ひかりあれ
「ご搭乗のみなさまへお知らせいたします。当機はまもなく、那覇空港へ着陸いたします。シートベルトをご着用のうえお待ちください」
アテンダントの女性の淡々としたアナウンスがアラームとなって、虎次郎を浅い眠りから呼び起こした。日常会話で必要なイタリア語は話せるようになったとはいえ、日本語を聞くとやはり安心する。エコノミークラスの狭い座席で、恰幅のいい背筋をぐっと伸ばした。
ローマのフィウミチーノ空港からまずはカタールのハマッド国際空港へ。深夜のトランジットの待ち時間を空港内を散策して過ごし、そこから成田へ。さらに国内線を乗り継いでようやく沖縄へ戻ってくるとそれだけで丸一日かかってしまう。
二年と半年の修行の中で二度の年末年始だけは帰省したから、このルートを辿るのは三度目だった。
飛行機を降りて大きなスーツケースを回収し、がらがらと引きながら出口へ向かう。残暑の地元は懐かしい香りがした。生温い空気もどこかのんびりとした光景も、虎次郎を育てたよく馴染むものだ。
二年半を過ごしたイタリアの陽気さや大らかさも虎次郎に合っていた。永住だってできそうだと思えるくらいには合っていたが、やはり沖縄には敵わないと帰ってきて思う。
長時間のフライトで疲れていることを忘れるくらいには足取りが軽い。
今日は薫が空港へ迎えに来てくれることになっていた。
そんなことはこれまでの帰省ではなかったのだが、修行を終えて帰ると伝えたら、フライトが決まったら教えろ、と、渡伊したときと同じように要求されたのだ。連絡もあまり取らないままでいたから、虎次郎は返事が来たことにまず驚いた。
飛行機が予定通りに飛んでよかった。何時間も遅れたりしたらどれだけ文句を言われるかわからない。
成田を出る前に連絡しておいた通りの時刻に着いたから、薫ももう来ているだろう。会ったらなにを言われるだろうと想像して頬が緩む。離れているあいだに虎次郎はずいぶんと体を鍛えて、専門学校にいたころよりもふたまわりほど体格がよくなった。もともと筋肉がつきやすい体だったらしいことと、修行中にとにかくいろいろな店の味を知ろうと食べる機会が多かったこと、それから修行先のレストランにトレーニングが趣味の同僚がいて、聞いてもいないのになぜかアドバイスをくれたこと、虎次郎が律儀にそれを聞いたこと。全部が積み重なった結果、エコノミークラスが窮屈で仕方ない体になった。最後の一点だけは誤算だった。
薫はどうせ今もろくな食生活をしていないのだろう。覚えた料理を早く食べさせたい。
到着口である那覇空港の一階は同じ便の乗客やそれを出迎えるひと、観光客を待ち構えるツアーガイドでごった返している。つまりいつもの見慣れた光景だ。その人混みの先、少し離れたところにピンク色の頭が覗いて、虎次郎はまっすぐそちらへ足を向ける。
「薫!」
大きな体躯とスーツケースを周囲にぶつけてしまわないよう気をつけながら、目立つ頭に早足で近づいてゆく。薫のほうも呼ばれたことでスマートフォンに向けていた顔を上げた。
正面から視線が合うのはいつ以来だろうか。
「遅い、こじろ……」
「……薫?」
間違いなく薫だ。それは絶対だ。見間違えるはずがない。
だが。
「薫……どうしたんだその格好」
虎次郎は一瞬で脳をフル稼働させて記憶の中を必死に掘り返した。霞がかって輪郭のはっきりしない幼稚園のころから、ランドセルを背負っていた小学校、学ランを着ていた中学校、ピアスの数がどんどん増えていった高校、そして大学。
どの記憶にも今の薫の姿はない。今の、着物を着て髪を肩口で緩くまとめている薫の姿は。
眼鏡をかけていることに懐かしさを覚えるのは、高校のころ、コンタクトを入れていない日の授業中にだけ眼鏡をかけていたからだ。普段はどこへ出しても恥ずかしくないヤンキーなのに眼鏡をかけていると隠しきれない利巧さが滲み出て、クラスの女子たちがこそこそと視線を向けていたのを覚えている。
目を丸くする虎次郎に相対して、薫は逆に思い切り目を細めた。藍色の着物に身を包んで腕を組み、眉間にこれでもかとしわを寄せる。態度が悪いのに背筋はすっと伸びているところは前と変わらない。
「お前こそなんだその邪魔な体は。レストランから動物園に転職したのか?」
「してねえよ! ひでーな! 格好いいだろうが」
ほら、と逞しく育った胸を張ってみせる。薫はその胸を凝視したあと、目線を虎次郎の顔へ移し、たっぷりと時間をかけて長い溜息をついた。
「…………ゴリラ……」
「ああ!? お前こそなんだよその眼鏡は!」
「視力矯正の医療器具だが?」
「その着物だって……今日なんかあったのか?」
着物を着なければいけない行事など虎次郎は思いつかなかったが、もしそうだとしたら説明がつく。あのころに比べると別人のように、身なりをおとなしく整える理由が、なにか。
虎次郎の問いに薫は、ふぅ、と呆れた声で返した。否定の意だ。
「なにも知らない虎次郎くんにこれをやろう」
薫はどこからか黒い革の名刺入れを取り出すと、中から引き抜いた名刺を虎次郎へ押しつけた。虎次郎は考えるより先に受け取ってから目線を落とす。
ごく一般的なサイズの、真っ白いカード。そこに縦に書かれた文字を見て虎次郎は目をみはった。
