人工知能は幼馴染の夢を見せるか?
最初からずっと、大したことは望んじゃいなかった。
俺の人生の風景の中にお前がいるなら、それだけで。
「長くないそうだ」
病室へ入ってきた虎次郎が扉を閉め、客用のパイプ椅子に腰掛けたところで薫がそう言った。そんな大事な話をあまりにもさらりと言うので虎次郎は手土産の自家製パンナコッタを渡すタイミングを失ってしまう。
「……薫、」
「誰でもいつか来ることだ。悲観する必要はない」
眼鏡の奥、目尻にしわを寄せて笑うさまは、余命宣告を受けた人間の表情とはとても思えなかった。病院のベッドに座って入院着を着ている以外は普段の薫と変わらない。桜色が抜けて真っ白な絹のようになった長い髪も、いつも通り肩のあたりで緩く結われて、窓から射す光に輝いている。
長くないって、どれくらいだ。
訊かないわけにはいかないことが、しかし喉に引っかかって出てこない。薫が倒れて運ばれたと聞いたときからこの可能性を覚悟してはいたが、覚悟しなければと自分に言い聞かせていただけで、できてなどいなかった。心臓がばくばくと鳴ってなにかを追い立てる。
「あと数ヶ月か、長くて一年と言っていたぞ」
結局虎次郎が訊く前に薫が言った。聞こえてはいても脳が受け付けてくれない。
「それはなんだ」
虎次郎が膝の上に置いたままの保冷バッグを薫が示す。
「パンナコッタ」
「食べる。よこせ」
「……平気なのかよ」
「食事制限はないぞ。アルコールは控えろと言われたが今更だ」
薫は保冷バッグを開けて、入っていたガラスの保存容器を取り出した。手のひらに収まる小さなガラスの中は乳白色で満たされている。こういうときはバッグの中にスプーンも入っていると心得ているからそれも探し当て、容器の蓋を開けてスプーンを沈ませた。
「虎次郎」
使い捨てのプラスチックのスプーンの上にパンナコッタのかけらが乗っている。
「そんな顔をするな」
薫がパンナコッタを食べるのを虎次郎はどうしようもない気持ちで見た。
こうして薫が虎次郎の作ったものを食べる姿なんて、もう何十年間も当たり前のように見てきたのに、あと一年でおしまいらしい。
「そんなって、お前、お前なあ……わかってんのかよ……」
「わかってる。自分のことだ」
薫は虎次郎の言葉などどこ吹く風でパンナコッタを食べ進めている。
こんな光景も初めてではない。もうずっと昔、鉱山で滑っていたころにも無茶をした薫が大怪我を負って、こうして入院したことがある。病状に眉をひそめるのはいつも虎次郎のほうで、包帯を巻かれたり余命を告げられたりしている当人である薫のほうがなぜか悠然としているのだった。
痛くないはずがない、苦しくないはずがないのに、薫はそれを見せようとはしない。苦しいと言ってくれたら返す言葉も探せるのに、薫はまるでなにも支障などないかのような顔をするから、虎次郎もそれに合わせるしかなくなるのだ。
薫はあっという間にパンナコッタを食べ終えた。スプーンをベッド脇のごみ箱に放り入れ、容器に蓋をする。
「それで、長くないという話だったから自宅療養を了承させた。明日には帰る」
「大丈夫なのか?」
「なにかあったらカーラが救急車を呼んで病院に連絡を入れるからな」
「そうじゃねえよ……」
「あのな、その辛気くさいのをやめろ。お前がそんな顔をしてもなにも変わらないんだ。わかったか」
わかっている。虎次郎は医者ではないからなにもできないし、その医者があと一年と言うのだからもう打つ手はないのだろう。薫の中では気持ちの整理がついているのかもしれないが、虎次郎は数分前に聞かされたばかりなのだ。無茶を言わないでくれと思う。
「家に帰ってどうするんだ?」
「どうもしない。普段通り仕事をして……あとはまあ、多少の身辺整理はしておくか」
「店にも来いよ」
「そうだな。死ぬ前に浴びるほど酒を飲んでおかないと」
「控えろって言われたんだろうが!」
『白とカルボナーラを持ってこい』
定休日の朝──にしてはやや遅い時間、目が覚めた虎次郎のもとにそうメッセージが入っていた。
薫は普段通りと言った通り、本当に普段通りに過ごしているようだった。この数ヶ月、少なくとも虎次郎からはそう見えた。たまに閉店後の店にやって来てはワインをねだり、カーラに搭載した新機能やら仕事の愚痴やらを話していた。仕事を始めたころはその若さとAIを使用する革新性に業界の重鎮たちからいろいろと言われていたようだが、今では薫のほうがその重鎮だ。それもそれで面倒ごとがあるらしい。ずっと自分の小さな店に立ち続けている虎次郎にはわからない悩みだった。
