人工知能は幼馴染の夢を見せるか?

DK・イタリア帰国後・9話後と、薫が亡くなってからカーラと暮らす虎次郎の人生の話

 最初からずっと、大したことは望んじゃいなかった。

青い春の記憶

 原風景には互いの色がある。
 虎次郎の原風景にはピンク色、薫の原風景には緑色。

 薫は誰とでも楽しく仲良く過ごせるような子供ではなかった。だが、だからといってひとりきりで過ごす子供でもなかった。
 虎次郎がいたからだ。
 虎次郎は薫とは違って誰とでも距離を縮められるタイプだった。公園で見かけた知らない子供にも臆せず話しかけ、すぐに一緒に遊べる。
 だが虎次郎がそうだとしても薫はその知らない子供とそりが合わず不機嫌になることもあって、そういうとき、虎次郎は相手の子供にごめんなこいつちょっとめんどうなんだ、などと謝って、薫のほうへ戻るのだった。すると薫はその気遣いに腹を立て、てきとうなことを言うなと手を上げる。薫が怒ったぶんだけ虎次郎もやり返す。
 物心つく前から仲が悪かった。顔を合わせれば喧嘩をして、互いにすぐ手も足も出した。
 それでも薫も虎次郎も離れていこうとはしなかった。
「薫くんと虎次郎くんは喧嘩するほど仲がいいのね」と、ふたりを知る大人たちはみな口にする。それに対して、仲良くない! と声を揃えて反論するところまでがおきまりのやり取りなのだった。
 喧嘩することでそばにい続けたのかもしれない。幼稚園にいる他の子供たちとは、こんなコミュニケーションは取らない。会おうと思っていなくても毎日会ってしまう距離に暮らしていて、仕様もないことで言い合って、そうすることで他の誰かではない薫を、虎次郎を認識して、結局ずっと一緒にいた。
 なにがきっかけでどうしてこういう関わり方をするようになったかなんて、卵が先か鶏が先かと議論するのと同じだ。
 スケートボードに興味を持ったのも同時だった。ランドセルを背負ってぎゃあぎゃあと喧嘩しながら歩く帰り道、海の見える公園で、中学生か高校生か、とにかくそのとき小学生だった虎次郎と薫から見たらひどく大人びて見える二人組がスケートボードに乗って遊んでいるのが見えた。彼らは競い合うように高く跳んだり盛大に転んだりしながらひたすら笑い声をあげていて、その様子は楽しそう、やってみたいと感じさせるのに十分だった。
「おれもあれ、やりたい」
「おれも」
「まねするな!」
 我先にと家へ帰り母親にスケートボードを買ってくれとねだっても、親たちはもうとうに心得ていて、この子が言い出すのならあの子も同じでしょうからと声をかけ合い、連れ立って買いに行くことになる。
 そういう環境で、ずっと育ってきた。

 スケートボードに乗り始めてから、それまで近所のごく狭い範囲に閉じていた交友関係が広がった。
 住んでいる町や学校では出会わないひとに、スケートパークへ行けば出会える。離れた町で暮らしている奴、違う制服を着ている奴。
──詳しいことは聞かなくても、そもそも住んでいる世界が違う奴。
 愛抱夢は、これまで虎次郎と薫が出会ってきたどんなひととも違っていた。ひときわ大きく強い存在感を放ち、誰よりもスケートのテクニックに秀でて、その場にいるものの目を惹きつける。ミステリアスな中から育ちがいいことが滲み出ているのに、率先して悪いことをするから親しまれるのは必然だった。
 とりわけ愛抱夢に惹かれていたのは薫だ。スケートを始めてからずっと、小学生のあの日公園で見かけた二人組のように虎次郎と薫も競い合っているが、技量としては追いつけ追い越せの五角だった。パークで見かけた名前も知らない相手も含め、愛抱夢ほど卓越したスケーターには出会ったことがない。
 薫の目はいつも前を、上を向いている。自分よりも速いもの、憧れの目を向けられるものへ。
「ロングボードって重くねえ?」
「ん? ああ……」