──AI書道家 桜屋敷薫。
ひと目で流麗と感じる、それでいて素人にもわかる可読性をもった筆文字でそう書かれていた。その九文字の他には左下にQRコードがぽつんと配置されているだけで、これを読み込むとなにが表示されるのだろうとどこか遠い風景を眺めているような気持ちで思う。
「なんだ、これ?」
「名刺だが」
「それは見ればわかるけど」
「肩書きに見合った格好をしているだけだ」
薫はそんなこともわからないのかと言外に含ませた。
肩書きの後半は虎次郎にもわかる。昔から、薫の字は綺麗だ。字を書いたり教えたりすることを仕事にしたというなら薫に合っていると思う。大学では工学部にいたはずだからそこからは縁遠いが、書道家として着物を身に纏っているのはイメージとして筋が通っている。
だがこの肩書きの前半はなんだ? 訊こうとして、しかし薫が歩き出すほうが早かった。
「もう行くぞ。長引くと駐車料金が加算になる」
「加算って数百円だろ」
「ならお前が払え」
「日本円持ってねえ」
「……お前本当に馬鹿なんだな?」
「仕方ねえだろ、あっちで一緒に働いてた奴がさ、いろんな国のコイン集めるのが好きなんだって言うから札とまとめてあげちまった」
「それは人間の言葉で詐欺と言うんだ」
軽口を叩きながら空港ビルを出る。この土地の空気に包まれて、隣には薫がいて、ああ本当に帰ってきたのだと虎次郎は実感した。帰るべき場所に帰ってきた、そういう思いだ。
道路を渡って反対側の駐車場へ行く。奥まった位置に停められている黒い車の少し手前まで近づくと、カシャッと解錠する音が耳に届いた。
つやつやの黒い車は、虎次郎の知っている桜屋敷家の車とは違うものだった。
「これ、お前の?」
薫は、ああ、となんでもなさそうに頷いて、運転席のドアを開ける。虎次郎がスーツケースをトランクに預けてから助手席へ乗り込むと、薫は草履を脱いで革靴に履き替えているところだった。
「あー、そうか危ねえから」
「こんなことで減点食らいたくないからな」
「めんどくせえんだな、着物って」
「そうでもない」
薫は短く、はっきりと否定した。
それで虎次郎はなるほど気に入っているようだと理解する。着るのも脱ぐのも洗濯も、洋服のほうがはるかに楽だろうに、それを苦と感じない程度ではあるらしい。
実際のところ虎次郎から見ても薫は着物がよく似合っていた。薫のトレードマークである淡いピンク色の長い髪も不思議としっくり馴染んで、もしも初めて見る桜屋敷薫がこの姿だったなら、高校生のときの出で立ちはとてもじゃないが想像がつかないだろう。
虎次郎としてはあの羽目を外していたころにも思い入れがあるから、それをすっかり脱ぎ捨ててしまったかのような今の薫をどう受け止めるべきか、はかりかねている部分もあった。
薫がエンジンをかける。低い音が大きく唸って、アクセルが踏まれるのを待ち構えている。
「で、家でいいのか? 寄るところは?」
「いや、別にないからまっすぐ帰れればそれで」
「よし。カーラ、道路状況の確認を」
『OKマスター』
カーステレオから突然女性の声が聞こえてきた。カーナビの音声とは明らかに違う様子に虎次郎が、え? と口を挟むよりも早く、その声が言葉を続ける。
『国際通りを中心にやや混雑しています。明治橋を通るルートは推奨されません』
「では迂回しよう」
『了解しました。引き続き道路状況を受信します』
やっていることはおおむねカーナビの機能だ。だが違う、今この車はカーナビを起動していない。それなのに道案内の音声が流れてきたのだ。
「なんだ? 今の」
「カーラだ」
「カーラ」
女の名前だ。イタリア語か英語かは知らないが、いずれにせよ女の名前だ。
「最新のカーナビかなにかか?」
虎次郎が知らないだけで、今の日本にはそういうカーナビが存在しているのかもしれない。画面を起動しなくてもナビをして、指示してきた相手をマスターと呼ぶカーナビが。
「違う」
薫は端的に否定した。そして続けた。
「俺が作った」
「……はぁ?」
「AIだ。俺のサポートをする」
「えーと……」
「今はまだ出力を車からやっているだけだが、ゆくゆくは車体にも組み込むつもりだ」
「……悪い、なに言ってんだかよくわかんねえ」
「理解できるとは思ってないから気にするな」
「なんだと?」
いつもなら手か足が出るところだが、運転している最中にはさすがにできない。それに虎次郎はだいぶ体格が変わったから、今の腕で本気を出して叩きでもしたら怪我をさせてしまいそうだ。
「それが仕事で使うやつなのか?」
虎次郎はさっき受け取った薫の名刺をジーンズのポケットから取り出した。肩書きのうち謎だったほうの前半部分は、今の音声が関連しているとみるのが自然だろう。
「仕事でも使うしプライベートでも一緒だ。……なに見てる」
「このコードでなにが見れるのかなーと」
名刺の片隅、QRコードにスマートフォンのカメラを向けるとすぐにURLが読み取られてブラウザが開いた。アドレスバーにkaoru-sakurayashikiの文字が見える。
白い画面に墨の筆跡がアニメーションで描かれて薫の名前が浮かび上がった。背景には桜の花びらが舞っている。画面をスクロールすると作例へのリンクや略歴があり、最後に問い合わせフォーム。このウェブサイト自体の情報量はそこまで多くない。
