付き合ってないけどモルディブへ行くジョーチェリ
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故郷の島と、似ているようで違う国。
那覇空港よりもずっと小さな空港の出口に、小さなカウンターがずらりと並んでいる。そのひとつひとつがこの国を構成する小さな島それぞれに対応していて、すべて違う名前が書かれていた。
ひとつの島にひとつのリゾート。それが南北に数えきれないほど連なって──このモルディブという国は、世界有数のリゾートアイランドである。
「あっつ!」
大きなスーツケースをゴロゴロと転がしながら虎次郎が言った。
「でかい声を出すな」
とはいえ薫も暑いことには同感だった。エアコンが効いているのか疑いたくなる温度と湿度にあたりを見回せば、柱に備えつけられた扇風機が申し訳程度にゆっくり回っていて、これ以上涼しくなることを期待するのをやめる。カウンターの奥はもう空港の外で、道路が見えたかと思えばその先は海だ。屋根がついているだけのほぼ屋外である。
目の前に並んでいるカウンターの中から予約したホテルのロゴを見つけ出す。そちらへ近づいていく途中で、カウンターの手前に立っていたスタッフは薫たちが向かってきていることに気づいて視線を合わせた。彼が着ているのはホテルの名前が入った半袖のポロシャツに短パン、足元はサンダルで、気候にふさわしい格好をしている。
「Hello」
「Welcome. May I have your name?」
「I’m Sakurayashiki」
スタッフは視線を落として手元の資料を確認すると、笑顔をもって薫と虎次郎を歓迎した。
「お待ちしておりました」
英語とドルが使える観光立国は、日本人にも優しいらしい。
薫はただ、旅行会社と仕事をしただけだった。
京都や奈良、あるいは近年インバウンド需要の高まるニセコなどを外国人観光客へアピールする際の演出として、薫の文字とAI書道の映像を使いたいというオーダーだった。よくある仕事だ。定型文の契約書を交わして記載通りの報酬を得た、そこまでは予定通りだった。
「桜屋敷先生、よろしければ旅行へ行かれませんか?」
納品確認の連絡で、先方の担当者がついでのようにそう言い出すまでは。
「行かれてもPRは必要ありませんし、完全プライベートで大丈夫です。報酬の上乗せと思っていただければ」
隙のないビジネススーツに身を包んでにっこりと微笑む彼女の様子に裏はなさそうで──あるとしたら次回の仕事を薫に頷かせやすくするためだ──それではお言葉に甘えて、と薫はその権利を受け取った。
渡された旅行先が東京や大阪であればひとりで身軽に出かけるのだが、行く先がリゾート地ではそれも憚られる。そこで薫は気心の知れた自営業のゴリラに一週間の休みを取らせて連れていくことにしたのだった。
「なんで俺?」
「喜べ、旅費は先方持ちだ。もちろん那覇から羽田も込みでな」
「いやそりゃありがたいけど、なんで」
「行くのか、行かないのか」
「行く」
店を一週間閉めるのは収入を考えると無視はできないだろうが、そこは先月のクリスマスシーズンに稼いだぶんで補ってもらうことにする。
マレ空港そばの港からスピードボートで荒波を縫うこと数十分。三半規管にややダメージを負ったものの、ボートを降りて一面に広がるエメラルドブルーを見ればどこかへ行ってしまう。
旅行の話をしたときはなんでと言っていた虎次郎もいざ現地に着いたらどうでもよくなったようで、薫よりも真剣にホテルのスタッフの説明を聞いていた。ちなみに薫はホテルの施設を念入りに確認してきたから、スタッフの説明は聞くまでもなかった。
カードキーを受け取って、カートに揺られて部屋まで案内される。海に浮かぶ水上ヴィラのうち一棟の前でスーツケースとともに下ろされて、カートを運転していたスタッフはウインクを飛ばして去っていった。
「薫」
先にヴィラに入った虎次郎が、さっきまでの浮かれた様子から一転して神妙な声で呼ぶ。
「この部屋、お前が選んだ?」
