梨屋さんのイラストに書かせていただいたもの
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このあいだ、酔っ払ってキスをした。
正確には酔っ払うというほど大量に飲んだわけではないから鮮明に覚えている。たぶん薫も覚えている。会話の隙間に不意に沈黙がおりて、なんとなく隣を見たら薫も俺を見ていて、寝こけているときのように唇が少し開いていて、蜂蜜みたいな色の瞳を見ながら、引き寄せられるように一瞬のキスをして、グラスを持ったままの手が少しだけ震えた。
それだけだ。薫はいちどまたたいたあと「生ハム」と言った。俺は生ハムじゃない。文句を言いながら仰せのとおり冷蔵庫のミニハモンを切って出してやった。それだけ。おしまい。
それきりだし、今夜はまだ一滴も飲んでいない。だからなにも起こりようがない、そのはずだった。
「おい」
「うおっ」
着替えようと上を脱いだところを押されて俺は仰向けに倒れ込む。別にやましい状況ではない。仕事から帰ってきて、汚れた服を着替えようとしただけだ。ひっくり返される理由も据わった目を向けられるいわれもない。
「なんだよ! 危ねえな」
「いつまで待たせるつもりだ」
「はぁ?」
薫は、ハアァ……とわざとらしい溜息をつくと、俺の腹を跨いで腰を下ろした。はだけた着物の影から白い太ももが見えて心臓に悪い。上半身を起こそうとしてもさすがに大の男に乗られていると分が悪かった。裸の腹に、少し体温の低い薫の太ももの感触が伝わってくる。
「なに、待て、薫、」
「お前このあいだ自分がどういう目をしていたかわかっていないのか?」
「……なんの話だよ」
「フン、しらを切る気か」
薫は俺を見下ろしたまま左手を自分の背中へ回した。しゅる、と軽やかな衣擦れの音がして、帯を解いているのだとわかる。それはわかるが、逆に言うとそれしかわからない。この状況も、薫がものすごく楽しそうな顔をしているのも、なにもかも理解が追いつかない。
着物の合わせが開いて胸が覗いた。やわらかい女の胸でもないし温泉やらなにやらで嫌というほど目にしたことがあるはずなのに、今はやけに色めいて見える。
帯をゆるゆると引き抜きながら、薫の空いていた右手が俺の腹筋のくぼみをするりと撫でた。背筋にぞわぞわと駆け上がるものはなんなのか。
眼鏡の奥の吊り目がぎらぎらと光りながら俺を見て、まずい、と本能で悟った。まずい、こんなの、だって、目が離せない。
「まあいい。そろそろ観念してもらおうか」
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