薫と忠。第×回桜屋敷薫展 作品展示販売会
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身近な人間ほど、薫の価値に興味を示さないのだ。
桜屋敷薫には大きな価値がある。薫のことを知る人間の大半はそう思っている、と、薫自身が認識しているのは決して自惚れではなく、それが単なる事実であるからだ。仕事の量が、質が、日々降り積もる資産が、それを証明している。
薫の文字に価値がある。それを生み出す手にも。身長ほどもある大筆をふるう大書のパフォーマンスを堂々と支える身体にも。AI書道を革新的に彩っている張本人はカーラだが、カーラを生み出したのは薫の頭脳と指先だ。カーラを作れるということは、この世で人類が想像しうるおよそほとんどのシステムを作れるということで、書道を抜きにした仕事も少なくない。薫の書を売り出すときに、美しい顔や髪は武器になる。中性的な顔、そのくちびるからこぼれ落ちる声は存外低く、穏やかな口調はやわらかく耳の奥まで流れ込んで、聞く者を心地好さの海に沈める。
そういったことを、桜屋敷薫をつくりあげる価値の輝き一つひとつを、薫の周囲にいるほとんどの人間は理解しているはずなのだ。
一番身近な人間だけが、そんなことはまったくどうでもいいとでもいうかのような態度を取る。薫の書にもプログラムにも興味がないから、平気で蹴り、髪を掴み、頭を殴る。まったく野蛮なものだ、と薫は己の夜のおこないを丸無視しながら思う。
彼らは薫の世間的な価値を理解しないから、当然、薫の書の個展にも現れない。個展を開いていることすら知っているかどうかも怪しい。
「桜屋敷先生」
しかし先述のとおり桜屋敷薫を知る人間の大半は薫に、薫の書に価値を見いだすから、個展は連日盛況であった。額装された作品には順調に売約済みの札がかかり、薫の未来を、次の作品の進む道をまばゆく照らした。
背後からかかる声が、握手やサインを求めるものなのか、金を払う心づもりのあるものなのかはもう、声音だけでわかる。
「はい」
だから薫は内心でガッツポーズをしながら振り返った。十分後に確定する収入は六桁だろうか、それとも。
「先生の書をひとつ、買わせていただきたいのですが」
薫の期待通りの言葉を放った人物を目にして、眼鏡の奥でぱちりとまたたく。どなたさまもお気軽にご来場くださいませ、と案内している個展である、誰が来てもおかしくはない。ただ意外なだけだ。
けれどそう、思い返せばたしかに、薫は彼に蹴られたり殴られたりしたことはなかった。
「ありがとうございます。どちらの作品でしょうか?」
他のあまたの上客たちへするのと同じように、にこりと微笑む。返す言葉も同じだ。
けれど薫には答えがわかっていた。
会話はほとんどすることがなくとも、よくよく見知った顔。まるでこの世に楽しいことなどひとつもないと諦めているかのような無表情で、しかしその実、この男には唯一絶対の存在がいることを知っている。
この会場に、彼がほしがりそうな言葉など、ひとつしかないのだ。
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