「どういう意味だ」
無駄に大きな背中を押しのけてベッドルームを覗き込む。
キングサイズのベッドがひとつ、ハイビスカスの花を咲かせてふたりを待っていた。
三食を摂る広いレストランの一角、薫はできたてのトマトときのこのオムレツをつつきながら溜息をついた。開放された窓の向こうは砂浜と海で、朝日が惜しみなく降り注ぎ、眩しいほどにきらきらと輝かせている。
「もうめんどくせえからカップルってことにしようぜ」
「おいふざけるなよ」
「どうせ俺たちのことなんか来週には誰も覚えちゃいねえよ。いちいち否定するほうが面倒だ」
虎次郎は温めたパンにレタスやトマトやベーコンを豪快に挟んで即席のサンドイッチを作り、大きな口でかぶりついた。
他のテーブルではそれぞれの宿泊客がバイキングで取ってきた朝食を思い思いに食べている。カップル。カップル。家族連れ。カップル。家族連れ。そしてまたカップル。
教育の行き届いたリゾートホテルのスタッフは最大限にもてなしながら適度な距離を置いてくれる。それはありがたいのだが、どう考えても薫と虎次郎はゲイカップルの旅行と思われもてなされていた。プールサイドでカクテルを注文したら持ってきたスタッフに写真を撮ろうか? と訊かれ、部屋へ戻ればベッドにはまた花が咲いていて、二日目の夜にはスパークリングワインのボトルサービスが届いた。
「嘘も方便だろ。せっかく羽伸ばしに来たんだから楽に過ごそうぜ」
虎次郎の言っていることは珍しく説得力があった。薫はオムレツを飲み込んで、グァバジュースに手を伸ばす。
「今だけだからな」
「当たり前」
朝食のあとはレンタルしたスノーケルセットを持ってビーチへ出た。いつの間にか仲良くなったらしいスタッフがすれ違いざま虎次郎にHiと声をかけてくる。
虎次郎はチャオとなぜかイタリア語で返しながらラッシュガードを着た薫の肩を抱いて裸の胸へ引き寄せたので、薫はその脛を思い切り蹴飛ばしてやった。そのまま海へ突き落とされなかったことを感謝してほしいくらいだ。
昼間は海やプールでいくらでも遊べるが、日が暮れてしまうとそれもできない。夕食のあとは特にすることもなく、バーで少し飲んで部屋に戻るともうシャワーを浴びて眠るだけだ。
「虎次郎」
テラスに出ていた薫が、ソファでくつろいでいる虎次郎を呼び出す。
「ん?」
「星が綺麗だ」
人工の明かりはテラスから海へ降りる階段のそばにいくつか灯っているくらい。あとは頭上に丸い月と、星々がちらちらと瞬いているだけ。この島に寄せる波は穏やかで、夜の眠りを邪魔されることもなかった。
テラスに二台並んだデッキチェアに寝そべって星空を見上げる。せっかくだからと虎次郎は先日差し入れされたスパークリングワインを持ってきて、二脚のグラスに注いだ。
「こりゃ本当に楽園だな。好きなだけ泳いで、食って飲んで、夜は目覚ましかけずに寝て」
旅先でいちいち細かいことを気にするのも面倒でオールインクルーシブプランを選んだから、この楽園にいるあいだはなにもかもがふたりの思うままだ。朝でも夜でもレストランへ行けば並んでいる料理を好きなだけ食べられる。冷蔵庫のドリンクも、バーへ行けば酒もコーヒーも飲み放題。ハウスリーフでのスノーケルだって、島内に何箇所かあるインフィニティプールだって、SUPもビリヤードもダーツもテニスも飽きるまで遊ぶことができる。
なにもかもがある。たったひとつを除いて。
薫はワインを飲み干して空になった手元のグラスをじっと眺めた。
「どうかしたか?」
「……帰ったら」
「うん?」
「お前の料理が食べたい」
食べ放題の異国の料理も、初めて飲む銘柄のワインも、魚と一緒に泳ぐ海も悪くはない。ただここは旅先で、故郷ではない。心が還りたがる場所はほかにある。
「もちろん」
虎次郎はワインボトルを持った腕を伸ばして薫のグラスへ傾ける。
手の中でしゅわしゅわと弾ける炭酸に、夜の静かな波の囁きが重なった。
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