モブ女性と結婚し、死別する薫
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物心つく前からそばにいて、もう知らない姿などないと思っていたのに、こんなに憔悴した薫を見るのは初めてだった。
薫が結婚したのは四年前のことだ。
いつものように閉店後の店に我が物顔で押しかけてワインを飲みながら、薫は雑談の中でおもむろに、そういえば、と話の矛先を変えた。
「なんだよ、仕事の愚痴か? それともまたカーラの話か?」
「結婚することになった」
「……はぁ?」
「届けを出すのは来月、式は一年後だ」
「待て、誰がなんだって?」
「俺が」
「薫が?」
「結婚する」
薫は特別なことを言っているつもりはないらしく、普段と同じ目をしている。
なんだかんだと顔を合わせる機会はしょっちゅうあるのに、俺は薫にそんな相手がいることすら知らなかった。聞けば交際どころか知り合ってまだ三ヶ月だと言う。
「早くねえか?」
「心を決めるのに早いも遅いもあるか」
薫はフンと鼻を鳴らしてグラスを傾ける。かっこいいなと素直に思った。言ってはやらなかったけど。
「まあ、なんだ……おめでとう。幸せになれよ」
ワインを注ぎながら言った言葉に嘘はない。俺はずっと、ガキのころからずっと、薫が幸せであればいいと願ってきた。できればその薫のそばに、俺の姿や俺の店があればいいと。
だからふたりの結婚式の二次会の会場として俺の店を選んでもらえたのは、俺にとってこの上なく幸福なことだった。
伴侶に選んだ相手を薫がどんなに深く想って大切にしたか、きっと誰より俺が知っていた。結婚してもしょっちゅう──カウンター席ではなくテーブル席で──食事をしに来たからふたりの様子はひと月と空けずに見ていたし、そもそも薫は自分の懐に入れた存在へは過剰なほど情を預ける男だ。三ヶ月で結婚を決めたのはそれほどの相手だったからなのだと、紹介されてすぐにわかった。あの気性が荒くて気難しくて神経質で凝り性で完璧で純粋な桜屋敷薫の隣に平気な顔をして並び立てるひとが俺以外にもいるのだ。寂しくないとは言わないが、喜ばしいことであるのは間違いない。
薫のそういう性質にも仕事にも理解のある、似合いの相手だった。俺にもずいぶんとよくしてくれた。彼らの住居は書庵のそばにあって、俺の家や店にも近いから、このまま仲睦まじく老いていくのを見守れると思っていたのだ。
訃報は薫から聞くより常連客に耳打ちされるほうが早かった。俺は家族でもないのに一瞬息が止まった気がして、俺がこうなら薫はどうしているのかと思ってまた呼吸が苦しくなった。
通夜の会場には大勢の弔問客が集まっていた。薫の仕事の手広さを思えば順当でもいざ目の当たりにすると圧倒される。
その大勢の人垣の向こうに薫はいた。紋付袴の第一礼装は三年前の結婚式の幸せな記憶とともにあったはずなのに、今この瞬間、線香の香りとともに塗り潰されてゆく。
いつもの、夏の青空の下に咲く向日葵のような色の髪紐ではなく、墨のように黒い紐が薫の淡い色の髪を留めていて、それがひどく異様に見えた。
「薫」
お悔やみの言葉を伝えにくるひとの列が途切れたところを見計らって声をかけると、薫はゆっくり振り返り、レンズ越しに俺を見た。
「……来てたのか」
弱々しい声がかろうじてそう反応する。
来ないわけがない。薫の、大切なひとが亡くなったのだ。
痛々しいほどの心労が見てとれる。きちんと両の足で立って、喪主として弔問客と言葉を交わし続けて、他のひとからは気丈に振る舞っているように見えるのかもしれない。あるいは冷静すぎるようにすら見えるのかもしれない。けれど俺には、もしこの場に誰もいなかったら、そのまま倒れてしまいそうに見えた。こんな薫は初めてだ。旧友にボードでぶん殴られたときだって平然としていたのに。
「飯食ってるか?」
「……必要な栄養は摂ってる」
食べていないという意味だった。サプリメントなんて、食事の喜びからは程遠い。
「隈ひどいぞ」
「コンシーラーを塗ったのに……」
俺にだけ聞こえる大きさの舌打ちにも覇気がない。いつもなら顔を合わせた瞬間に口と手が出るのに、俺も薫も、取るべき態度を掴み損ねたまま。
薫はどこか眠たげにも見える顔で、俺の頭から爪先までをじっと目で触れた。
「お前、喪服持ってたんだな」
「ん? ああ、まあな」
本当は、持ってはいなかった。慌てて買いに行ったらサイズがぴったり合うものがなくて、無理を言って急いでセミオーダーで仕立ててもらった。だがそんな話は今の薫にはどうだっていいことだ。それよりも。
「寝れてねえんだろ」
「関係ない」
「なくねえよ。お前がそんなだとあのひとが悲しむぞ」
故人の反応を勝手に推測する卑怯さを薫は責めず、代わりに視線を落として目元を緩めた。
「……怒られそうだ」
その様子に胸の奥でちりちりと燻ったのは、たぶん嫉妬だ。少なくとも俺の前で薫を叱るようなひとではなかったから、家の中でだけのやり取りがあることを今更、本当に今更、見せつけられた気分になった。
倒れてしまいそうに見えても、薫は倒れはしない。もし倒れたなら堂々と支えてやれるのに。
「家にいるのがしんどいならうち来るか?」
そうして俺の口からぽろりとこぼれ落ちた言葉に薫がゆっくり目を見開く。数秒おいてわずかに顔を動かしたのは、頷いたようにも、拒絶したようにも見えた。
俺はずっと、ガキのころからずっと、薫が幸せであればいいと願ってきた。──できればその薫のそばに、俺の姿があればいいと。
でも今はもう、薫の幸せがなんなのか、すっかり見失ってしまった。
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