「ここから仕事来んの?」
「そこから来るのが半分、これまでの取引先から紹介されるのが半分だな」
「へえ……儲かる?」
「まだこれからだ。今は海外の仕事のほうが多い」
『フランスの展覧会への出展作品の提出期限は一ヶ月後です』
「ああ、そうだった……ありがとう、カーラ」
急に会話に割り込んできたカーラにも薫は動じない。虎次郎はそこに誰かがいるわけではないとわかっていてもついカーステレオのほうを見てしまう。
「リマインダーか? あの、スマホに入ってるやつみたいな?」
「あれと一緒にするな」
薫はむっとして視線を一瞬虎次郎へ投げた。顔は前を向いたまま、切れ長の目が虎次郎をとらえる。
薫の運転は静かだった。空港への行き来の多い夕方は、一番混雑するルートを避けてもそれなりに混む。信号前の長い列に巻き込まれて発進と停車をゆるく繰り返す車の振動はいっそ心地好いほどだった。
「なんか、ちゃんとしてんだな」
ぽつりと漏らすと薫はどういう意味だとまた不機嫌そうに言った。
そういえば大学卒業後のことを在学中に聞かなかったと、今になって思い至る。最近では虎次郎よりも虎次郎の母親のほうが詳しくて、年末に帰省したときには「薫ちゃん、院への進学を勧められてるんだって」などと訊いてもいないのに聞かされていたが、この様子だと進学はせずに仕事を始めたらしい。
あの薫が、仕事。
あの、負けず嫌いで、朝も夜もスケートで滑って、友の出立に傷ついて、夜うまく眠れなくて、何度も虎次郎の料理を食べてはあれこれと文句をつけていた薫が。
高校のときにも筆耕のアルバイトはしていたが、あれは習っていた書道の師範から紹介されたものだった。それが今では海外に取引先がいると言う。自分で作ったAIにスケジュールまで管理させて。
運転する横顔をそっと盗み見る。相変わらずぴんと伸びた背筋。顎を引いて前を見て、ハンドルに軽く乗せた手が細かく動いて車の進行を操っている。
「……なあ、ピアスはどうしたんだよ」
虎次郎は再会した瞬間から気になっていたことをようやく訊いた。
髪型も服装も変えて、眼鏡をかけて、薫は雰囲気ががらりと変わった。左耳が覗いているのは以前と変わらないが、かつてそこを銀色に彩っていた装飾はきれいさっぱりなくなっている。口元にあったものも。
「外した」
答える薫の声に感慨はない。
それが今朝やゆうべの話ではないことは見ればわかった。耳たぶにいくつも並んでいたはずのピアスホールはほとんどふさがって、目を凝らせばわかる程度、わずかにくぼんでいるだけ。
「いつ?」
「さあな。いちいち覚えてない」
「もうしねえの?」
「捨てたからな」
薫はハンドルを右に切った。重力がかかって体がわずかに左に傾く。
ふさがってしまったピアスホールのうちのいくつかは虎次郎が開けたものだ。それがふさがれていることに文句を言いたい気持ちになって、けれどなんと言えばいいかわからず、虎次郎はそのまま黙って右側を眺めていた。
だんだんと日が傾いて、空がオレンジ色に染まってゆく。
見える景色のなにもかもに懐かしさを覚える。少し前の帰省のときはこんなふうには感じなかったのに。
そのときと今と違うことがあるとすれば、それは。
「……な、飯食いに来いよ」
存外切実な声が出た。それは薫にも伝わって、横顔が少し傾いて虎次郎のほうを向く。ふたつの琥珀が瞬いた。
「修行の成果見せてやるからさ」
「お前が食わせたいだけだろうが。……カーラ、直近で夕方から空いている日は」
『七日後です』
「だそうだ」
ここには虎次郎と薫のふたりしかいないのに、薫が虎次郎ではない第三者──と呼ぶのが正しいのかどうかも怪しい──に話しかけるのも、そこから返事が飛んでくるのもまったく慣れられそうにない。ただ、カーラが薫を丁寧にアシストしていることだけはこの短い時間でも伝わってきた。この先薫に関わるたびにカーラもついてくるのだろうと、わざわざ確認しなくてもわかる。
「一週間後な。食いたいもん考えとけよ」
「別に、なんでもいい」
「なんでもいいが一番困るっておばさんに言われなかったのか?」
「うるさいゴリラだな。じゃあ……そうだな、」
薫の口の端がきゅっと上を向く。生意気という言葉を体現したような笑い方は、虎次郎の心の奥のほうを細い針でそっと刺した。
「お前の得意料理で」
「言ったな? 見てろ、胃袋ガチガチに掴んでやるから」
「できるものならやってみろ」
車は混雑していた大通りをようやく抜ける。薫はアクセルをぐっと踏み込んだ。
一週間後の夜、薫は夕方まで入っていた仕事をスケジュール通りに片づけて南城家のチャイムを鳴らした。虎次郎がいなければ来ることもないから、中へ入るのも二年半ぶりだ。
「おう。待ってたぜ」
「お邪魔します。……他の家族は?」
「いねえから気にすんな」
幼いころから互いに入り浸っていたからここは薫にとっても第二の家のようなものだった。当然家の中もよく知っているはずなのにどこか別の場所のように感じるのは、虎次郎が大きくなりすぎたせいだ。薫も平均身長よりは高いはずだが、虎次郎はさらに背が高く厚みもある。この体に日本の住宅は狭すぎる。