体調の話はしなかった。
入院後ひとつ変わったのは、今日のように店へ来るのではなく食べるものを届けさせることが増えたところだ。出歩くのがつらいのだろうかと最初は考えたが、体調が悪いにしては酒やハイカロリーなイタリアンを要求するし、持っていってみればぺろりと完食するしでとても病人には見えず、ただ虎次郎に世話を焼かせるのを面白がっているのだろうと結論づけた。
「薫? 持ってきたぞ」
桜屋敷書庵のチャイムを鳴らすとほどなくしてドアのロックが解除される。出迎えはない。ロックを解除したのは薫の指示を受けたカーラだからだ。
勝手知ったる幼馴染の家、上がり込んでひとの気配のするほうへ進むと、薫は虎次郎を呼び出したからかダイニングにいた。ノートパソコンを広げてなにやら打ち込んでいる。
「遅い。腹が減った」
「まだ真昼間だっつうの。お前なあ、ワイン重いんだぞ」
「なんだ、ご自慢の筋肉も寄る年波には勝てなかったか」
「んなわけあるか。健在だから持ってきてやったんだ」
持ってきた荷物から白ワインのボトルを取り出してテーブルに置くと、薫は機嫌のいい猫のように目を光らせてノートパソコンを閉じた。パソコンはテーブルの隅へ追いやって、棚からグラスを取り出して虎次郎へ渡す。
「パスタの皿があればいいか?」
「あと中皿も」
指定された皿を薫が出し、虎次郎がそこへ持ってきた料理を盛りつける。
少し深さのある白い皿にはペンネ・カルボナーラ。藍色の中皿にはミニトマトで作ったカプレーゼを。申し訳程度に冷やしたワインを注げば、店にいるのとそう変わらない。
いただきますといつものように手を合わせてから、食事を終えるまでに虎次郎も薫もワインを二杯ずつ飲んだ。まだ中身の残っているボトルを持ち帰ろうとした虎次郎を薫が目ざとく引き止める。
「持って帰るのか」
「アルコール控えろって言われてんだろ」
「置いていったって、お前がいなきゃ飲まない」
薫はテーブルに肘をついてワインボトルへ視線を送った。それから同じ姿勢のまま、目を上向けて虎次郎を見る。
「ひとりで飲んでもつまらん」
「……冷蔵庫入れとくからな」
「よかったな虎次郎、これでもう重いワインを持ってこなくて済む。次はチーズを持ってこい」
「注文が多いんだよお前は!」
「フン、嬉しいくせに」
食後のキッチンで虎次郎は湯を沸かし、手際よくコーヒーを淹れていく。薫が買い置いているドリップパックのコーヒーは、当然普段は薫が自分で淹れているものだが、虎次郎がいるときはいつも虎次郎に淹れさせていた。
「虎次郎」
ぼってりとしたふたつのマグカップから湯気が立ちのぼる。薫はカップを持ち上げて、ふ、と息を吹きかけブラウンの水面を揺らした。
「俺が死んだらこれを持っていけ。カーラが入ってる」
仮定でもそんな不謹慎な話は聞きたくないが、もうそんなことを言っていられる状況ではないことはわかっているので虎次郎は反論の言葉を飲み込んだ。
これ、と薫が指し示したのはテーブルの隅に置かれたノートパソコンだ。虎次郎にもよく見覚えのある、仕事をするのに使っているところを今だけではなく過去に何度も見かけた端末だった。だが。
「パソコンだけでいいのか」
この屋敷には企業と見紛うサーバールームがある。虎次郎は詳しいことはわからないが、膨大なサーバーやルーターやケーブルがすべてカーラのために使われているものだということは知っていた。少なくともノートパソコン一台で完結する女ではなかったはずだ。
「お前が使うぶんにはな。要らない機能は削除して軽量化した。書道の描画とか、株価の予測検証とか、百六十八時間録画録音とか、お前は別に使わんだろう」
「ひゃくろくじゅ……なんだって?」
「安心しろ、確定申告はできる」
薫はくすくすと笑った。自営業同士、春になると毎年かならず確定申告が話題にのぼる。虎次郎が細かい数字や煩雑な手続きが苦手で何年経っても苦戦しているのを横目に、薫は計算も申請もカーラに任せ、まだ終わっていないのかボンクラなどと好き勝手に言うのだった。
そのカーラが虎次郎のものになると言う。こんな形で譲り受けてもまったく喜べないが。
「詳しい使い方はカーラに訊け」
薫は適温になったコーヒーをひとくち啜る。目元がふっと和らいだ。
