南城誕2021
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定休日明けの水曜日はランチもディナーも客入り上々で、閉店ぎりぎりまで客がいた。とはいえメインディッシュの済んだテーブルにエスプレッソとティラミスを出せば接客はもうほぼ終わり、あとは会計と後片づけをすれば長い一日も幕を閉じる。
やれやれとひと息つきかけた虎次郎の耳に届いたのは、ラストオーダーを気にしない闖入者の奏でたドアベルの音だった。
顔を見るまでもない。夏用の薄鼠の着物姿でやってきた薫は虎次郎がなにか言うより先に我が物顔でカウンター席へ腰かける。テーブル席に残っていた女性客が不自然な訪問者へちらりと目を向けたが、すぐにお喋りに戻っていった。
「お客さーん、もうラストオーダー過ぎてるんですよ」
薫が聞く気はさらさらないのは承知の上で一応そう文句を言っておく。薫も虎次郎の文句が本気でないことは承知の上で来ているから、これは「こんばんは」の代わりである。
カウンターに空のワイングラスを置くと薫は虎次郎へ眼鏡越しの上目を向け、口を開いた。
「魚が食いたい」
「お前なあ」
「アクアパッツァは?」
「……すぐには出せねえぞ」
「構わん」
今夜、薫が来るかもしれないと思っていた。来るかもしれないし、来ないかもしれない。来る理由だってただ酒が飲みたいだけかもしれないし、あるいは日付のせいかもしれない。薫の気まぐれがどう働くかなんて虎次郎のコントロールできる範疇にはなく、来たら相手をすることくらいしかできないのだった。
「これでも食ってろ」
小皿に盛ったオリーブと半分だけ残っている白のボトルをカウンターに置いてやり、アクアパッツァを作るため厨房へ戻る。ちらりと様子を伺うと薫は着物の袂を押さえながらそうっとワインを注いでいた。
フライパンで鯛を焼き、ミニトマトやアンチョビを加えて炒め、白ワインを足す。蓋をして蒸し始めたあたりで客席からお呼びがかかった。
「すみませーん、お会計お願いします」
「はーい! お席でお待ちください」
二人組の女性客は会計中もずっと楽しそうに会話を続けていた。ドアを押さえた虎次郎の前を通って外へ出てから振り向いて「おいしかったです、また来ます」と笑顔で言われれば最高の気分で業務を終えられるというものだ。
そうして業務は終わったはずだが、なぜかまだ調理は続いている。虎次郎はテーブル席に残されていたデミタスカップと皿とシルバーをまとめて厨房へ下げるとフライパンのご機嫌をうかがった。よさそうだ。黒胡椒とイタリアンパセリで軽く化粧してフライパンごとカウンターへ持っていくと、薫はオリーブの最後のひとつを口へ放り込んだところだった。薫は次の皿が来るまでのちょうどいいペースで食べ終えるという謎のスキルを持っている。
隣の椅子を引いて座り、コックコートの胸のボタンをひとつ外す。ふぅと溜息をついて今度こそ業務は終了、ここからは晩酌だ。
薫は虎次郎へは目もくれずに鯛をせっせと切り分けて自分の取り皿へ移していた。虎次郎の皿は当然のように空のままだが、ひとくち食べた薫の顔を見てしまうと言いかけた小言は飲み込んでしまう。
空のグラスに手酌でワインを注ぐ。ボトルはだいぶ軽くなっていた。
「なあ、今日俺誕生日なんだけど」
「知っているが」
「まあそりゃそうか」
「今朝カーラがそう言っていた」
「なにそれ?」
「データベースに誕生日の登録がある場合、朝の通知に含めるようにしている」
「今日は誰々さんの誕生日です、ってか?」
「そうだ。祝いのメールを出しておいて損はない」
誕生日が特別な日であることは虎次郎も実感としてよくよく知っている。虎次郎が毎週のようにドルチェのプレートに書いているBuon Compleannoも、供されるひとにとっては年に一度の特別な言葉なのだ。
「俺、祝いのメールなんかもらったことねえよ」
「お前に出しても得がないだろう」
にべもない。薫の言う「得」というのは祝いのメールの返信で「ところでまた先生に仕事を依頼したいのですが……」と打診されることであるから、そんなことを言い出さない虎次郎に祝いをしても薫に得がないというのはただの事実なのだった。
別に今更、プレゼントがほしいとか、くれないから悲しいとか、そういう関係ではない。記念日だろうがそうでなかろうが会ったり会わなかったりする、それだけの腐れ縁。
「なんかくれねえの? 誕生日プレゼント」
だからこの発言だってなにかを期待したわけではまったくない。
この俺がお前にプレゼントなぞやるわけがないだろうゴリラの脳ではそんなこともわからないのか救いようのないことだ──などと虎次郎が想定した薫の返答は、しかしひとつも返ってはこなかった。
いつの間にかフォークを置いていた薫が、ふむ、と閉じた扇子を口元にあて、少しずれた眼鏡の奥から虎次郎をじっと見ている。
「そこに立て」
薫は扇子の先で自分の背後を示した。カウンター席とテーブル席のあいだの床である。
「なんで?」
「さっさとしろ」
虎次郎が訝しみながらも指定された場所へ立つと薫も立ち上がった。そのままずいと虎次郎へ近づいて、一歩、二歩。物理的に先へ進めなくなったところで薫は止まった。
胸の当たる距離だ。虎次郎の胸筋はたいへんに発達しているので、それでも顔のあいだには一定の空間があるが。
なんだよ、と虎次郎が言う前に、薫が言う。
「キスする」
「近い……なんて?」
「言ったからな」
薫は念を押すと返事を待たずにキスをした。鼻のさきが当たらないよう顔をわずかに傾けて、蜂蜜酒みたいな色の瞳がまっすぐに虎次郎を見ている。桜色の長い睫毛がぱちりぱちりと瞬くのもよく見える、そのあいだずっと、唇が重なっている。柔らかい。舌を絡め取るような情熱的なキスではないがたしかに触れ合って、じんわりと体温を分け合うように口元に熱が集まっているのがわかる。
そしてそれ以外のことはいっさいなにもわからなかった。なぜ薫はこんなことをしているのか、なぜ虎次郎は固まったまま動けないのか。アクアパッツァの香りが鼻をかすめて、こんなことをしているあいだに冷めてしまうと場違いなことを考えた。
しばらくすると薫はそっと唇を離し、顔を傾けた拍子にずれた眼鏡の位置を直した。なんの脈絡もなく突然キスしてきたばかりとは思えないほど平然としていて、虎次郎は咄嗟に言うべき言葉を見失ってしまう。
「お前なあ、ふざけるのもたいがいにしろよ」
「ふざけてはいないが?」
「え?」
薫はいつもの澄ました真顔で立っている。胸の当たる、すぐにでもキスできる距離で。
酒を飲んではいるが、かといって酔ってはいない。そもそも薫は虎次郎と同じ程度には酒に強いのだからこのくらいの酒量で酔うはずがない。
薫はただじっと虎次郎を見ている。すぐにでもまた、キスできる距離。
「……え?」
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