「やはり動物園に引っ越したほうがいいんじゃないのか?」
「喧嘩売ってんのか? まあでも、家は出ようと思ってるよ」
ダイニングに通されて、薫はテーブルのいつもの席についた。高校生のときにお好み焼きやカルボナーラを作らせて、大学生のときにあらゆるジャンルの料理の試食をし、イタリア行きを聞かされた、キッチンに一番近い席。
「もう用意していいよな?」
「お前のために腹を空かせてきたんだ、ありがたく思え」
「そりゃどうも」
虎次郎は片手にワインボトル、もう一方にワイングラスを二脚まとめて持ってくると、薫の前とその向かいにグラスを置いてワインを注いだ。大きな手がボトルの底を包み込んで軽々と注いでゆくのを見て店みたいだと思ってから、そういえばいつか店をやるとか言っていたなと思い出す。
酒なんて互いにとっくに飲み慣れていたが、このテーブルでの食事にアルコールが出てくるのは初めてだ。
グラスの底のほうを控えめに満たすプラチナの液体を見つめているあいだに虎次郎は一度キッチンに引っ込み、すぐに戻ってきた。
「ほい。まずはアンティパストな。ブォナペティート」
「イタリアかぶれが」
置かれたのは白い正方形の皿だ。チーズ、生ハム、カルパッチョの盛り合わせ。同じ皿を虎次郎はもう一枚持ってきて薫の正面に座る。
「そのチーズは向こうから持ってきたやつ。おすすめ」
「生ハムは?」
「肉は機内持ち込み禁止」
おすすめと言われたチーズはこれまでに食べたことのない深みがあって、おそろしいほど白ワインに合っていた。薫が目を輝かせたのを虎次郎は見逃さず、上機嫌でワインを注ぎ足す。
「な? うまいだろ」
「お前こんなものを毎日食ってたのか……」
「さすがに毎日じゃねえけど、まあだいたい毎日な」
虎次郎は生ハムを一枚つまんだだけで立ち上がりキッチンへ行った。ガスコンロがボッと点火の音を鳴らして、その横でなにかをごそごそと開けたり出したりしている。せわしない奴だと横目で見ながら薫はカルパッチョにフォークを伸ばした。
今作っているものができるまでは戻ってこないだろうと算段をつけ、時間をかけてアンティパストを口に運ぶ。食べ切ってもまだ虎次郎は次の皿を持ってこず、ついでにテーブルにはまだ中身のたっぷりあるワインボトルが置きっぱなしになっていたから、虎次郎の皿からもチーズを拝借した。
虎次郎は薫が三杯目のワインを飲み干したところで戻ってきた。自分のチーズが減っていることに気づいても機嫌のいいまま、今度は温かい皿を並べる。
カルボナーラだ。ひと目見ればそれはわかるが、高校生のときにここで同じように食べたものとは色も香りも違う。薫はフォークの先で細長いチーズを絡め取りながらパスタを巻きつけた。虎次郎はフォークに触れもせずに薫をじっと見つめている。
「どうだ?」
「……知らない味だ」
「それが本場のだよ。お前が一週間後っつったからそのあいだにグアンチャーレ作ったんだぜ。ペラペラのベーコンとは比べものにならないだろ」
「悪くはない」
「お前は昔っからそればっかだな」
虎次郎は大仰に呆れてから自分も料理を食べ始めた。卵とチーズと塩気のあるグアンチャーレの絡んだタリアテッレは、これも白ワインによく合う。
次のメニューは牛肉のタリアータ。こっちは赤な、と虎次郎が新しいボトルを出したから、薫も迷いなくグラスを空けていく。
気分が悪くなるような飲み方はしていないが、食べ終わるころにはほどよく酔いが回っていた。満腹でふわふわとして、むしろ気持ちいいくらい。
「お前、どうするんだ。これから」
最初に食べたチーズをまだあるだろと強引に出させてつまみながら、薫は話を振った。
「ん?」
「仕事。またどこか行くのか」
専門学校で資格を取って、イタリアで修行して、帰国して、それから。東京で就職するなどと言い出すかもしれないと、可能性としては考えていた。イタリアに比べたら東京なんて隣町みたいなものだ。
しかし虎次郎は薫の想定をあっさりと否定した。
「あー、いや、こっちで見つける。いくつか面接は取りつけてあるから、それが決まればってとこだな」
「……そうか」
そのとき胸に去来したものを、薫はうまく掴み損ねた。また離れていくのだろうと思っていたのが打ち消されて、感じたものがあったはずなのに、まるで中空を掴むように実体に触れられない。
虎次郎が薫のグラスにワインを注ぎながら言う。
「だからまた飯食いに来いよ。就職決まったら店教えるし、家出たら引っ越し先教えるし。どうせ今もろくなもん食ってねえんだろ」
「馬鹿にするな。カーラが……」
『ご用でしょうか』
薫の左手首から声が聞こえて、薫と虎次郎は同時にそこへ目を向けた。細身のバングルが、反応を催促するかのようにピンク色に点滅している。
「カーラ、すまない、今のは違う。用事はない」
『了解しました』
点滅していた光がふっと消えた。
「名前呼ばれると反応すんのか? それ」
「それって言うな。基本的には名前に反応するが……しかしそれだけじゃ今みたいなことになるから改良が要るな。判定をもっと細分化しないと」
「はー。大変だな、機械って」
「機械じゃない! ……大変でもない。そんなこと、全く」