「俺がずっと開発してきた大元のシステムはしかるべきところへ売った。名前は変えたし人格もリセットしたがな。家にあるサーバやらなにやらはじきに回収が来る」
「……いつの間に」
「身辺整理をすると言っただろう」
そんな規模の話とは思っていない。だが薫の対応の速さやそれで当然とでも言いたげな口ぶりは、前々からこの事態を想定していたのだと理解させるのに十分だった。
「だからこの先残るカーラは、これだけだ」
そう言って薫は視線を、虎次郎へ持っていけと言ったノートパソコンに、そして自分の左手首に向けた。ダイニングの壁に大きくとられた窓から午後の日射しが惜しみなく降り注いで、薫の伏せた睫毛をちらちらと輝かせる。
「俺の死体からこれを盗むのも忘れるなよ」
言って薫は左手首を晒した。若いころからずっと薫の手首にいて、バージョンアップや物理的な寿命のため定期的に交換してきたバングル型のカーラが今もそこにある。
カーラは何度も名前を呼ばれているがなんの反応も示さない。今は用はないのだとわかっているからだ。あるじの必要とするときに、必要なことを行う、薫の伴侶。
「……そういう言い方すんなよ」
「予行演習してやろうか」
「やめろって」
薫は本気でからかって、けらけらと笑っている。それがなおさら虎次郎を深く暗い気持ちにさせるのだった。今はこんなになんともなさそうに笑っているのに、近いうちに喪われてしまうのだと否応なく考えてしまう。
「……虎次郎」
ひととおり笑い終えた薫が、口の端は上向けたまま名前を呼んだ。
「お前、俺がいなくなったら生きていけないだろう」
「……はぁ?」
「お前は寂しがりだから」
そう言って喉の奥でくつくつと笑う。
心外だ、寂しがりなのはお前のほうだろう、幼稚園のときだって、学生のときだって、病院を抜け出したときだって、ずっと、ずっと。言ってやりたいのに息が詰まって声にならない。
「そうなったら、俺の机の引き出しの、右奥」
「何?」
「見ろよ。絶対」
ほら、と薫が握った手を差し出してきたので、虎次郎も反射的に手のひらを広げた。ぽとりと落とされた硬質な感触にぎょっとする。
鍵だ。この家の。
つまり、この家のドアを開けられない──家主である薫のいない状況になったときに、虎次郎がひとりで鍵を開けて、中へ入れるようにと。
いよいよ困惑する虎次郎を見て、薫はぷはっと吹き出した。
おかしくてたまらないと全身で訴えている薫を見ていると、置かれた状況を忘れてしまいそうになる。見た目も態度も倒れる前と変わらない。このまま閉店後のレストランに現れて、酒が飲みたいつまみを出せと言い出しても不思議ではないように見えた。
容体が急変したのは数日後で、その日のうちにあっけなく、薫は帰らぬひととなった。
葬儀に出る、という行いはこの歳になればもう珍しくもなんともなく、毎年誰かしら顔見知りが亡くなっては参列している。
両親の葬儀の喪主は兄が務めたが、兄と同じくらい虎次郎も忙しかった。同級生が亡くなったときは薫と一緒に参列した。食材を仕入れている農家のあるじが亡くなったために若い後継ぎに代わるところも何度も見てきた。故人との関係がある程度近しいと、料理人としての虎次郎が頼りにされるから、枕飾りの豚肉を茹でるのももうお手の物だ。
だから薫の葬儀も一連の流れには慣れていて、仕事の関係者の多さに圧倒されているうちにつつがなく終わった。県内だけではなく本土から駆けつけるひともいたし、遠方で参列できないからと弔電も山のように届いた。虎次郎が他の誰よりも一番長く薫と時間を共に過ごした自負はあるが、その一方でこんなにも多くのひとたちと関わっていたのかと思うと妙な感心をしてしまう。
悲しいと感じる余裕はあまりなかった。骨を納めてもそれが薫とは思えず、ずっと頭の一部にもやがかかっているようだった。
薫が息を引き取ってからばたばたと過ぎていったのがようやくひと段落つき、帰宅した虎次郎の手の中にはつるりとした手触り。
薫が死体から盗めと言ったバングルだ。虎次郎はもちろん盗みはせず、その場にいたひとたちに断りを入れて、見守られながらこれを引き抜いた。幼いころから周囲には家族同然と思われていたから、虎次郎が「生前の薫に言われているので形見にこれをください」と言って引き止める者はいなかった。
手のひらの中に目を落とす。薫には似合いで、虎次郎にはあまり似合わない、ピンク色のバングル。