 薄暗い川辺、薫の視線を追って愛抱夢が自分の足元を見る。夜の少ない明かりに照らされてまばゆく見える愛抱夢の白いスケートボードは、薫や虎次郎のものよりも少し長く、トリックを軽やかに決めるには不利だ。愛抱夢はその不利を感じさせない動きをするけれど。
 愛抱夢はボードのテールを踏んでノーズを上げ、デッキの背面を薫へ見せた。
「代わりにウィールは軽いものを選んでるんだ」
 四つの青いウィールは目に見えて特別小さいわけでもなく、大きさではなく素材で調整しているのだとわかる。
 薫はウィールと、それを支えるトラックをまじまじと見つめた。
「自分で換えたのか?」
「いや、作るときに初めからこうオーダーした」
「へえ……でもこれ、やろうと思えば自分でも交換できそうだな」
「薫はやめておいたほうがいいと思うよ」
 興味を制止されて薫は眉をひそめる。愛抱夢はそれを気にしたふうはなく受け止めて、くすくすと楽しげに笑った。
「軽すぎると安定性が犠牲になる。さっきみたいに踏み外すのは嫌だろう?」
 さっき。パトカーから逃げている途中で、薫が地面の凹凸にウィールをとられ転倒しかけたところを愛抱夢が支えた。愛抱夢がいなければ転倒していただろうし、そのときウィールが今よりもっと軽かったら、大きな怪我を負っていたかもしれない。
「これは僕に合うように作ったものだ。薫は薫に合うスケートを使えばいい」
「そう……そうだな。その通りだ」
 機嫌を持ち直した薫が愛用のスケートで、最近習得したトリックを披露する。虎次郎がヒュウと口笛を吹いてみせると次は愛抱夢がまた別のトリックを繰り出した。
 こんなふうに夜の街をスケートで滑って、少しだけやんちゃをして笑い合う、そういう日々がこの先も続いてゆくのだと、このときは虎次郎も薫も思っていた。

 日常はあまりにもあっけなく、霧のように手の中から消えていってしまう。
 坂道で手を離してしまって滑り落ちてゆくスケートボードに追いつけないように、必死で手を伸ばしても触れられないものがある。大きな声で伝えても、耳には届いているはずなのに、心までは届かない。そういうことが、誰のせいでもなく起きてしまうことがある。
 愛抱夢はその稀有な技術をもって多数のスケーターを傷つけ、その真意を語ることなくアメリカへ旅立ってしまった。
 お前たちは特別だと言ったのと同じ声で、まざまざと突き放してそれきり。
「あれに乗ってんのかな」
 薫は地べたに座り、背をフェンスに預けたまま、顔を真上へ向けて呟いた。
 昼休みの屋上には、弁当を食べる生徒や食べ終わって喋り続ける生徒が点在している。虎次郎と薫もその中にいた。
 薫にならって虎次郎も目線を上げる。頭上に高く広がる青空に、飛行機雲がまっすぐ一本の線を描いていた。
「……さあな」
 薫が早々に食べ終えて放置していた焼きそばパンの袋が、風に煽られて床の上をかさかさと滑っていった。虎次郎はそれを足で踏んで捕まえる。バン、とやや乱暴な音。薫が顔を戻した。
「なんでそんな興味なさそうなんだ」
 首をひねって虎次郎を見る薫の目つきはいつもに増して悪い。
「興味なくはねえけど……」
 愛抱夢が変わってしまってから、薫はずっと苛立っていた。いつまでも公園で遊んでいたいと駄々をこねる子供のように。虎次郎だけが、もう夜が来たから帰らなければいけないと知っている。けれどそれを薫に理解させるのはひどく難しいのだった。
 薫の目は、虎次郎を冷たいと非難している。
 確かに愛抱夢と過ごした時間は楽しかった。だが、楽しい時間はいつか終わるものだ。
 離れてゆこうとするひとに対してできることの少なさを、虎次郎は薫よりもよく知っている。虎次郎のほうは変わらずにいるつもりなのに、ある日突然「もう別れてほしいの」と一方的に言い置いて去ってゆく女の背中を何度も見てきた。引き止めて理由を問いただしても、必ずしも好転につながりはしない。聞かずに済んだはずの言葉を引き出してしまったこともある。