薫はバングルの表面を指先でそっとなぞった。継ぎ目のないつるりとした感触が薫を落ち着かせる。
まるで本物の女の肌に触れてるみたいだ。虎次郎はそう感じて、なにを馬鹿なことをと頭を振りかぶった。
「カーラは俺の分身で、パートナーだ」
「……」
「お前にはわからない」
明確な事実として薫は断定した。
ひとに置いていかれることに、置いてゆくことに鈍感な奴が、四六時中そばにいてくれる存在の価値を薫と同じように感じ取れるはずがない。
虎次郎は睨まれて、後頭部の髪をがしがしとかき混ぜた。
「わかんねえよ、メカキチの考えてることなんか」
「フン、わからなくて結構だ。今に嫌というほどわからせてやるがな」
「はぁ? どういう意味だ」
薫は顎を上向けてフフンと得意げに笑ってみせる。
「いずれカーラをスケートに搭載する。車の自動運転の応用だ。適切な処理を実装できれば、コンマ一秒、角度一度単位で最も効率的なコース取りを計算できるようになる」
革命を起こすとでも言いたげな薫の言葉も、虎次郎にはうまく響かない。華奢なワイングラスの脚を指先でつまんだまま太い首を横へ曲げる。
「それって楽しいのか?」
「はぁ?」
「そんな細かいこと気にしないで、勢いで滑ったほうが楽しくねえか?」
薫は指先を額に当てた。目を閉じて、細く長い溜息をつく。
「ゴリラに数学の美しさは難しかったか」
「おいこら陰険眼鏡」
「料理にかまけてスケートの腕が鈍っていないだろうな?」
「上等だ、お前こそ引きこもって筆ばっか持ってんじゃねえか? ヒョロヒョロだもんな」
「お前が鍛えすぎなだけだ脳筋! 待ってろ、スケート持ってきてやる」
三本目のワインは途中で放置して、食器の片づけもそこそこに解散、愛用のボードを持ってスケートパークで再集合。多少のアルコールが入っているとはいえ技術や感覚はふたりとも以前と変わらず、勝負はイーブンに終わった。
「虎次郎」
「なんだよ」
パークの周囲を囲むように等間隔の街灯。半分より少し膨れた月。少ない明かりの中に幼馴染のシルエットが浮かぶ。
「……帰ってきたんだな」
「そうだよ」
「そうか」
そうか、と薫はもう一度地面に声を落とす。それに形があったなら、転んだとしても手を伸ばして掴んでいただろう。そういう声だった。
二日後に虎次郎は市内のホテルのレストランに採用が決まり、その一週間後には一人暮らしする家を見つけた。
薫に届いた報告の短いメッセージに返信はしないまま、カーラに命じて虎次郎の新居の住所をマップ上で検索する。
その家は薫の小さな事務所兼住居からバイクで五分の距離にあった。
シフト制の勤務は生活のすべてが仕事のシフトに左右される。
虎次郎は専門学校に通っていたときも近所のレストランでアルバイトしていたが、シフトに入るのは平日の夕方から夜と、週末だけだった。
今は違う。朝のシフトであればモーニングを提供するためにまだ夜の明けきらないうちから家を出る。ディナーまで入る日は最後の客を送り出したあとに食器や調理器具を片づけて、大量のごみを捨て、調理場を清掃するところまで。帰るころには日付が変わっている。
虎次郎にとってこの生活はそれほど苦ではない。体力は体格に見合って他のひとよりあるほうだし、睡眠時間が多少削られたとしても、寝つきも目覚めもいい。なにより自分の作った料理を食べてくれるひとがいるのは朝でも夜でも関係なく嬉しい。
だから、ただ生活リズムが不規則であるという、それだけのことだった。
ひとが集まって働いている以上、さまざまな理由で急に人手不足になるのは仕方がない。ランチまでのシフトで入る予定だったはずの同僚が体調不良で来られなくなった、南城さん入れない? 朝の真っ白い光がカーテンの隙間から射し込むのを眺めながら、虎次郎はベッドで横になったままその電話を受けた。
ゆうべはラストまで入っていて、ディナー客の数も今日のぶんの仕込みもいつもより多くて、つまりいつものディナー勤務よりも帰宅が遅かった。今日は夕方からのシフトだから昼過ぎまで寝ていようと思っていたのに──とはもちろん口にせず、わかりました今から行きますと二つ返事で引き受けて電話を切る。
イタリアで朝から晩まで必死に学んでいたころに比べたらどうということはない。労働環境も共に働くスタッフも合っていて、いい職場に巡り会えてよかった、そう思っている。
とはいえ疲労がないわけでもなく、二日連続で深夜の帰路、夕方に軽くまかないを食べたとはいえさすがに物足りなくて、家の近くのコンビニに立ち寄った。時刻は一時を過ぎたところ、駐車場に虎次郎以外の車はなく、スタッフも客も少ない店内は静かだ。ラジオのような音声が流れているが、脳を素通りしていくから頭の中には残らない。
ビールとなにかつまめるものでも買って帰ろう、そう考えながら惣菜の棚へ近づくと、先客が立っていた。
めったに見かけることのない着物姿、すらりとした長身、桜色の髪。背中しか見えなくても、それが誰かなど明らかだ。
「薫?」
声をかけると薫はゆっくりと振り向いた。
「……なんだ」
顔を虎次郎へ向けて、眼鏡の奥の目を細める。中学のころ、まだコンタクトも眼鏡も作る前の薫はよくこんな目つきをしていた。今かけているその眼鏡も度が合ってないんじゃないのか。
