幽霊の虎次郎

先に死んだ虎次郎が幽霊になって薫にまとわりついてるほのぼの死後

「薫」
 書斎でディスプレイを見つめている薫のそばに、いつの間にか幼馴染がやって来ていた。
 暑苦しい図体に反して優しい陽だまりのような声が、そっと、しかしはっきりと薫を呼ぶ。
「カオル」
「……」
 物心つく前から顔を合わせるたびに喧嘩する仲ではあったが、呼ばれて相手をしている暇は、今の薫にはなかった。
 イレギュラーなケースでのみ発生するバグは、正当な運用では起こらないはずだが、人間は常に正当な運用だけをする生き物ではないのだ。再現する条件は限られるが再現性のあるこの厄介な事象を、薫は今夜じゅうに取り除かねばならない。
 薫の長い指はせわしなくキーボードを叩き、タップダンスのように音を奏で続けている。その軽快なリズムに重なってまた隣の男が名を呼んだ。
「なぁ、かーおーるー」
「やかましい!」
 薫の声とともにタップダンスが止む。椅子に座ったまま、ただでさえ悪い目つきをさらに鋭くして睨み上げた。
「見ればわかるだろう俺は仕事中なんだ! 話しかけるな姿を見せるな邪魔をするな」
「お前がちゃんと食って寝てるならそうするけどなぁ」
「寝てるし食ってる。ほらもういいだろうあっち行け」
「嘘つけ、朝から食ってねえだろ。いま何時かわかってんのか?」
 そう言われ、薫はディスプレイの右上に視線を向けた。デジタル表記の時刻はもうすぐ数字をリセットしようとしている。
「……くそ、今日のうちに終わらせたかったのに」
「そうじゃねえっつうの。もう今日はそこまでにしてなんか食えよ。味噌汁くらいあるだろ?」
 虎次郎は薫の食生活や家のストックなどすっかり把握してこんな口出しまでしてくる。湯を注ぐだけで食べられるインスタントの味噌汁はとかく便利で、常に大袋で買い置いていることなど、とっくに知られていた。
 薫にとって家での食事の優先順位は高くない。ひとりで食べる食事など、空腹を紛らわせ必要な栄養さえ摂れればよいのだ。
「うるさい、俺だって──」
 ほんとうは、いつもなら、ほんの二ヶ月ほど前までは、こんな時間帯は行きつけの店で過ごしていた。料理はあったりなかったりしたが、薫の舌を楽しませるワインを飲みながら、この口やかましい店主とカウンター越しに呼吸のように会話をしていたのに。
「……ごめんなぁ」
 目元を緩めながら言われてしまうと、文句を続ける気が削がれてしまう。
 薫があの時間を懐かしむよりもずっと、虎次郎のほうが未練を持っているのだった。そうでなければ死んだあとまで毎晩のように姿を見せたりしないだろう。
 葬儀のあと、なんの音沙汰もなく突然目の前に現れた虎次郎にはじめは自分の気が触れてしまったかと思ったが、カーラが虎次郎と認識したので幽霊と思うしかなくなった。
 害はない。ただこうやって、薫の生活を気にかけ続けているだけで。
 薫はひとつ大きく溜息をつくと立ち上がった。
「……食べるから、もう口出すな。そこは触るなよ」
「触らねえよ」
 虎次郎は困ったように笑い、それきり薫の指示したとおり口を閉ざした。
 そのさまに薫は失言を悟る。虎次郎は責めはしない、ただ薫が言わなければよかったと思うだけ。
 あまりにも生きているときと変わらないから、薫もつい生前と同じように話してしまうのだ。
 虎次郎がもう、パソコンも、調理器具も、薫にも触れられないことは知っているのに。

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