 関係が違えど状況は同じだ。虎次郎はそう思っている。
「薫がいるし」
 なんだそれ。薫は呆れ混じりに言った。
「愛抱夢とスケートしたくねえのかよ」
「……見ただろ、あの態度」
「話せばわかる。時間が足りなかっただけだ」
「話すっつったって、まず連絡つくと思うか?」
「連絡つかないならもう直接行くか」
 他校の生徒と喧嘩するときと同じくらい軽い口調だった。本気にも冗談にも聞こえて、虎次郎は後者であることを願う。薫ならやりかねないが、やったところで望みは薄い。
「バカ、アメリカのどこに行くかも聞いてねえよ」
「大学だろ。ハーバードか、コロンビアか、イェールか……」
 薫は思いつく大学名を挙げていった。自分たちには想像のつかない世界でも、愛抱夢なら本当に編入しているかもしれないと思える。
 愛抱夢がフードを被って顔を隠していたのは家柄によるものだということはわかっていた。補導されたところで薫と虎次郎は家や学校から叱責を食らって終わりでも、愛抱夢は人生に大きな影響が出るのだろうと。顔を隠していたことだけでなく、彼の泰然とした振る舞いや聡明さはそれを思い知らせるに足るものだった。
 そういう立場でありながら危険を冒してでもともに過ごしていた事実が、薫に希望を抱かせる。だが。
「……東海岸をしらみつぶしに歩いたら見つかるかもな」
 さすがになんの情報もなくアメリカへ行って会えると思えるほど薫も馬鹿ではなかった。
 ひとつ舌打ちをして黙り込む。虎次郎も短い溜息を返すだけで、沈黙の隙間、校庭を駆け回って遊んでいる生徒の声が屋上まで聞こえてきた。
 虎次郎は弁当箱に残していた焼き鮭の最後の一切れを口の中へ放り込んだ。両親が仕事で忙しくしていることもあり、たまに自分で弁当を作るようになった。今日の鮭はうまく焼けたつもりだったが端だけは塩をまぶしすぎたらしい。過剰な塩分に反応した舌から唾液がじわりと溢れてきて、魚の身ごと飲み込んだ。
「留学かぁ」

 愛抱夢を中心に集まっていたメンバーは、愛抱夢の渡米とともに散っていった。
 スケートパークで変わらず顔を合わせるものもいれば、名前も住んでいる場所も通っている学校も、あるいは学校に通っているかどうかさえ知らなかったものもいる。追いかけるほどの情もなく、虎次郎と薫はまたふたりきりに戻った。
 授業が終わって、晴れているのならパークで滑れる。
 だが雨の日はそうもいかない。天気予報は今年何度目かの台風の上陸を告げていた。
「つまんねぇの」
 窓際の一番後ろの席、薫が雨粒だらけの窓を睨んでぼやく。この雨では当然屋上にも入れず、昼食は教室で食べた。
「おい」
「ん?」
「泊めろ。今夜」
 そう言って、薫は机に肘をついて窓の外を向いたまま。だから虎次郎とは目が合わない。
 互いの部屋に行き来することも、そのまま泊まり込むこともこれまで数えきれないほどあった。だがたいていはだらだらと過ごしていたら帰るのが面倒になったときで──面倒もなにも隣の家なのにと考えることはずいぶん前にやめた──こんなふうに初めから泊まると宣言することはめったにない。
 虎次郎は薫の横顔へじっと目を向ける。窓の近くに寄せられた白い頬が冷たそうに見えた。
「……食うもんねえぞ」
 言うと薫は顔を正面へ戻した。
 今日は虎次郎の母親の帰りが遅い日だ。虎次郎のぶんの夕飯はおそらく用意されているが、薫のぶんまではない。
「じゃあお前が作れ」
「はぁ?」
「弁当作ってんなら作れるだろ」
「あのなぁ……」
 薫の横暴は今に始まったことではないが一応抗議する。口をへの字に曲げた薫は真正面から上目遣いで睨むことで虎次郎の抗議を一蹴した。
「……おばさんに泊まるって言っとけよ」
 折れた虎次郎がそう言うと、薫は、わかってる、とへの字の口を小さく開いて返した。