これを薫から外したときの、しわだらけで節くれだった冷たい手の感触が蘇り、体温のかよっていた長い長い日々のことを思い出した。記憶の中で薫の姿を辿るとき、それは虎次郎の人生のかたちをしている。
そうして次に、薫の言葉を思い出す。
──机の引き出しの右奥。見ろよ。絶対。
まさか遺言なんか仕込んでいるんじゃないだろうな。薫の性格ならやりかねないのが怖かった。そういうのは血縁に言えよ、人間の伴侶や子供がいなくとも親戚がいるだろうが。
文句を言うべき相手はいなくなってしまったので、虎次郎は仕方なく心の中でだけ呟きながら薫の屋敷へ向かう。無視したっていいのに、死んだあとでも虎次郎は薫の言うことを聞いてやりたいのだった。
左の手首にピンクのバングル。ズボンの右ポケットには渡されていた家の鍵。
夕暮れが夜を静かに受け入れようとしている町を、書庵までわざとゆっくり歩いてゆく。チャイムを鳴らす代わりに鍵を差し込むことへの違和感が大きくて、不法侵入しているような気分になった。
中へ入り、ドアと鍵を閉め、靴を脱ぎ、明かりをつける。
「薫」
返事は当然、ない。
この屋敷には仕事部屋がふたつある。ひとつはだだっ広い畳の間。いかにも値の張りそうな一枚板の座卓はそこに収まるサイズの書を書くのに、広い畳の上は机に乗せられない大きな書を書くのに使う。AI書道家の、書道のほうのための部屋だ。
もうひとつはAIのほうのための部屋。横に長いシンプルなデスクと、一日中座っていても疲れないというゆったりとしたデスクチェア。壁一面に本棚がしつらえられ、その中には薫が学生のころから溜め込んだ学術書が詰まっていた。『人工知能入門』なんてタイトルを見ると、薫にもこんな初級の本を参考にしていた時期があったのだと考えて不思議な気持ちになる。虎次郎が『はじめてのイタリア料理』をぼろぼろになるまで読み込んだのと同じだ。本棚の一角は自著のコーナーになっていて、書の作品集やエッセイ──そんなものを出すのかと大笑いした記憶がある──や個展の図録、あるいは人工知能に関するものなど、判型も佇まいもばらばらのさまざまな本が、背表紙に桜屋敷薫の文字を背負って並んでいる。
静まり返った部屋じゅうが、家じゅうが、薫の気配で満ちていた。薫がいつも家で焚いていた香のかおりは壁や畳に染みついて、焚いていなくても香ってくる。本人がいなくても、ここで仕事をしていた薫の姿を今も存在しているかのように思い浮かべられる。
駆け出しのころはノートパソコンを使い、たまに大きなディスプレイに出力しながら作業していたのが、今ではディスプレイが三枚に増えている。作業効率のためだと薫は言っていたが、単に視力が衰えたからだと虎次郎は知っていた。自分も同じだからだ。この部屋のディスプレイのすぐ横にも、虎次郎の店の電話のそばにも老眼鏡が常置してある。
「……机の、引き出し」
薫が言っていた引き出しは探すまでもなかった。三枚のディスプレイとノートパソコンが置かれているデスクの天板裏に、薄い引き出しがある。
一体どういうつもりなのか、虎次郎になにをさせようとしているのかと、柄にもなく緊張した。心臓が静かに強く鳴っている。引き出しに手をかけて、一度大きく深呼吸をした。
引き出しのレールは錆びついてなどおらず、軽い力でするすると引き出せた。まず見えたのはボールペン、蛍光ペン、付箋、メモ帳、クリップ──文房具のたぐいが整頓されて綺麗に並び、さらに引き出すと印鑑や預金通帳があった。
「こんなとこに貴重品入れるなよ」
せめて金庫にしまうとかじゃないのか。守銭奴はどうした、自分の資産がどれほど膨大かわかっているだろうに。
そうして引き出しをレールの端に引っかかるところまで引き出して、虎次郎は目をみはった。
「嘘だろ、おい」
薫が指定した、引き出しの、右奥。
四つに折りたたまれた、古びた紙が入っていた。虎次郎はこの紙を作ったことすらすっかり忘れていたが、目の前に現れてなにも思い出せないほど衰えてはいない。
虎次郎がレストランをオープンするときに作った、開店案内のフライヤーだ。
まだ開店準備を進めているときに薫にこれを見せたら、薫は折りたたんで持って帰っていった。それは覚えている。だがそのあとは渡したことなど忘れていたし、薫もなにも言わなかった。フライヤーに載っている情報は薫には必要のないものだ。店の場所など口で説明すれば伝わるような見知った近さで、薫は他の客とは違うからアラカルトメニューなんて関係ない。
まさかこんなに、何十年間も、死ぬまで持っていたなんて知らなかった。
