人工知能は幼馴染の夢を見せるか?

グラン・クリュの夜

 どう転んだとしてもよい結果にならないことはわかりきっていた。
 虎次郎はモニターを睨みながら奥歯をぐっと噛み締め、それから地面を蹴って駆け出した。愛用のスケートを置いたままであることにはすぐに気づいたが、取りに戻る余裕はない。あれがジョーのスケートであることはこの場にいる全員が知っているから、誰かが拾っておいてくれるだろう。
 よい結果にならないというのは、虎次郎にとって、の話だ。薫が愛抱夢に勝とうが負けようが、高校のころのように一緒に無邪気にスケートをできる日はもう来ない。八年間も対話を拒み続けた愛抱夢が今更態度を変えるなどと、虎次郎はどう楽観視しても思えなかった。虎次郎が冷たいのではなく他の誰が見たってそう言うはずだ。薫は、薫だけは変えられると強く信じていたけれど。
 愛抱夢がチェリーブロッサムとのビーフを受けない限り、薫の願いはずっと保留状態だった。膠着したままなら薫が傷つくこともなかったのに、状況は突如動き出してしまった。その先に薫の望むものはないのに。
 はがゆく感じるのは虎次郎の勝手な思いだ。薫はこれこそを待っていたのだから。
 出走前の薫に言いたいことはいくらでもあった。やめておけ、お前が勝ってももとの愛抱夢は戻ってこない、自分からわざわざ傷つきにいくことはない。俺はお前のぼろぼろになった姿なんて見たくない。
 どれも紛れもなく本心なのに言えなかったのは、言ったところで薫が素直に話を聞くはずがないからだ。そして虎次郎は薫のその、こうと決めたらまっすぐに突っ走るところが好きだった。虎次郎がとっくにどこかへ捨ててきてしまった無垢な部分を薫はずっと持っている。友が離れていっても、歳を重ねても、仕事で嫌な思いをしても、失うことなくずっと芯に持ち続けている。
 本当にビーフをやめさせたいならあの場から引きずってでも連れ出してしまえばよかった。力では虎次郎のほうが明確に強いのだから、多少暴れられて怪我を負わされたとしても不戦敗にさせることはできただろう。そうしなかったのは薫の名誉を守るのと同時に、全身でぶつかっていく薫の姿を虎次郎が見たかったからだ。虎次郎の一等好きな薫の姿を。
 だから虎次郎は、なにがあってもふたりの勝負の行方を見届けなくてはいけない。目を逸らしてはいけない。
 その結果薫が傷ついたなら、傷の半分は送り出した虎次郎がつけたものだ。最後までフォローする責任があるしそうさせてほしい。そんなことを言ったら薫はきっと、要らないと突っぱねるだろうけど。
 薫が殴られて転倒するのを見て、全身の血の気がさっと引いた感覚を今でも覚えている。
 真正面から挑んでいった薫に取り合おうとしないままスケートを降りて勝った愛抱夢への苛立ちと、それから。
 嫌だ。死ぬな。
 俺の人生にお前がいないのは嫌だ。

 クローズして他のスタッフも帰したあとの店内に、カランとドアベルが響いて客の来訪を告げる。薫か、と思いながらホールへ出ると予想通りの姿があった。
 あの怪我から二ヶ月。薫は生来の回復力もあって、ほとんどもとの生活に戻っていた。さすがにスケートはまだできないが、歩行や車の運転などの日常の動作ならば問題なく、痛ましかった頭や腕の包帯や、足のギプスはとっくにない。
 今も見慣れた着物を自分で着付けて髪を結って──ただしそれとは別のところにいつもと違う部分があった。
 普段は手ぶらで来るところを、今夜の薫は荷物を持っていたのだ。物珍しさに虎次郎が丸くすると薫はあからさまに口を歪め、荷物をカウンターへ置く。
 どん、と重たい音がした。中は見えないがなにが入っているのかはわかる。縦に細長い、上品なグレーのペーパーバッグ。
「やる」
「いいのか?」
「今度はお前が持ってこいと言っていただろう」