 放課後になっても空模様は変わらず、連れ立って帰り道を歩く。屋外を使う運動部が軒並み中止になったせいで、普段と同じ時間でも普段より道を歩く生徒が多い。みな傘をさしているからなおさらそう感じるのかもしれなかった。
「ただいまー」
「お邪魔します」
 我が家同然の家に向けて定型の挨拶をした薫に返ってくる声はない。今日の南城家は夜遅くまで他の誰も帰ってこない予定になっている。虎次郎は学校を出るタイミングで母親へ「今日薫泊まる」とメッセージを送っていて、了承の返事も来ていた。
「先に言っとくけど、そんな大層なもん作れないからな」
「別にそこまで期待してない」
「どっちなんだよお前は」
 作れと言ったり、期待はしていないと言ったり。
 キッチンへ向かう虎次郎の後ろに薫もついてくる。冷蔵庫を開けるとラップのかけられた平皿があった。豚の生姜焼き。虎次郎の夕飯だ。
「うーん……」
 冷蔵庫にごちゃごちゃと詰められている食材を睨んで虎次郎は唸った。最悪カップラーメンにお湯を注いだものでも文句は言わせないつもりでいるが、多少なりとも期待されているのならそれに応えてあっと言わせてやりたい。
 豚肉。鶏肉。卵。豆腐。トマト。ねぎ。キャベツ。レタス。じゃがいも。ひとつずつ見回しても完成形が思い浮かばない。
「豚と鶏ならどっち?」
「豚」
「豚かー……」
 虎次郎は自力でメニューを決めるのを諦めて棚からレシピの本を取り出した。辞書のように分厚い黄色い表紙の本をぺらぺらとめくりながら、豚、豚……と呟く。
「それ見れば作れんの?」
 薫が反対側から覗き込んだ。
「わかんねえ」
「なんだそれ」
「知ってるものなら、たぶん……お、」
 虎次郎はページを繰る手を止めて、常温品のストック棚を確認した。薄力粉よし。鰹節よし。青海苔がないがそこは誤差の範囲だろう。
「薫、お好み焼きでいいか?」
 ぱっと顔を上げるとすぐに視線が合った。キッチンを動き回る姿をじっと見られていたことがわかってなんとなく気恥ずかしくなる。
 薫は口を小さく動かして、お好み焼き、と復唱した。
「土曜の昼飯みたいだな」
「うるせえよ。食えるだろ?」
「食える」
「よし」
 夕飯にはまだ早い時間だが、腹が減ったと薫が言うので虎次郎はエプロンをつけた。
 キャベツを千切りに。ねぎを小口切りに。薄力粉に卵を溶いて水と醤油を加え、さっき切ったキャベツとねぎを絡める。
 薫はそれを、キッチンに一番近いダイニングの椅子に座って見ていた。虎次郎の部屋で適当に過ごして待っていてもいいのに、薫は見てるとだけ言って本当にただ黙って、料理する虎次郎を見ている。
 耳を澄ませば窓の外の雨音が聞こえるが、すぐに料理の音にかき消される。
 フライパンを温めてまず豚肉を焼き、その上にタネを丸く広げると、じゅうじゅうと食欲を刺激する音が上がった。換気扇を回してさらに賑やかになった部屋は火の前にいるせいか暑く感じる。
 もうすぐできあがることを察知した薫が立ち上がって虎次郎のそばまで来た。片面を焼いている途中のフライパンを見下ろして猫のように目を細める。
「これひっくり返すの失敗したらかっこ悪いな」
「んだと、見てろよ」
 豚肉の下に慎重にフライ返しを忍ばせて、呼吸をひとつ。勢いをつけて手首を返すと作りかけのお好み焼きはひらりと裏返ってフライパンの真ん中に落ちた。こんがりと焼き目のついた豚肉に、油がてらてらと光っている。
「よっしゃ!」
「おお……」
「どうよ」
「これが奇跡か」
「認めろよ」
「うまそう」
 薫が珍しく、十年に一度規模の珍しさで素直に褒めたことに動揺して、二枚目に焼いたお好み焼きは片面が盛大に焦げ、三枚目はひっくり返すのに失敗して丸くするはずがいびつな三角形のようになってしまった。
「やっぱり最初のが奇跡だったんじゃねえの?」
「いいんだよ。ほら」