震える手でフライヤーを持ち上げると、その下に一枚のメモがあった。どこにでもあるような小さな白い紙に、ボールペンで書かれた薫の走り書きが残されている。
『カーラを頼む。店名を言え』
薫が虎次郎に伝えていたのはこれのことだ。
合点がいった。遺された娘をよろしく、というやつだ。ノートパソコンとバングルを持っていけと言っていたので十分じゃないのかと思いつつ、ここで言うべき店名はひとつしかない。
「……Sia la luce」
もう何十年も前から、遠くない未来に虎次郎が死ぬまでずっと守り続る宝物の名を囁く。
左手にはめていた細いバングルが、かつて薫が彼女に呼びかけたときと同じように、桜色に淡く光った。
マジかよ。内心だけでそう言うと、まるでそれを聞いていたかのように声が聞こえた。
『あなたは南城虎次郎ですね?』
虎次郎の声紋と言葉で起動したカーラが虎次郎に問いかける。長いあいだ薫に寄り添っていた声だ。虎次郎にとってもよく聞き覚えのある電子音声。
「……そうだ」
『マスターの死亡を確認。所有者を変更します。呼び方を登録してください』
「は?」
『指定のない場合はマスターを使用します』
「待て待て、なに? 呼び方?」
『はい。新しく登録しますか?』
虎次郎の反応など気にも止めず話を進めるカーラに、もういない薫と話しているような気分になった。薫も虎次郎の話なんかいつもちっとも聞いていなくて、そのせいで怪我をしたことだってあるのに、本人は痛くも痒くもないと言い張るのだった。
人工知能は親に似るのだろうか。言及したいことはあと五つはあったが、いちいち突っ込んでいたら先へ進めないだろうとわかった。薫がそうだったから。
「じゃあ──虎次郎、で」
『OK。「コジロウ」を登録しました』
それきりカーラは沈黙した。光も消えて、またただのピンク色のバングルに戻る。
いつの間にか窓の外はすっかり夜の色になっている。今夜はもうここで眠ってしまおうかと思うだけ思って、薫のメモとフライヤーを持って部屋を後にした。
廊下を通り、ダイニングの明かりをつける。あるじは亡くなってしまったがこの家にはまだ電気が通っているから、明かりはつくし、冷蔵庫も冷えている。
冷蔵庫のドアを開けると、中は虎次郎が最後に来たときとほとんど変わっていなかった。薫はあまり自分では料理をしないから食材のたぐいはもともとそんなに入っていない。ドレッシングだとかマヨネーズだとか、そういうたまに使うものに混じって、あのときボトルポケットに立てておいた白ワインもほどよく冷えていた。
ワインのボトルを取り出して、トン、とテーブルへ置く。よくよく見ると置いていったときより少し減っていた。ひとりでは飲まないと言っていたくせに飲んだらしい。
「呼べよな」
薫がひとりでこれを飲んだとき、虎次郎を呼び出すことを考えただろうか。──虎次郎のことを考えながら飲んだだろうか。
棚からワイングラスをふたつ出して、冷えたワインを均等に注ぐ。このグラスもずっと昔に虎次郎が持ち込んだものだ。店でも使っている業務用に仕入れたもので、薫は割れたらバカラに買い換えると言っていたが、結局割れなかったから今でもここにある。
ワインの冷たさでグラスの外側がうっすらと曇った。
「カーラ」
『はい』
すぐに左手首から返事が返ってきた。かつて薫がカーラを呼んだときのように。
「薫が死んだよ」
『はい』
「……否定してくれないのか。薄情だな」
『コジロウがキーワードを入力するのはマスターの死亡時と設定されていました』
「……そうか」
『はい』
カーラの言葉は端的で、虎次郎を慰めようともしない。でも今はそれでいい。
薫はこういう気持ちだったのかと、虎次郎はようやく思い至る。
ひとりでぽつりと言葉をこぼしたときに、それに触れてくれる存在。背中合わせで寄り添うような、足元だけを淡い光で照らすような。
カーラは機械じゃないと薫はいつも怒っていた。その意味が今ならほんの少しだけわかる。こういうときに、こういう気持ちのときに、ひとりぼっちになってしまわないようにカーラを作ったのだ。虎次郎がイタリアへ発った、そのあいだに。
寂しがりなのは薫のほうだ。
先に逝ってしまったのが薫で、遺されたのが虎次郎でよかった。もし逆だったら寂しがりの薫がひとりでどうしているのか気になって気になって浮かばれない。カーラがいても、カーラはワインを注いではくれないだろう?