 薫は仏頂面でそう言っていつもの席に着いた。
 言われてみればそんなことも言った。薫がひどい怪我を負った直後、あろうことか入院先の病院を抜け出してここへ来たときに虎次郎がぼやいたのを薫は覚えていたのだ。本当に持ってくることを期待したわけでも強要したわけでもなく、虎次郎にとっては普段の軽口のひとつにすぎなかったから、いざ目の前に出されるとどうしたものかと受け止めあぐねてしまう。
「まあ、くれるって言うならもらうけど」
 言いながら中身を取り出す。木箱の蓋を開けると細身のワインボトルが寝かされていた。ボトルはひんやりと冷えていて、薫が家を出る直前まで冷やしていたことがわかる。
 そのラベルに目を落として虎次郎は思わずもう一度訊いた。
「……本当にいいのか?」
 店に置いたとしても一年に一度出るかどうかというような銘柄だった。あのときのラフィットが何本買えるか。
「構わん。貰い物だ」
「なんだ、そういうことか」
「おい、言っておくがこれは俺の功績だからな。この間の副賞がカタログギフトだったんだ」
「ああ、怪我を口実に授賞式を欠席できたって言ってたやつか」
 そういうことならと虎次郎は木箱からボトルをそっと取り上げて、ワインセラーへ収めた。代わりに薫の持ってきたものよりだいぶカジュアルなほうを持ち出してふたつのグラスに注いでゆく。
「今日ほとんど食材出切っちまったから食うもんねえぞ」
「チーズ」
「おい」
「ストックがあるだろう」
 薫はグラスに手をつけずに虎次郎を見上げた。つまみが出てくるまで飲まないぞと示す姿勢に虎次郎は短い溜息をひとつ残して厨房へ入る。下ごしらえしたものは営業中にほぼ出尽くしたから、大きな業務用冷蔵庫を見回してもすぐ出せるものはカルパッチョだけだった。まずはそれを涼しげなガラスのうつわに移して、次に薫所望のチーズをパントリーから持ち出す。イタリアから帰国するときの土産にして薫に食べさせたチーズは店のメニューでもチーズの盛り合わせの一部を彩っていて、常連客からも好評だった。定期的にまとめて買いつけるからパントリーの一角は常にこのチーズで埋まっている。
 チーズを乗せたネイビーの皿と、カルパッチョのうつわをカウンターに並べてやると、薫は満足げに目を細めた。チーズを持ってこさせたくせに、薫のフォークが真っ先に刺したのはスモークサーモンのほうだった。
 虎次郎も隣に座ってチーズをつまむ。
「仕事はもう大丈夫なのか?」
「ん? ああ……立って使うような大筆はまだだがそれ以外はもう普段通りだ。むしろ休んでいたあいだ止めていた仕事が動き出したから前より忙しい」
「そうか」
 よかった、と心の底から思う。
 あのときの怪我で体や脳に後遺症が残る可能性だってあった。薫が意識を取り戻して医者の判断が下るまで、ずっとそんなことばかり、あらゆる悪い可能性について考え続けていた。薫は虎次郎のそんな気も知らないで、治って当然という顔をしていたが。
「あと一ヶ月以内には復帰する。スケートも」
「スケートって、大丈夫なのかよ」
「俺が大丈夫と言ったら大丈夫だ」
 薫は平然と言い放って、今度はチーズを持ち上げた。澄ました横顔をしているが、好物を口にしたときに目元がわずかに和らぐのは昔から変わらない。
「復帰戦はお前にしてやるからな。なにを賭けるか考えておけ」
「言うじゃねえか。いいのか? いま筋力落ちてんだろ。ただでさえヒョロいのに」
「俺のスケートはお前みたいに力頼みじゃない。カーラが今の体格に一番適切な滑りを算出してくれる」
「はいはい、そうかよ」
 薫が早々にグラスを空にしたのを見て、虎次郎はカウンターに置いていたワインボトルに手を伸ばす。それを薫が、おい、と制止した。
「そろそろ冷えただろう」
「なにが?」
「さっき渡したワイン」