 最初に焼いた、きれいにできたお好み焼きにソースと鰹節をかけて出してやると、薫は静かに両手を合わせた。
「いただきます」
 すらりとした指が箸を持ち上げてお好み焼きを切り分ける。髪型やピアスの数なんて所作の美しさの前では些細なことなのだと、虎次郎はいつも思っていた。
 ダイニングテーブルに向かい合って座り、薫が虎次郎の作ったものを口に入れ、咀嚼し、飲み込むさまをそっと見守る。
「……どうだ?」
「まずくはない」
「そういうときはうまいって言えよ」
 薫は答える代わりに箸を進めた。虎次郎も無意識に詰めていた息を吐くと、焦げたお好み焼きにごまかすようにソースをたっぷりとかけて食べ始める。ついでに本来の夕飯である生姜焼きも温めて、薫と分けた。
「あの変な形のはどうするんだ」
「変って言うな。明日の弁当だよ」
「俺のは?」
 なんの話だ? 虎次郎が確認する前に薫が補足した。
「弁当」
「……作れって?」
「そう言ってる」
 薫は平然と言い放ち、あ、と大きく口を開けてまたお好み焼きを食べる。その姿を見ているとどうしてか不服は喉から出る前に立ち消えてしまって、代わりに、米とお好み焼きだぞ、と翌日に来るであろうクレームへの予防線を張った。
 スケートをしない夜は時間の流れが遅いように感じる。それでもだらだらと過ごしていると眠気はゆるゆるとやってきて、薫は布団を敷こうとする虎次郎を引き止めると虎次郎のベッドに潜り込んだ。
「……狭くねえ?」
「お前がもっと端に寄ればいい」
 虎次郎のベッドの中で虎次郎のスウェットを着た薫の足が虎次郎を蹴りつけて壁際へ追いやろうとする。痛くはないが理不尽だ。
 テレビも電気も消してしまうと、雨の音がまた意識に触れ始める。しとしとと撫でるような音に耳を傾けていると次第に瞼が下りて、虎次郎はそのまま眠りの底へ沈んでいった。
 それから何時間経ったのか、あるいは数十分しか経っていないのか。ふと目が覚めると視界に薫の背中があった。そうだ、泊まってるんだっけとゆうべのことを思い出しながら、虎次郎は体を起こす。薫を起こしてしまわないようゆっくりと。
 虎次郎が眠っていた壁側から、薫の体をまたいでベッドを下りて、そろりと床に足をつける。
「……どこ行くんだ」
 いつもに比べると覇気のない声が背中に投げかけられて虎次郎は振り返った。暗闇の中で薫は横たわったまま、金の目が虎次郎を見上げている。眠たげではあるが意識ははっきりとしているようだった。
「トイレだよ」
「……」
 無言の中に圧力がある。トイレへ行って戻ると薫はまだ目を開けていて、虎次郎が部屋のドアを閉めてベッドまで歩いて来る様子を見つめていた。
──そんなに必死に見ていなくたって、心配しなくたっていいのに。
 薫はなにも言わないけれど、虎次郎は知っていた。急に泊まると言い出したのも、買って済ませてもよかったはずの夕飯を虎次郎に作らせたのも、今じっと視線を向けているのも、全部薫なりの不安と甘えの現れなのだった。
 他の人間が同じようにされたら気づかないか一方的な振る舞いに怒るかするのだろうが、虎次郎は知っているからそうはしない。愛抱夢がいなくなって不安定になった心の拠り所を確かめようとしているのだ。
 昔からそうだった。幼稚園の近くで毎日見かけていた野良猫がある日を境に姿を見せなくなったときも、薫はちょうど今みたいに、何度も視線を投げかけては虎次郎がそこにいることを確認していた。薫の死角になる場所にいたら息急き切って飛んできたこともある。こじろう! と半ば叫びながらやってきて、そのくせ虎次郎の姿を認めると、なんでもないと言って背中を向ける。けれどそのあと元の場所へは戻らずに目の届く位置にいて、ちらりちらりと視線をよこすのだった。
 ベッドを出たときと同じように、薫の体を乗り越えて元の壁際に潜り込む。薫は背中を向けたままで、まだ目を開けているのか、もう閉じたのかもわからない。