薫が下げているかごに目を落とすと、コンビニでこんなに大量に買い物をすることがあるのかと驚くくらい、中は山積みになっていた。
水、炭酸水、栄養ドリンク、ゼリー飲料、ビール、カップラーメン、冷凍チャーハン、プリン、ポテトチップス。
そして今、弁当コーナーの前に立っている薫が手にしているのは、どこかの工場で作られてここまで運ばれ冷蔵棚に陳列されていた、プラスチックの容器に入った冷たいカルボナーラだった。
瞬間、虎次郎は真上から氷水をかぶせられたような気分になった。スケートで勢いをつけたまま踏み外して後頭部を打ったときの感覚にも似ている。言葉がうまく出てこなくて口をはくはくと動かすのを薫が胡乱げに見ていた。
「……あのなあ!」
「うるさいぞゴリラ」
覇気のない声が返ってくる。もともと虎次郎に比べると色白の薫の肌はいつもよりさらに血色が薄れ、眼鏡をかけているから目立たないが目元に隈も浮いていた。疲れているのだと、おそらく虎次郎でなくても気づける程度には疲れているようだった。仕事が忙しいのか、眠れていないのか、少なくともろくな食生活はしていないことはもうわかった。
「そんなの、俺が、」
言いたいことは山ほどあった。けれどここはコンビニの店内で、薫は面倒そうな顔をしていて、虎次郎とて長居したいわけではない。
「……ああもういいから今からうち来い。早く会計しろ」
これはなしだと薫の手から強引にカルボナーラを奪って棚へ戻す。薫は、おい、と隣で声を荒げたがそれきり、わざとらしく大きな溜息をつくとなにも言わずかごを持ってカウンターへ向かっていった。
買うものの量が多いからそのぶん会計にも時間がかかる。店員がひとつずつバーコードを読み込むのを待つ薫の、あんな様相でも綺麗に伸びた背筋を虎次郎は後ろから見た。
パスタだけではない。チャーハンだってプリンだって作ってやれるのに。これが食べたいとひとこと伝えてくれさえすればいつだって叶えてやるつもりでいるのに、薫は言わなかった。今夜もこうして虎次郎と鉢合わせなければあのカルボナーラを電子レンジで温めてプラスチックの容器に入ったまま食べていたのだろうと、想像するだけで喉がふさがれたような感覚に陥った。
「買ってきたぞ」
薫が両手に大きなビニール袋をさげて虎次郎のほうへ来た。似合わないなと思いながら片方を持つ。薫はなにも言わなかった。
「パスタが食いたいのか?」
「別に、たまたま目の前にあったから取っただけだ」
「じゃあもう少し消化のいいもんにしとけ。なにがいい? スープ? リゾット?」
「……リゾット」
「よし」
徒歩で来ていた薫が助手席に座る。このコンビニはふたりの家のちょうど中間にあって、むしろ今まで顔を合わせなかったことのほうが意外ですらあった。
すっかり眠りについた夜の街を車は静かに滑り出し、会話をする間もなくマンションに着いた。引っ越したことは伝えていても、実際に薫が来るのは初めてだ。
「疲れてるなら横になってろよ」
「疲れてない」
薫は口ではそう言ってリビングのソファに座り、それから上半身を横へ倒して目を閉じた。せめて眼鏡は外したほうがと口を出すのはなぜかはばかられて、虎次郎はキッチンへ入る。ついでに薫が買った冷蔵品や冷凍品を冷蔵庫へ放り込んだ。
オリーブオイルで米を炒め、トマト缶を加えて煮詰める。水を少しずつ足していき、味つけは塩と胡椒、酒、顆粒のコンソメ。最後にバターを落として香りをまとわせればトマトのリゾットの完成だ。
「薫」
さっきからまったく変わっていない姿勢の薫の頭上から声を落とすと、薄い瞼がゆっくりと開いた。
「できたぞ」
眠たげだった薫の目が、食卓を見て色を取り戻す。
薫はいただきますと手を合わせ、虎次郎も同じようにしてスプーンを手に取った。当初の予定の晩酌からはだいぶかけ離れてしまったが、即席で作ったにしては悪くないはずだ。
「忙しいのか、仕事」
「たまたま締切が重なって……ひとつ片づけたら急に腹が減った」
「コンビニの飯食うくらいなら言えよ。知ってるだろ、俺が料理できるって」
「……そんなの、」
「この前食わせたやつ、悪くなかったろ?」
薫はリゾットを食べ進めていた手を止めて、じとりと上目遣いで睨みつけた。
「だってお前、どこにいるかわからないじゃないか」
「は?」
「昼に来てもいないし、夜に来てもいないし」
「待て、来たのか?」
「……用事のついでに通りかかったから寄ってみただけだ。チャイムを鳴らしても出てこないから帰った」
淡々と言っているふうで、その声の中に拗ねた部分を見つけてしまって、虎次郎は頭を抱えたくなった。知らない、そんなこと。昼にいなかったのはランチのシフトで、夜にいなかったのはディナーまで働いていたからだ。あとはたまに、ちょっと遊びに行くくらいで。
「しろよ、連絡」
「そこまでするほどのことじゃない」
「俺がいるってわかるなら来るのか?」
「……行ってやらんこともない」
薫はまたリゾットを食べ始めた。言葉にして言いはしないが、するすると胃に収めているところを見ると気に入ったようだった。
それ以降、薫はたびたび虎次郎の家へ来るようになった。