「え、あれ今飲むのかよ」
「俺が持ってきたんだからいつ飲もうと俺の自由だ」
「もったいねえ。記念日用じゃねえのかああいうのは」
「うるさい。つべこべ言わずに持ってこい」
 はいはいと聞き流しつつワインセラーから先程のボトルを回収し、グラスも新しいものをふたつ出した。コルクを抜いてグラスへ注げばそれだけで明らかに普段の飲み慣れたものとは違う香りが立って、嗅覚を刺激する。
「うわ」
 虎次郎はグラスを持ち上げて静かに揺らした。透き通る淡い白色の水面に浮いたさざなみから、グラスの中に収まりきらない香りが溢れ出してくる。
 そっと舐めただけで思わず口角が上がってしまう。隣を見れば薫も同じだった。
「たまんねえな、これ」
「そうだろう」
「なんでお前が偉そうなんだよ。あー、なんか合うやつ作るか? 時間かかるし材料もねえけど」
「必要ない」
 薫はグラスを口元に寄せて目を伏せる。長い睫毛の下、金色の瞳が目でワインを味わっていた。
「これだけで十分だ」
「……ま、それもそうか」
 これだけでと言いながら薫はまたチーズに手を伸ばした。袂がカウンターに引っかかって手首が露わになる。ゆっくりと噛んで喉を通し、チーズの余韻の残る口の中にワインを招き入れると、目尻がまた、ほんの少し下がった。
 もったいないと思ってもグラスを傾ける手は止まらない。あっという間に空になってしまった虎次郎のグラスを見て、今度は薫がボトルを取り上げた。
「なんだよ、珍しいな」
「悪いか」
「悪かねえけど、ちょっと気色悪い」
「……やっぱり水でいいか」
「嘘。入れて、薫」
 カウンターの上でグラスを滑らせて薫のほうへ差し出すと、薫はそれ以上の小言は言わずにボトルを傾けた。とぷとぷと液体が満ちてゆくのをふたりともなんとなく黙って見守る。互いに今夜はあまり喧嘩をする気分ではないらしい、と無言の中で察知した。
「……いろいろと面倒をかけたから、まあ……サービスみたいなものだ」
 サービスって。よりにもよって薫から、およそ自分に向けられるはずのない言葉に虎次郎は視線をグラスから薫の横顔へ移した。
「ワインを注ぐのが?」
 これがサービスになるのなら、虎次郎は薫にサービスしすぎてとっくに干からびている。
 薫はワインを注ぎ終え、コルクで栓をしながら、そうだ、と言った。
「だってお前、俺のこと好きだろう」
 あまりにも当たり前のように言うので虎次郎はぽかんと口を開けたまま、言葉の意味を理解するまで薫の顔を見ていることしかできなかった。
 薫はボトルをカウンターに置いてから姿勢を元の位置へ戻した。まっすぐに背筋を伸ばしたまま顔を虎次郎へ向けて、器用に眉を寄せる。
「……なんだその顔は」
 重ねて訊かれても答える余裕はなかった。
 薫の真意は測りかねるが、好きかそうでないかと訊かれたら、答えはひとつしかない。
「好きだよ」
「好きって」
 白い指先がグラスの脚をそっと持ち上げてかすかに揺らす。入っているのは虎次郎のグラスと同じワインのはずなのに、薫の手の中にあるそれはやけに魅力的に見えた。
「その好きって、どの好きなんだ」
 薫は持っていたグラスに口をつけないままカウンターに戻した。こつんと小さく軽やかな音が鳴る。虎次郎。薄い唇が呼んだ。
「……それで、お前は、俺とどうなりたいんだ」
「どれでも」
 薫の射抜くような瞳が向けられても、不思議と心はひどく凪いでいる。
「なんでもいいよ」
 そう返すと薫は眉をひそめた。表情を歪めても綺麗な男だと、虎次郎は意識のどこか遠くのほうで思う。
「薫がいるならなんでもいい」
「なにもしないのか」
「なにを?」
 聞き返せば答えの代わりに長い長い溜息をつかれた。
 薫は目を閉じて、ぎゅっと瞑る。
「お前、本当に……」
「何?」
「意気地なしのゴリラめ」
「おい」
