどでは顔色ひとつ変えないはずの薫の頭がふらふらと揺れたかと思えば、そのまま横へ傾いて、虎次郎の肩へもたれかかる。
「おい、薫」
「んん……」
 むずかる薫の手の中から猪口を取り上げてローテーブルへ避難させる。簡単に奪えたところを見る限り、指にもうあまり力が入っていないようだった。
「寝るならベッド行け。ここで寝ると身体痛めるぞ」
「……俺は疲れてるんだ」
「そうらしいな」
「もう動けない」
「……連れていけって?」
 薫は答えない。いつものようにぎゃんぎゃんと反発しない、それが答えだった。
「ったく……落ちたくなかったら掴まってろよ」
「落とすなボケ……」
「あぁ? ソファに放置してもいいんだぞ酔っ払い眼鏡!」
 薫の肩と膝裏に腕を回して抱き上げると、さすがに落とされたくはない薫は両腕を虎次郎の首にぎゅっと巻きつけた。はぁ……と悩ましげに漏れたアルコール混じりの吐息が、虎次郎の首筋にかかる。
 自分よりは軽いとはいえ、平均より背の高い薫の身体は相応の重さがある。酔ってぼんやりしたところを運ぶなんて虎次郎でなければできなかっただろう。
 一人暮らしの家のソファからベッドまではたいした距離もなくすぐにたどり着いて、薫をそっと横たわらせた。ついでに虎次郎もベッドの端に腰かけると、セミダブルベッドが想定の倍の重量にきしりと悲鳴をあげた。
「お前なあ、こんなこと女にもしたことないんだぞ。わかってんのか」
 薫の顔にかかるくしゃくしゃの細い髪をかき分けて眼鏡を外してやれば、閉じていた薄い瞼がぴくりと震えてゆっくり持ち上がり、金色の瞳に虎次郎を映した。
「……なんの話だ」
 酒を飲んだのと眠いせいか、薫の声はいつもより掠れている。
「このあいだの話の続き」
「このあいだ……」
「薫」
 眼鏡はヘッドボードに置いて、そのままその手で薫の頬を包み込む。熱い。薫は動かずに、上体を倒して近づいてくる虎次郎の顔をじっと見つめていた。
「嫌なら殴るなり頭突きするなりして逃げろよ」
「……!」
 逃げ道を囁いてから、くちびるを重ねた。
 柔らかい。手のひらの下で薫がびくりと反応する。ふたりとも、目は閉じなかった。薄暗い寝室で視線を絡ませたまま、虎次郎は分厚いくちびるで薫の下唇をやわく食んだ。ちゅっ、とたいして大きくもないはずのリップ音がやけに大きく響いて聞こえる。痛くも苦しくもないはずだが、薫はきゅっと眉根を寄せた。
 視界の隅で薫の右手が持ち上がるのが見えた。殴られるか、押しのけられるか、髪を引っ張られるか、さてどれが来るやらと思いながら虎次郎は舌を伸ばす。どんなやり方であろうと、拒絶されたらすぐにやめるつもりでいた。自分のペースに巻き込むのは好きだがレイプしたいわけではない。
 薫の指先が虎次郎の後頭部に触れて、ゆるい癖毛に埋もれる。なるほど髪を引っ張る気かと構えたが、しかしそうはならなかった。
 薫の手は頭皮をくすぐるような甘さで虎次郎の髪を撫で下ろし、そのまま太い首に触れた。指だけでなく手のひらの全体が首筋を包み込んで、伸びた親指の腹が確かめるように虎次郎の喉仏の上をなぞる。まぎれもない急所だが、そこを皮膚のいちばん表面だけを使ってやさしく往復するのは、動物をあやしているようでもあった。
 どう考えても拒絶ではない、その対極の動きに虎次郎の心臓が早鐘を打つ。
 急いた気持ちで口内にくちびるを差し入れると、驚くべきことに噛まれるどころか薫は口を開いて虎次郎を招き入れた。粘膜同士のぬるりとした感触が、これが性的な触れ合いであることを思い知らせる。舌を強く吸うと、じゅっとわかりやすく卑猥な音がした。
「ん、んぅ……」
 いつの間にか薫は目を瞑っていた。虎次郎の首に触れていた手は少し下りて、肩をぎゅっと掴んでいる。
「は……かおる、」
 キスを解いて鼻先の触れ合ったまま名前を呼ぶと、薫はそっと目を開けた。明かりのない部屋で薫の瞳だけが濡れて光って見える。酔っているのかいないのか、どういうつもりで虎次郎を受け入れているのか、その顔を見ただけではわからない。ただ、ひたすらに目を離せない。
「殴らねえの?」
「……殴られたいのか?」
「んなわけあるか。……殴るんじゃなくて、ちゃんと触って」
 肩に食い込んでいた薫の指を一本ずつ外させてその手首を掴み、虎次郎の胸へ触れさせる。薄いTシャツ越しに薫の手のひらの強さや熱さが伝わってきた。きっと虎次郎のうるさいほどの鼓動も薫に伝わっていることだろう。
「やらして。薫」
 返事を待たずにキスをしたから、薫のくちびるがかすかに震えたのがなにを言おうとしていたのかはわからなかった。