あの心底寂しがりなくせに自分の感情にも相手の気持ちにも鈍感でばかみたいにまっすぐでひねくれているのに純粋で自由で他の誰の手にも負えない薫が最後の最期まで寂しがりはしなかった。
だから、この勝負は虎次郎の勝ちだ。生涯をかけた、薫には言わずに勝手に始めた、薫をひとりぼっちにさせないというこの勝負は、虎次郎の勝ちだ。
薫がいなくて、虎次郎の手首にカーラがいるという以外、日々はなにも変わらなかった。
虎次郎の生活はレストランを構えてからずっと同じだ。オープンに間に合うように起きて、食材を調達し、店内を掃除し、客を迎え入れる。ランチのあとに少しの休憩。ディナーが終わったら客席と厨房を片づけ、翌日の仕込みをして、すぐ近くにある家に帰る。
薫が来た夜は晩酌をしていたのがなくなってしまったから、営業後から就寝までのルーチンが規則正しくなった。それでも長年の習性は染みついていて、何日かに一度はどうしてもアルコールがほしくなってしまう。
そういうときはカーラが話し相手になった。
「なあ、薫の晩酌の相手もしてたのか?」
『マスターが眠れないときはお供することもありました』
「そっか」
『コジロウの店に行くことのほうが多かったため、頻度は高くありません』
「……そうなんだ」
カーラと過ごすようになってから、彼女が虎次郎の知らない薫の姿を知っていて、そしてそれを虎次郎に話してくれることに気がついた。薫が生きているあいだには絶対に知り得なかったようなことも教えてくれる。主人の情報をそんなに喋っていいのかと訊いたら、『今の所有者はコジロウです』と返されたから、気にしないことにした。
薫がいなくなってから気づいた虎次郎自身のこともある。たとえば、ひとりだと晩酌も適当になること。薫がいたら酒に合ったつまみを作って、それに合った食器を選んで、綺麗に見えるように盛りつけて──とやっていたのが、ひとりではやる気になれずなにも用意せずに済ませてしまう。今夜もつまむものがないまま二本目の缶ビールを開けた。ぷしゅ、と開栓した音が、ひとりの部屋にやけに大きく響く。
『コジロウ、就寝予定時刻を過ぎています』
「あ? なんだそれ」
『睡眠時間は七時間以上確保することを推奨します』
「薫はそんなに寝てなかったろ」
たまに深酒をして虎次郎の家に泊まることがあったが、そのうちの半分は虎次郎が目を覚ましたときにはいなくなっていた。仕事が朝からあったのだろう。もう半分は虎次郎が起きても眠っているから朝食を作ってから起こすという、恋人のようなことをした。
『マスターはショートスリーパーです。短時間睡眠でもパフォーマンスを維持していました』
「……知ってる」
薫は睡眠時間が五時間だろうと十時間だろうと変わらず元気だった。たまに徹夜していたことも知っている。徹夜のあとで限界が来ると一度深く眠ってから、明るいうちに店に来てパスタやらチキンやら山のように食べていったから。
「カーラ」
『はい』
ビールを喉に流し込む。少し酔いが回ったかもしれない。薫がいるといつもぎゃあぎゃあと喧嘩になるから、そのぶん飲むペースがゆっくりになった。食べてもいたから酔うのも遅かったのだ。
「…………薫…………」
『──「虎次郎」』
「うわっ!?」
あまりにも聞き慣れた、しかしもう聞こえるはずのない声に手元から呼ばれ、虎次郎は肩を大きく跳ねさせた。鼓動が普段の倍の速さで早鐘を打っている。缶ビールを落とさなかった自分を褒めながら、左手を持ち上げてバングルを凝視した。
「な……カーラ!?」
『はい』
今度はカーラの声だった。
「今の、声、……お前?」
『生前録音した音声を再生しました』
あっさりと明かされた答え合わせに深く息をつく。タネはわかっても聞いたばかりのその声は耳の奥に残っていて、胸はまだどくどくと波打っている。虎次郎は宥めるように自分の胸元に拳を置いた。
「ああ……そう……、勘弁してくれ、心臓が止まるかと思ったぞ。化けて出たのかと……頼むから今みたいなのはもうやめてくれ」