 サイズの合わない虎次郎のスウェットを着ているせいで輪郭のあやふやなその肩を無性に抱き寄せてみたくなって、触れたときの骨ばった形やかたさや体温を想像し、でも結局確かめないまま、また眠りに落ちてゆく。薫もはやく眠れるといい、そう思いながら。
 次の日も雨の中を学校へ行き、帰り、薫は自分の家ではなく虎次郎の後ろについて門をくぐった。
「おい」
 薫は答えない。俯いているせいで、虎次郎からは表情もよく見えなかった。雨音だけがざあざあとひっきりなしに叫び続けている。
「……今日も泊まりか?」
 無言のまま薫はそろりと顔を上げた。睨もうとしてうまく睨めていないような曖昧な目が虎次郎を見て、それから眉間にきゅっとしわが寄った。
 薫にこんな顔をされて拒絶できた試しがないし、そうする理由もない。
「早く入れ。風邪ひくぞ」
 薫はやはり無言でついてきた。
「今日もなら先に言えよな。朝言っとけばおふくろが薫のぶんも飯作ったのに」
「お前が作れるからいい」
 しれっと言い放たれて虎次郎は大袈裟な溜息をついてみせた。今更そんなことをしたところで薫の態度は変わらないのはわかっている。ただポーズとして一応示しておきたかっただけだ。
 洗面所で手を洗い、虎次郎の部屋に鞄を置き、キッチンへ。昨日と同じルートを辿る。
 お好み焼きと米を詰めて持っていった弁当箱ふたつをシンクへ置きながら虎次郎が訊いた。
「なんか食いたいもんある?」
「……パスタ」
「パスタぁ? えー、なんかソースあったかな……」
「クリームっぽいやつがいい」
 薫のオーダーを聞き流しながらキッチンのストックをあさる。インスタントのコーンスープや缶詰と同じ棚にパスタソースのパッケージが見えた。
「ミートソースならレトルトのあるけど」
「カルボナーラ」
「話聞けよ」
「作れねえの?」
 あからさまに挑発するような物言いに、虎次郎は見てろよと言って昨日のレシピ本をまた開いた。乗せられているとわかっていても引き下がるのは癪に障る。
 レシピと冷蔵庫の中を交互に見て、材料としては作れそうだと確認する。生のにんにくがないがチューブで代用しても大失敗にはならないだろう。ベーコンも粉チーズも生クリームもあるし、今まで気にしたことがなかったがよく見ると醤油やみりんなどの調味料に紛れて料理用白ワインもあった。
 大きな鍋でパスタを茹でつつ、隣でフライパンを熱してチューブのにんにくとベーコンを炒める。すぐに香りが立って換気扇を回すと、キッチンは昨日と同じ賑やかさに包まれた。ワインと生クリームを足して煮詰めているうちにタイマーがパスタの茹で上がりを告げる。
 そうやって虎次郎がばたばたと動き回るのを、薫は昨日と変わらずダイニングの椅子に座って見ていた。眺めて楽しいものだろうかと疑問に思わないでもなかったが、ゆうべのこともあるから触れずに放っておく。
 パスタをソースに和え、白い皿に山のように盛りつけて黒胡椒をかける視界の端で、薫がそわそわと待ち構えているのが見えてちいさく笑った。
 気分が乗ってきて、昨日はやらなかったがランチョンマットを出した。紺色の布の上に銀色のフォークとスプーンを並べ、仕上げにカルボナーラの乗った白い皿を薫の目の前へ。見た目がだいぶそれらしくなって、虎次郎は上機嫌にうんうんと頷いた。
 薫はいただきますと手を合わせ、フォークにくるくるとパスタを巻きつける。それが赤い口の中に招かれるのを、カルボナーラを噛み砕いて飲み込んで喉が鳴るのを、虎次郎は正面からじっと観察した。口の端に少しソースがついているのは面白いから黙っておく。
「どうだ」
「まずくはない」
 即答してすぐにまたフォークをくるくると回す。薫の食べっぷりが昨日よりも明らかにいいので、虎次郎はそれを「すごくうまい」に勝手に変換して受け取った。
「俺、料理人になろうかな」
「はぁ? なんだ突然」