『今日』
「十六時まで仕事」
『夜行く』
無駄足を避けるために、そういう、他のひとには伝わらなさそうな短いメッセージを気まぐれに送ってくる。
連絡を入れる暇もないような慌ただしい残業で遅くなった日に、さすがにもう帰っただろうと思ったら、ドアの前で缶ビールを飲んでいた薫に遅いと怒られたこともあった。
「待つくらいなら合鍵やろうか?」
軽い気持ちで提案すると薫はうげぇと顔を歪めた。
「いらん。お前の女に鉢合わせたらどうする」
「家には上げねえよ。つーか気にするとこそこなのかよ」
はじめのうちは虎次郎に作らせたいメニューがあるときに来ていたのが、特に注文もなくやってきて別に腹は減ってないと平然と言い放つこともあった。そういうときは酒を飲む。酒を飲むだけなら自分の家でもできるだろうに──とは言わずにおいた。言ったが最後、よくて喧嘩、悪ければ薫は二度とこの家のドアを通ろうとはしなくなるとわかっていたから。
そういうことが何度もあったから、夜遅くにやってきた薫が食事はいらないと言ったこと自体はどうでもよかった。だが、それなら酒を出すかというと今日はそれも不正解なのだった。
「……ひどいぞ、お前」
チャイムに呼び出されてドアを開けると薫が立っていた。百人に尋ねたら百人が「この人は酔っています」と答えそうなありさまで。
「うるさい」
薫はドアを開けた虎次郎を押しのけると草履を脱いで上がり込んだ。玄関に脱ぎ捨てられたそれを虎次郎は信じられない気持ちで見る。薫は口調や態度こそ粗雑でも、幼いころに躾けられた仕草は身に染みついていて、どんなときでも背筋は伸びているし、食事の前にはいただきますと言うし、脱いだ靴は揃えてから部屋に上がる。それが今は脱いだ草履が揃えられていないどころか片方はひっくり返ったまま放置されていた。
「薫っ」
よろよろと廊下を歩く背中を慌てて追いかける。とはいえ一人暮らしの1DKでは追いつく間もなく、薫はまっすぐに寝室に入って虎次郎のベッドへ倒れ込んだ。
「どうしたんだよ」
「飲みすぎた……」
「いやそりゃ見ればわかる。そっちじゃなくて」
「書道絡みの会合で断れなかっただけだ。くそっ、あのじじいどもに比べたら全員若手だろうが。馬鹿にしやがって」
罵倒の言葉も今日はどこか上滑りしていた。のろのろと持ち上げた手で眼鏡を外して虎次郎のほうへ向けるので、受け取ってヘッドボードに避難させてやる。
着物がはだけて白い脚が覗いている。そのまま眠ったら間違いなくしわになるが、着替える余力はなさそうだった。
「平気かよ。頭痛いとか、気持ち悪いとかは?」
「ない」
「とりあえず水飲め。持ってくるから」
「もう飲んだ」
「……じゃあ、」
あとはなんだ。ふらついた足取りで、自分の家に帰らずに虎次郎のもとへ来た理由。
「眠りたい……」
薫は目を閉じて、半分夢の中にいるような声でそう呟いた。
はぁ、と、いろいろな言葉を声にする代わりに溜息をつく。こんな状態で来られて、追い返そうとは思わない。が。
「ベッド半分空けとけよ。俺だってこれから寝るんだ」
「ゴリラは檻で寝てろ……」
「その檻に寝に来たのはどいつだよ」
横たわった肩を押すと、薫は虎次郎を睨みつけてから、億劫そうに体の位置を少しずらした。
高校のころにもこうやってベッドの半分を薫が使ったことがあった。ふたりともあのときよりだいぶ体格がよくなったから、ここで一晩過ごすのはどう考えても窮屈だ。薫だってそのくらい、わかっているはずなのに。
「カーラ、七時に起こしてくれ」
『OKマスター』
「ありがとう。おやすみ」
薫は虎次郎には決して言わないような柔らかなトーンで自分の手首に向かっておやすみを告げる。バングルは応えるように淡く発光してすぐにその光を消し、おとなしくなった。
それきりもうすっかり眠る態勢に入っていて、目を閉じて動きもしない。
その様子を見て虎次郎は、ああ、と理解した。
高校を卒業して新しい環境へ行って虎次郎とも離れて、ひとりではいたくない薫が選んだのは、新しい友人関係を築くことでも恋人を作ることでもなく、薫の言うことを絶対に聞いて片時も離れないAIをそばに置くことだったのだ。
薫は気難しい人間だが誰とも関われないほどわきまえず身勝手なわけではない。現に仕事はそつなくやっているようだし、少し調べれば書道家の桜屋敷薫のファンがいることもわかる。
だが薫はそういう相手と必要以上に深く関わろうとはしない。利益のためにうまく立ち回って、必要な笑顔を振りまいて、それだけ。
薫のそばにいられる「人間」は、虎次郎の他にいないのだ。
珍しく、少しだけ無理をした。
無理といってもデメリットというわけではない。手に負える範囲のことを、この先いつかと思っていたことの実現を可能なかぎり早めただけだ。
不動産を見て、銀行に相談に行き、役所で手続きをする。内装の業者を選定し、備品を発注し、近隣住民に挨拶して回る。
そういった煩雑な手続きや行いをひとつひとつクリアしていくのは決して楽なことではなかったが、虎次郎はとにかく早く、自分の店を手に入れたかったのだ。
「ほら」
いつも通りの虎次郎の部屋。ワインとチーズの並んだテーブルに追加されたのはアンティパストではなく、一枚の紙。