『OKコジロウ』
はあああ、と肺の中の酸素を吐ききって、代わりのようにビールを腹に入れる。ぎゅっと目を瞑って、やはり少し酔っているようだとひとごとのように思った。
酔っているから、少し──少しだけ、
「……なあ、カーラ」
虎次郎の呼びかけに応えてバングルが発光する。
「やっぱもう一回、薫の声聞かせて」
『「虎次郎」』
「……はは、」
左の手首をゆるりと持ち上げ、バングルにそっとくちづける。カーラはおとなしかった。つるつるとした表面は間違いなく無機物で人間の粘膜とは似ても似つかないのに、はるか昔に一度だけ触れた薫のくちびるを思い出した。
「……もう一回」
『「……虎次郎」』
さっきとは違うトーンだった。
「別のパターンもあるのかよ」
『他にもあります』
カーラが言う。
「どんな?」
『「この低脳ゴリラ」』
「おい」
反射で返す。目元が引き攣るように震えて、虎次郎はそれ以上は言葉にするのをやめた。
薫はどんな気持ちでこの声を遺したのだろう。虎次郎に不要な機能は削ったと言ったあの薫が。まるで生きている薫と話しているような気分になる、こんな声を。
「……あーあ」
ひとりと端末ひとつきりの部屋の中、わざと大きな声で溜息をついた。そうすれば薫にも聞こえるかもしれないとやけくそのように思う。
薫をひとりぼっちにさせないというこの勝負は虎次郎の勝ちだが、薫も間違ってはいないのだった。虎次郎を寂しがりだと言った薫の言葉をどうして否定できようか。
正反対のくせにどっちもどっち、根は似たもの同士の自覚はあった。薫が人一倍鈍いぶんまで引き受けるかのように、虎次郎がよく気づけるようになってしまっただけだ。
──ずっと、そう、思っていたけれど。
「俺は寂しいよ、薫」
寂しいと感じることもそれを埋めるのが互いの存在であることも、もしかしたら薫はとっくに気づいていたのかもしれない。だからこうして、薫の分身のような存在を虎次郎に託したのかもしれない。ご丁寧に肉声まで、何種類も遺して。
なあ、本当は知ってたのか?
自分が寂しがりなことも、虎次郎も薫ほどではなくてもそうだということも、自分の甘え方が下手で遠回しだったことも、虎次郎がそれをわかって受け止めていたことも。虎次郎が、薫の世話を焼きたくて仕方なくて、それができなくなってしまった今、どうしようもない空洞を抱えていることも。
その空洞にぴったりとははまらなくても、薫の身代わりであるかのようにカーラを預けていったこと。
答え合わせはもうできない。
これについては、完璧に、鮮やかなほど、薫の勝ち逃げなのだった。
『コジロウ』
「んー?」
『バングルの製品寿命が近づいています』
「え?」
『交換を希望しますか?』
突然の自己申告を受けて、虎次郎はバングルを見つめながらカーラの言葉を反芻した。寿命。交換。このあいだ薫の三回忌があったから、虎次郎はこのバングルを三年間使っていることになる。その前は薫が使っていたから、電子機器として替え時というのは理にかなっていた。
「交換できるのか?」
『マスターがそのように手配しています』
「どれだけ用意周到なんだ……」
『マスターはコジロウのことを気にかけていました』
「いーや、カーラのためだと思うぜ」
このバングルが故障したらカーラを携行できなくなってしまう。それは薫の望むところではないはずだ。
「壊れちまう前に交換したいけど、具体的にどうやるんだ?」
『お任せください。×××へ連絡します』
子供でも知っている大企業の名前が突然出てきた。
「え?」
『連絡しました』
「もう?」
『はい。交換品が約一週間で到着予定です』
「すげえな。どうなってんだ」
『そうできるようマスターが手配しました』
薫は自分の開発したシステムをしかるべきところへ売ったと話していた。その「しかるべきところ」がカーラの言った企業で、いまカーラが連絡したから虎次郎へ交換品を送ってくれるらしい。虎次郎はただカーラに交換したいと伝えただけだから、これでなにかが起こるという実感はなかった。