「今セックスしたいと言えば考えてやらないこともないのに」
「…………酔ってるだろ」
「ほどほどだ。そんなにじゃない」
 だからいいんだと言わんばかりに薫はグラスを持ち上げて残っていたワインを飲み干した。喉仏がこくりこくりと隆起して、それから、さっきよりも据わった目が虎次郎を睨む。
「強引が信条なんじゃなかったのか」
「そうだよ」
「なら、」
「強引に、手を出さないほうを選んでるんだ」
 なんだそれは、と薫は露骨に呆れ顔を見せる。
 虎次郎は薫が注いだグラスを手元に引き寄せて一口飲んだ。喉から内臓まで、すっと急激に冷やされていくのがわかって、自分の体温が上がっていたことを知った。
「なに、それとも抱かれたかった?」
「調子に乗るな脳筋」
 薫がカウンターの下で器用に脚を横へ払って虎次郎のすねを蹴った。本気ではないが、あざができていそうな程度には痛い。
「お前がそういうことを要らないならそれでいい」
「要るとか要らないっていうか、薫からそういう発想が出てきたのが驚きっていうか」
「いま気分がいいから、相手してやってもいいと思っただけだ」
「どうなってんだよお前の気分は……」
 薫はフンと鼻先で笑う。
「深い意味はない。酒はうまいし、飯もうまいし……、なんだその顔」
「いや……お前が俺の料理を褒めるなんて、明日は雪か?」
 これまで数えきれないほど料理を作って食べさせてきて、この言葉を引き出せたことはいったい何度あっただろうか。今日出したのは料理といっても三日三晩煮込むような手間のかかったものではなくカルパッチョだが、もはやそういう問題ではない。
「俺がわざわざまずいものを食いに来てると思ってたのか」
「そうだけど。態度で示されるのと言葉で言われるのは別だろ」
「うまいって言えと言ったのはお前だろうが」
「はぁ? いつだよ」
「高二の秋」
 忘れたのかとでも言いたげな目が虎次郎を見るが、そんな過去の発言を一言一句覚えているわけがない。高二の秋といえば、愛抱夢が渡米して、ふさぎこんだ薫がしばらく虎次郎の部屋に入り浸って、虎次郎が料理の道へ進むことを決めた、あのころだ。
 虚をつかれて反応しそびれた虎次郎を薫は愉快そうに眺めている。カウンターに片肘をのせて、頬杖をついた。
「もうひとつ教えてやろうか」
「うん?」
「ピアスはカーラを作り始めたときに捨てたんだ。もう要らないと思って」
 それもまたいつの話題だと思ったが、これは虎次郎も覚えていた。イタリアから帰国した直後、今の装いの薫にピアスはどうしたのかと聞いたら、捨てたとだけ返ってきた。なんとなく、詳細は話したくないのだろうとは感じていたことだ。
 薫は視線をカウンターに落とした。ほとんど食べてしまったカルパッチョとチーズの皿を眺めて、ぽつり、言葉を続ける。
「お前も、いつ帰ってくるのかわからなかったしな。帰ってきたところでどうせまたどこかへ行くのだろうと思っていたから、もう穴はふさいでしまおうと」
 虎次郎は背中を椅子の背もたれにだらりと預け、頭も思い切り後ろへ倒した。天井の照明が眩しくて目を閉じる。
 なぜ今突然、今更そんな話を──という疑問の答えはもう聞いた。薫の気分がいいからだ。そんなことがあるか? 相手が他の人間だったら一から十まで問い詰めるところだが、いま隣にいるのは他でもない桜屋敷薫なのだった。
 だから、つまり、大学生の薫はカーラを作るときに、引き換えに虎次郎の開けたピアスホールをふさいでしまったのだ。ピアスをつけていようと外していようと、薫専用AIの開発にはなんら影響しないはずなのに。
「……薫」
「なんだ」
「やっぱキスしていい?」
「手を出さないんじゃなかったのか」
「一回だけ」
 顔を戻して体ごと横へ向き、薫の顔をじっと見つめる。