「結構向いてると思うんだよな。料理すんの嫌いじゃないし」
「安直だな……」
「市内に調理師の専門あるしさ。資格取って経験積んで、いつか自分の店を持てたらかっこいいだろ」
「経営するなら金の計算ができないと無理だぞ」
 薫は呆れた目を向けるが、向いていないからやめておけとは言わない。虎次郎にはそれで十分だった。
 昔から書道を習っている薫の字はとても綺麗だ。小学校の校内にずらりと貼り出された書き初めの、桜やしきかおる、という字の上に金色のリボンを貼られていたのを格好よく感じて、おれも習おうかな、と言ったときは金の無駄だからやめておけと一蹴された。そのあと頼み込んで教えてもらってもやはり不向きを感じて投げ出してしまったから、薫の言ったことは正しかったのだ。
 だから、薫が向いていないと言わないのなら、きっと向いている。
「薫は?」
 いつの間にかカルボナーラを半分以上胃に収めた薫が、水を向けられて顔を上げた。
「薫は卒業したらどうすんの」
「進学」
 すぐに答えが返ってきて虎次郎は続ける言葉に詰まった。
 知らなかった。今まで進路の話をしたことがなかったから知らないのは当然だが、進路の内容ではなく、薫が迷いなく答えるほど既に考えて決めていたことを知らなかった。
「へー……県内?」
「さあ……まだそこまでは。理工系で考えてる」
「そっか。薫頭いいもんな」
「お前よりはな」
 薫はカルボナーラの残りをフォークに全部まとめて巻きつけると、口を大きく開けてぱくりと食べた。食事の終わりが会話の終わりのような気がして、虎次郎はそれ以上進路の話をするのはやめた。
 そのあと薫はさらに二日続けて泊まり込み、虎次郎はそれぞれシチューと麻婆豆腐を作った。
 台風は通り過ぎて雨はやんだが風の強い夜。部屋の窓はしきりにがたがたと音を立てている。台風の多い土地でいくら慣れたものとはいえ耳に障るのはどうしようもなく、虎次郎はザッピングしていたテレビのボリュームを上げた。
 その隣で床に座って雑誌を読んでいた薫が、ぴろんと鳴ったスマートフォンに目を落とし、あ、と小さく声を漏らす。
「明日バイト入った」
 薫がやっているのは筆耕のアルバイトだ。賞状や招待状の文字を書くという仕事は常に一定の作業量があるわけではなく、人手が必要になったときだけ呼ばれるという不定期のゆるい働き方をしていた。
 薫は画面を何度かタップして了承のメッセージを返信し、スマートフォンを床に戻す。
「それ終わったら、家に帰る」
「……そうか」
 虎次郎はそのたった三文字を喉に引っかからせながら声に出して、そうして、薫を引き止めたくなっている自分に気づいた。
 薫が勝手に何日も泊まり込んでいるだけで、虎次郎は料理まで求められて、ベッドを半分占領されて、それでもそれは嫌なことではまったくなかった。不器用に寄りかかられることには不快感どころか心地好さすらあるのだと、薫が帰ると言ってから急に思い知る。
 明日になったら薫はアルバイトへ行って、筆耕所にいる虎次郎の知らないひとたちとなんでもない顔をして過ごすのだろう。友達だったはずの男が離れていってしまったことも、雨の夜をうまく眠れずに過ごしたこともしまい込んで、前と変わらず仕事をして、自分の部屋に帰るのだ。
「……もう寝る」
 虎次郎がテレビを消すと、部屋には風の音だけが残った。
「早くねえ?」
「電気消すぞ」
「……わかったよ」
 ふたりとも目的があって起きていたわけではないから、薫もそれ以上は言わなかった。テレビも電気も消した暗い部屋、ベッドの壁際に虎次郎が、その隣に薫が横になる。おやすみと言ったのは同時だった。
 風はまだ窓を激しく叩いている。

 幼稚園のときからずっと毎日のように顔を合わせていたのが高校卒業と進学を機に頻度が減って、けれどそれもじきに慣れた。