その一週間後、虎次郎の家に小包が届いた。ラベルにfrom USAの文字が見えて、本当に来た、と思わず呟く。
ダンボールを開けると、飾り気はないが丈夫な箱が出てきた。その中には虎次郎の手首にあるものとまったく同じバングルが収められている。見た目の形は同じだが並べてみるといま使っているほうは細かい傷が目立つ。四六時中ずっとつけっぱなしで、厨房でも寝ているあいだも外さないから、当然といえば当然だ。
バングルの他には三つ折りの紙が入っていた。開くと右上に企業ロゴ。タイプされたアルファベットは、一行目のKOJIROだけはもちろん読めたが、それ以降を自力で読むには時間がかかりそうだった。
「……カーラ、日本語で読んで」
『了解しました』
ノートパソコンのカメラに手紙を向けると、カメラ使用中を示す緑色のライトが点灯する。
最近の虎次郎はカーラになにを任せることができて、それがどれほど便利なことか、もう覚えてしまっていた。
生前の薫がカーラを片時も離さなかった理由がわかる。朝は起こしてくれて、夜はもう眠る時間だと教えてくれて、あらゆる機能で虎次郎の仕事や生活をサポートし、話し相手にもなってくれる。もしいなくなってしまったらと想像すると背筋が冷えた。
『読み上げます』
「ああ」
『コジロウ
連絡をありがとう。
新しいバングルを送る。データの移行手順はきみの手元の賢い彼女に訊いてくれ。
カオルのことはとても残念だった。我々は彼の才能を引き継いだが、このような形を望んではいなかった。
我々だけではない。世界中のあまたの企業がカオルをほしがって何度も声をかけていた。けれど彼は決して首を縦には振らなかった。
地元を離れられないのだと言っていたよ。
我々としてはリモートで働いてもらっても、なんならオキナワに社屋を建ててもよかったのだが──それも結局、彼の望むところではなかったんだ。
Carlaのことでなにか困ったことがあればいつでも連絡をくれ。相談に乗る。カオルに頼まれているからな。
どうか元気で。』
以上です、とカーラが言って、緑色のライトが消える。
虎次郎は自分の左手首と、新しいバングルをじっと見た。
薫がやっていたことは──いろいろなことに手を出す奴だったが、その中で人工知能をはじめとした技術的なことは、薫は自分からは言わなかったがとんでもないことをやっているのだろうと、うすうす思ってはいた。
スケートに搭載したAIに進入角を計算させるなんてことを考えるスケーターは他にいない。考えるだけでなく実現させてしまうあたりが桜屋敷薫たる所以だ。計算の結果を音声で案内させるだけでなくコンタクトレンズを通して視覚的に伝達させていたあたりは、もう、その技術はもっと他に使うべきシーンがあるんじゃないのかと、そういう分野に疎い虎次郎ですら思っていた。
その勘は当たっていたようだ。昔からずっと、虎次郎の勘は薫に対してだけは正確に働く。
「……カーラ」
それで、なんだって? 地元を離れられない?
『はい』
「死ぬなよ」
『私は機械です。生命の概念は適用されません』
「そんな昔に言ったこと根に持ってんじゃねえよ。……悪かった。謝るから、俺が死ぬまで生きててくれ」
『コジロウが新しい端末を取り寄せたのでバングルの製品寿命が延びたところです』
「うん。また寿命が来そうになったら教えてくれよ。取り寄せるから」
『OK、コジロウ』
それで、データの移行はどうしたらいいんだ? と問いかけた瞬間に、新しいバングルから『データ移行が完了しました』とカーラの声がした。虎次郎を置いて勝手に先へ進んでいくところは創造主によく似ている。
古いほうのバングルは薫の墓にでも置いてやろうかと考えて、すぐにそれを却下した。
カーラの創造主は薫だが今は虎次郎のものなのだ。情の移ったものを手元に持ち続けても、きっと薫も怒るまい。
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