 薫はなにも言わなかった。それが答えだった。虎次郎が手を伸ばし頬に触れてもそのままでいる。普段こんなことをしようものならとっくに扇子ではたかれているところだ。触れてから薫が眼鏡をかけていることに思い至ったが、かけたままでもなんとでもなるから気にしないことにした。
 顔を近づけても薫が動かないので、虎次郎のほうが顔を斜めに傾けた。眼鏡の奥の切れ長の瞳は開かれたまままっすぐ虎次郎を見つめている。こんなに長いあいだ、親よりも多くの時間を共有しているのに、キスするときの顔を見るのは初めてだ。
 重ねるだけの、子供みたいなキスをして、それから、
「……目閉じろよ」
 唇を触れ合わせたまま虎次郎が言うと、薫はおとなしく目を閉じた。薫が文句も言わず虎次郎の言葉に従うなんて、明日はやはりこの沖縄に雪が降るのかもしれない。
 虎次郎が、閉じた唇を開かせるようにして舌先を差し込む。噛まれるかもしれないなと思っていたが薫は虎次郎の舌を噛む代わりに、ん、と鼻にかかった声をこぼした。
 それに気をよくしてもっと奥まで舌を伸ばす。薫がぴくりと肩を跳ねさせて後ろへ引こうとしたのを掴んで止め、腕を後ろへ回して後頭部を支えた。逃げそうになっている薫の舌を絡めて引き留めると薫も同じように応じて、今しているのがキスなのかいつもの喧嘩なのかわからなくなってくる。
 舌は、歯は、頬の裏は、薫の持ち込んだ白ワインの味がした。
 薫が瞼を薄く開いて抗議の目を向ける。長いと訴えられているのはわかったが、ずっと触れたままだから一回は一回だ。間違ってはいない。
 口じゅうを味わって、最後に舌を吸ってから唇を離すと、薫は唾液でべたべたに濡れている口元を手の甲で乱暴に拭って目を吊り上げた。
「しつこい! お前女にもこんななのか」
「それは時と場合によるけど」
 若干息が上がっている薫を見ながら、虎次郎はうーんと首をかしげた。
「やっぱ別にどっちでもいいな」
「なんだと?」
「怒るなって。良くなかったってわけじゃない。ただ、」
 思い出すのは頬を切る風、ウィールの摩擦が奏でる音、足元から伝わって全身へめぐる振動。すぐ隣で、まったく違うスタイルで滑って挑発する姿。
「お前とはスケートしてるときのほうが興奮する」
「…………一理ある」
「復帰戦楽しみにしてるぜ?」
「上等だ。負けたあとの言い訳でも考えておけ」
「ハ、言い訳が必要になるのはお前のほうだろ」
 虎次郎は薫のグラスにワインを注ぎ足してから、自分のぶんに手をつけた。

 日中のレストランに薫が来た。日中といってもランチの営業中ではなく、虎次郎にとってはそのあとのディナータイムまでの短い休憩時間だが。
 珍しく──というほど頻度が低いわけではないが、やってくるのは閉店後がほとんどだし、接待ランチでもSの子供たちを連れてくるのでもなく、ひとりで昼間に来ることはそう多くはない。しかも着物ではなく袴姿で、スケートボードを持っている。
 虎次郎の観察する視線を受けて、薫は訊かれる前に状況を説明した。
「ミヤがトリックを教えろと言うから」
「ああ、なるほど。それならミヤも連れてきてもよかったのに」
「これから塾があるんだと」
「はー。大変だな、学生」
 言うと薫が薄く笑う。学生時代の自分たちにはそんな真面目さはなかった。近ごろ関わるようになった子供たちも、Sにいる時点でみなアウトローではあるのだが。
 コンセント、と薫が言う。カーラを充電させろという意味だ。
「電気代払えよな」
「俺が毎年ここの経費を見てやって浮いてるぶんでお釣りがくるぞ」
「はいはい、そりゃどうも」
 厨房の隅に置きっぱなしになっているカーラ充電用のケーブルを渡すと、薫はしゃがみこんでいそいそとカーラの充電を始めた。そのついでにスケートの表面を撫でる感情は虎次郎には相変わらず理解できないが、この偏愛具合にもいい加減慣れてしまった。
