最後のイタリアン

虎次郎が亡くなったあとのシアラルーチェ

 しばらく休業します、という走り書きの貼り紙が、ようやくドアから剥がされた。
 店に貼り出す告知としてはあまりにも情報が少ないが、これで十分なのだった。近所の住人や常連客はみな事情を知っている。当然、薫も。
 ひとつ深く呼吸をし、OPENの文字を見ながら分厚い木のドアをゆっくりと開ける。これに触れるのも久しぶりだ。こんなにも重たいドアだったろうか。
 カラコロとドアベルが鳴って薫を歓迎した。次いでいらっしゃいませと声が飛んできて、そちらへ顔を向けると声の主と視線が合う。
「……先生」
「こんにちは」
 Sia la luceの二代目オーナーシェフが薫の姿を認め、困ったように微笑んだ。
 青年だったころから何十年もこの店のスタッフとして働いている男だ。薫とも、やり取りはさほど頻繁でなくとも──薫の相手は基本的に虎次郎がしていたので──関わりは長い。
 虎次郎も認める料理の腕を持ち、勤勉で明るくて、おまけに虎次郎が苦手だった金勘定も得意な逸材だ。よくあのノリだけの男に愛想を尽かさずこの店にい続けてくれたと思う。虎次郎が店に立ち続けられなくなったとき、彼が跡を継ぐことに、疑念を抱くものはひとりもいなかった。
 テーブル席には先客がいるが、カウンター席には誰もいなかった。今も薫のために空けられていたのか、たまたま一人客が来店していないだけなのかはわからない。
 薫はその席につくとランチメニューをひととおり眺め、顔を上げた。
「カルボナーラを」
「かしこまりました。先生にお作りするのは緊張しますね」
「腕は存じていますよ」
「ご期待に沿えられるといいのですが。では、少々お待ちください」
 軽く頭を下げて厨房へ入ってゆく背中を目で追って、そのまま周囲をぐるりと見やる。
 あのひときわ大きな図体がないだけで、店内の空間はもの悲しいほど寂しく見えた。この店はこんなに広かっただろうか。
 厨房では調理する賑やかな音が鳴っている。背後のテーブル席には客が何組もついていて、盗み聞きするつもりはなくとも会話が聞こえてきた。それらの音や声の向こうに、控えめなボリュームでゆったりとしたジャズが流れている。閉店後には音楽も止めるからこれを聞くのもずいぶんと久しぶりだった。
 じっと座っているだけでも、色がついて目に見えそうなほど鮮やかな香りが漂って嗅覚を楽しませる。オリーブオイル、トマト、みずみずしいハーブやバジル、加熱されたチーズ、焦げ目のついたガーリック、……それから。
「お待たせいたしました」
「ありがとう。いただきます」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
 カウンターのプレースマットの上に、白い皿がそっとサーブされる。
 薫がこの世で一番と思っている店のカルボナーラ。卵とチーズのとろけるような香りに黒胡椒がアクセントを添える。まるで誰かのよう。
 パスタにソースを絡ませながらフォークにくるくると巻きつければそこからふわりと湯気が立って、誘われるように口の中へ招き入れる。
 虎次郎のカルボナーラの味がした。
 弾かれるように顔を上げて厨房へ視線を走らせる。だがそこに、あの大きな背中はない。わかりきっていたことだ。けれど確認せずにはいられなくなるほどに、薫の舌が覚えているのと同じ味がしたのだ。
 レシピを継いでいるのだから当然といえばそれまでかもしれなかった。それでも薫は、胸の奥に違和感の叫び声を聞く。葬儀を終えて、店が再開して、今日はここへ来て虎次郎の味がもうどこにもないことを確認するつもりだったのに、思惑が外れてしまった。それがかえって、よく似たかたちのパズルのピースをうまく嵌め込めずにいるような、どうしようもない思いを呼ぶ。
 薫はなによりの好物を、ゆっくりと時間をかけて平らげた。

「ご馳走様でした。美味しかった」
 会計もシェフが担当してくれたのでそう伝えると、彼はほっとしたように目元を和らげた。世辞ではない。本当に、美味しかったのだ。あの味だったのだから。
 店を出れば眩しいほどの陽が降り注いでいて、薫は思わず目を細めた。見上げた空には雲ひとつない。今夜は星もよく見えることだろう。
 振り返り、眼前にたたずむ店の姿を目に焼きつける。
 瞼の裏に虎次郎が店をオープンしたときの風景が蘇った。塗りたてのペンキ、傷ひとつない看板。薫が開店祝いとして嫌がらせのように大きな祝花を贈ったら、虎次郎は置く場所がないとぼやきながら店名の看板のすぐ隣に置いた。
 長い年月を経た店に、あのころの、磨きたてのカトラリーのような輝きはない。代わりに虎次郎が惜しみなく注ぎ続けていた愛情が染み込んで、店の中にも外にも、窒息しそうなほどあちこちに気配があった。
 店の前に並べられた植木鉢を見れば、開店前に長いホースを持って水やりをしていた虎次郎の姿を思い出す。そんな時間に薫が通りかかることは珍しく、虎次郎は幽霊でも見たかのように目を丸くすると、なんだよ、徹夜か? などと薫の状況を勝手に推測して、開店準備中のあわただしい店内で薫にカプチーノを飲ませたのだ。
 実際薫は徹夜明けで、そんな人間にカフェインを摂らせるなんてなにを考えているのかと思ったが、あれほど美味しいカプチーノは他になかった。
 目を閉じて、開ける。薫が思い起こしたその光景はもちろん現実にはなく、これから先も二度とない。虎次郎が手をかけていた草木のみどりたちがさらさらと風に揺れるだけ。
 薫は草履の足を踏み出して書庵への帰り道を歩きだした。いつまでもぼうっと立ち尽くしているわけにもいかない。背後でドアベルが軽やかに鳴って、ご馳走様でしたと言う女性の声に、ありがとうございますと返すのが聞こえてきた。あの居心地の好い陽だまりのような低音とは違う声。
 喉元になにかが詰まったような気持ちになって、たまらず薫は歩く足を早くする。
 きっともう、ここへは来ない。いないことを思い知らされてしまうようなメニューは、もう、どこでだって食べない。
 掴まれていたのは、胃袋だけではなかったのだ。

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