「なんだ、これは」
「店のチラシ」
「店?」
薫は置かれた紙を取り上げる。家の郵便受けに投函されているような、よくある新規店舗の開店案内のフライヤーだった。緑と白と赤がメインで使われ、パスタやピザの写真が並んでいる。温度や香りが伝わってきそうなその写真の上に文字が踊っていた。
イタリアンレストラン・Sia la luce 新規オープン。
裏返せばコースやアラカルトメニューの案内、右下には略式の地図。県道や目印とされている建物を見れば、だいたいあのあたりか、と見当をつけることができた。住所の町名もよく知っている。ここからも、薫の家からも近い。
「これ、」
「三ヶ月後にはオーナーシェフだから、俺」
「……いつの間に」
「俺だってちゃんと考えてんだよ、いろいろ」
「あの政経がさっぱりだった虎次郎が……大丈夫なのか……?」
「うるせえな! なんでそんなどうでもいいこと覚えてんだ」
「試験のたびに泣きつかれたら嫌でも覚える。……おい、ここを読み上げてみろ」
薫がフライヤーの上の店名を指差した。意図をはかりかねながらも、虎次郎はSia la luceと修行中に学んだ発音で読み上げる。
「カーラ」
『イタリア語で「光あれ」。創世記第一章三節に出典があります。la luceで「光」あるいは「輝き」「明るい」などを意味します』
「フン、気障ったらしい名前だ」
「いや直接訊けよ。機械通す必要ないだろ」
「機械じゃない、カーラだ!」
薫はいつものやり取りに律儀に怒りながらワインをあけていった。フライヤーは食事中ずっとテーブルに置かれたまま、最後に薫が四つに折って、袂に入れて持ち帰った。
虎次郎は店の開店を伝えるために見せただけのつもりだったから、その行動は意外だった。店の場所だって、改めて覚える必要もないような近所だ。開店するころにはインターネットにも店の情報が掲載されるから、場所でも電話番号でもメニューでも、カーラに訊けばすぐに答えが返ってくるだろうに。
これから構える虎次郎の店が、光のある場所になるといい。
誰もいなくなってしまったかのような真夜中でも、暗闇を照らす、どこより明るい場所であるといい。
それからの三ヶ月はあっという間に過ぎた。勤めていたレストランを退職したあとはひたすら開店準備に追われて目を回していたが、内装ができあがりテーブルセットや什器が搬入された店内を見ると、感慨深いのと同時にいよいよだと気が引き締まる。
開店の前日には朝からいくつかの祝花が届いた。贈り主は大家だったり、元同僚だったり、今後の契約をした肉や野菜の仕入れ先だったり。虎次郎はそれを店先や店内のカウンターに飾っていった。
昼すぎ、そのなかにひときわ大きく豪奢なスタンド花が届いて虎次郎は目を疑った。花そのものにというよりも、そこについてきた立て札に。
祝・御開店 Sia la luce様──桜屋敷薫。
見覚えのある筆跡だ。この三ヶ月のあいだにも顔を合わせる機会は何度もあったが、花を贈ったとは聞かされていない。いったいどんな顔でこれを書いて花を注文したというのか。
立派すぎて店内には飾れる場所がないので、虎次郎はスタンドを持ち上げて、表の店名の隣に置いた。店の看板はシックなものにしたからもはや桜屋敷薫の文字のほうが目立っている。これでは誰が主役なのかわからない。
店に近づいたり離れたりしてためつすがめつ眺めていると、背後から声がかかった。
「虎次郎」
「おう。オープンは明日だぜ」
「知っている。準備が終わらなくて駆け回ってるオーナーの様子を見に来た」
薫が虎次郎の隣に立ち、同じほうを見る。店先で一番目立っている自分の贈った花を見て満足げに頷いた。
「ありがとな。高いだろ、こういうの」
「構わん。これは投資だ」
「は」
「こうしておけばお前の客に名を売れるだろう」
「お前はそういう奴だったよ……」
「なんだ、不満か?」
機嫌のいいときの声音で、虎次郎よりは低い位置から見下すような視線をよこす。
虎次郎は、いや? と短く否定した。不満なんかあるわけがない。
「嬉しいよ」
午後の明るい日差しが店にも花にも降り注いでいる。虎次郎にも、薫にも。
店の名のように、あるいは祝福のように。
CLOSEDの札を無視して入ってくる人間なんてひとりしかいない。
カランと鳴ったドアベルの音に呼ばれてクローズ作業中の厨房から顔を出せば、薫が迷いない足取りでカウンター席へ向かってきているところだった。
「お前なあ」
これは今や、こんばんは、の代わりの挨拶のようなものだった。しおらしい回答は期待していないし、実際薫は虎次郎の小言などどこ吹く風で席に着く。
その席に虎次郎は空のワイングラスを置いた。今夜ここに注ぐのにふさわしいのは赤か、白か、ロゼか。具体的になにか食べたいものがあるのか、それともオーナーシェフの気まぐれコースか。
「せめて来る前に連絡しろよ」
「必要ない」
薫は涼しい顔でそう返した。目の前に置かれた空のグラスをじっと見てから、カウンター越しに虎次郎を見上げる。
「ここにいるとわかっているからな」
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