「で? なんの用だ」
「喉が渇いた」
「自販機に行けよ」
「レモンソーダ。──ん、なんだ、」
 薫はバングルに目線を落とし、次にスマートフォンを取り出した。バングルのカーラはスマートフォンと連携していて、通知があれば光と振動で知らせるようになっている。
 スマートフォンの表示を確認した薫はチッと舌打ちをして店の外へ出ていった。仕事の電話か、と虎次郎は触れずにおく。いちいち数えてはいないがたぶん二週間は会っていない。Sにも来ておらず仕事が忙しいのだろうと踏んでいたのは正解だったようだ。
「カーラ、あいつ忙しいのか?」
 飲料の冷蔵庫を開け、ご所望のレモンソーダの瓶を取り出しながら戯れに訊いた。
 ひとりごとだ。カーラは薫にだけ寄り添う薫の分身で、薫の声や意志にしか反応しない。
──そのはずだった。
『マスターの業務量は前年比十三パーセント増。増えてはいますが対応可能な範囲内です』
「え?」
 虎次郎は背後の床を振り返る。裏返されてコンセントにつながれたカーラは、いつも通り現在の充電容量を表示しながら光っている。
「カーラ?」
『はい』
「なんで答えるんだ?」
 カーラは基本的に薫にしか操作できないはずだ。ミヤやシャドウがカーラの保有データを覗き見した事件のあと、薫はセキュリティを強化していた。彼らに見られたデータは幸いそこまで支障のあるものではなかったようだが、業務上の機密情報や第三者の個人情報も入っていることを考えると真っ当な対応だった。
 俺の声紋で、セーフモードの場合は……などと薫から説明された覚えはあるが、虎次郎はその技術的構造にさして興味がないので詳細は覚えていない。ただ虎次郎を含む薫以外の人間には操作できないようになっているはずだった。
 カーラが素直に種明かしをする。
『ジョーの声紋が登録されています』
「……なんかさらっと怖いこと言われたような気がするんだけど……」
 カーラの言ったことはわかる。薫がいつの間にか虎次郎の声を録音して、その声紋をカーラに登録し、虎次郎が自分の声でカーラと対話できるように設定したということだ。
 だから今、薫がこの場にいなくても、虎次郎はカーラと話せている。
「……お前のマスターはなに考えてんだ?」
『他者の思考を断りなく第三者へ伝達することには倫理的問題があります』
「声紋を勝手に登録する倫理はどうなってんだよ」
『登録を削除しますか?』
 虎次郎のぼやきに対し薫の意向に反する提案が返ってきて、虎次郎は目を丸くした。
 もしもここでイエスと返したらカーラは言う通りにするのだろうか。薫が登録したものを、カーラの一存で消すのだろうか。そうなったら薫はどんな反応をするのだろう。
「いや、いいよ。そのままで」
 虎次郎がカーラを操作できたところで困ることは別にない。薫の目の届かない場所で操作する予定もない。いま話しかけているのは、ちょっとイレギュラーなだけだ。
 薫の勝手な行動なんてそれこそ今に始まったことではなく、幼少期から数え上げればきりがない。ひとつひとつリストアップしていたら三日三晩過ぎてしまう。その内容に比べたら声紋登録なんてかわいらしいものだ。
「はぁ……まったく、急ぎの仕事など請けるものではないな」
 通話を終えた薫が悪態をつきながら店内へ戻ってきた。
「前もって必要だとわかっているのだから、その時点で依頼すべきだろうが」
「桜屋敷センセイならやってくれるって期待されてるんだろ」
 縦長のグラスに氷を入れてカウンターに置き、レモンソーダを注ぐ。しゅわしゅわと涼しげな音を鳴らすレモンソーダの前に、同じくらい涼しい顔をした薫が座った。
「当然だ」

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