 結局、薫は羞恥からじたばたともがきはしたものの、殴りも頭突きもしなかった。
 さすがに挿入まではしていないが、逆に言えば挿入以外のことはやった。相手が女のときは挿れることに異論が発生しないから、脚のあいだに挟まれて達することがこんなに気持ちいいなんて、虎次郎は生まれて初めて知ったのだ。
 疲れ果てた薫は仰向けに横たわったまま動かない。虎次郎が身体を拭ってやっているあいだもずっと、されるがままだった。
 虎次郎はその隣に寝そべると、片肘をついて薫を見おろした。流し目で凄まれても、目尻がやに下がるのを止められない。
「もう観念して俺と付き合えよ」
「……嫌だ」
「なんで」
「とにかく嫌だ」
「薫は、付き合ってなくてこんなことすんの?」
 腕を下半身へ伸ばし、さっきまで抱え上げていた脚をするりと撫でる。信じられないほどの触り心地に素直に感心してしまう。女の脚なんてもう触り慣れているというのに、ここにきて幼馴染の男の脚に夢中にさせられることになるとは。
 薫は眉間にしわを刻みながら虎次郎をぎっと睨み、触れてくる手を払いのけるように脚を動かすと、爪先で虎次郎の脛を思い切り蹴りながら吠えた。
「付き合っ……て、ないっ!」
「まだ言うか!?」
「……でも気持ちよかった……」
「そこだけ素直になるのはなんなんだよ」
 最中の態度でわかりはするが、よかったと言葉で聞けたことに内心で安堵する。
 薫は薄い胸を上下させながらゆっくりと深く呼吸した。その波に追いやられるようにして、瞼がだんだんと落ちてゆく。
「……酔ってたし、疲れてたんだ……」
 今にも消え入りそうな声が虎次郎の鼓膜をくすぐった。
 そう、薫が疲れていて、酒が回っていたのは事実だ。あまり眠れてもいなかったようだから、このまま眠りの底に沈むことができるならそれがいい。
 虎次郎は手を伸ばし、薫の閉じた瞼にかかる前髪を横へ払った。
「じゃあ、疲れたらまた来いよ。酒と美味いもん出してやるから」
 あらわになった白い額に顔を寄せてキスをする。
 薫は、答えなかった。

「というわけで、俺と薫は付き合ってない」
 チェリーと関係を持ったんだろう、と脈絡なく切り込んできた愛之介に対し、虎次郎は事実として訂正の言葉を返した。
 愛之介は胡乱げな目を悪びれもせず虎次郎へ向ける。そんな顔でそんなことを言いたくなる気持ちは痛いほどわかる、というよりこの世界の誰よりも虎次郎自身がそう思っている。
「その『付き合ってない』って、なにか意味があるのかい?」
「……薫にはな」
 虎次郎は目をやわらかく細めた。薫の頑固は今に始まったことではないし、その根幹もわかっている。
 薫は関係を変容させたくないのだ。
 虎次郎と薫の関係は幼いころから長すぎて、深すぎて、もう、そういうものとしてできあがってしまっている。立場もあとさきも考えず、今この瞬間だけに目を向けていればいい無邪気な子供のときのまま、透き通る金色のガラス玉のような瞳で、薫はずっと虎次郎を見ている。
 本当は、もうとっくに大人になっていることくらい、薫もわかっているはずなのだ。
 わかったうえで言葉の上だけでも否定する、幼な子が駄々をこねるような甘えだった。相手が虎次郎でなければ薫はこんな態度はとらないだろう。そう考えるとどんな理由であれ薫の中で虎次郎が特別なポジションにいることは間違いなく、そのことに満たされる部分があるのもまた事実なのだった。
 虎次郎の考えは、薫とは違う。この関係に恋人という名をつけたほうが実態を表していると思うし、同じ家で暮らしたっていいし、合意を得られるのなら役所に契約の紙切れを提出しに行ったっていい。
 どれも薫が断固として首を縦には振らないので、今のところは実現に至らない話だ。
 けれど。
「いいんだよ。一生続けば、それで」
 付き合っていないという名目で、付き合っていると誤解されるような関係のまま、ともに歳を重ね、いつかスケートに乗れなくなるほど老いた日が来てもそばにいて、喧嘩したり料理を食べさせたりすることができるのなら、それで。
 虎次郎の願いは叶ったも同然なのだ。

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