 どちらも同じ市内ではあるが、虎次郎は専門学校へ、薫は大学の工学部へ。新しい環境に慣れることと学ぶものの多さに追われているうちに、季節はつぎつぎに巡ってゆく。
 そんな中でもスケートはやめなかった。講義のあとに、レポート締切前の息抜きに、評判のレストランの実食のついでに、アルバイトの前に、早く目が覚めてしまった朝に、眠れない夜に、いつもかたわらにスケートがあった。歩くよりも速く、バイクよりはゆったりと。風を切れば余計なことは頭の中から出ていって、抱えたものをいったんリセットできる。
 虎次郎がひとりでスケートパークへ行ったのに、滑っていたら薫が現れることも、あるいは逆のパターンでも、結局競い合いになることは何度もあった。あらかじめ声をかけることもたまにはあった。たいていは虎次郎が覚えた料理を食ってくれと持ちかけたときで、高校のころのように虎次郎の家のダイニングでふたり向かい合い、なんでもない話をしながらできたての料理を食べ、それからスケートを持って外に出た。
 会う回数が減ったくらいで関係は変わらない。虎次郎は薫を見るたびそう再認する。
 薫の話す大学の講義の話はもはや虎次郎にはさっぱり理解できないし、あのころに比べたら虎次郎の料理のレパートリーは格段に増えた。そうやって変わってゆく部分があっても根っこはずっと変わらない。薫は愛抱夢のことをほとんど口にしなくなっていて、高校のころよりもっと前に戻ったようですらあった。
 そうしているうちに二年近くが過ぎた。大学に四年間通う薫と違い、虎次郎はもうすぐ専門学校を修了する。卒業制作で振る舞うフルコースの試食に呼び出せば、薫は二つ返事でやって来た。青白い顔で。
「……なんか疲れてんな?」
「後期のレポートが……」
「あ、忙しい時期か? 今」
「昨日全部終わったから、ちょうどよかった。腹減った」
「どうせまたカップ麺とエナドリだったんだろ」
「うるさい」
 放っておくと平気で偏った食生活をするところは心配だが、そういう状況だったならなおさら食べさせがいがあるというものだ。虎次郎は用意していた料理を盛りつけつつ、下ごしらえしていたものの仕上げにも手をつけ始めた。
 冷製オードブルの盛り合わせ、枝豆をミキサーにかけた色鮮やかなポタージュ、メインはもちろん魚も肉も用意して、デザートはレモンのソルベにベランダで育てたミントをのせた。
 薫はつぎつぎ供される料理をぺろりと平らげながら、これは温度が冷えてるとか味が薄いとかの小言を挟む。虎次郎はそれを素直に受け取ってレシピのメモに書きつけていった。客観的な指摘も薫の個人的な味の好みも、虎次郎にとっては重要度にそう差はない。
「あのさ」
「なんだ」
 賑やかだったテーブルの上も綺麗に片づけて、今は二客のコーヒーカップとソーサーだけが並んでいる。
 向き合って座るふたりの間にコーヒーの香りがふわりと漂う。虎次郎が地元の喫茶店で選んで買ってきて、さっきミルで挽いたばかりの豆は、苦味と酸味がバランスよく共存している、薫の好みの味だった。
「俺ほんとに料理すんの楽しくてさ。料理だけじゃなくて、飾りつけてもてなすのとかも」
 知っている。薫は声に出さずに頷いた。虎次郎が料理をするのが好きで、上手くて、向いていることを、この世の誰よりも薫が一番よく知っている。わざわざ確認したことはないが、虎次郎の家族よりも薫のほうがずっと多く手料理を食べているはずだ。
「もっと上手くなりたいんだ。だから」
 虎次郎は持っていたコーヒーカップをソーサーに置いた。
「専門出たら留学しようと思って」
「……留学」
「そういうのがあるんだよ。海外のレストランで修行できるインターンシップ。いいなと思って申し込んだんだ。バイト代結構貯めたんだぜ」
「…………へえ」
 薫はコーヒーを飲んだばかりなのにからからに渇いた喉からなんとか相槌をひねり出した。たった二文字だったから、声がかすかに上ずったことに虎次郎は気づかない。むしろ伝えて満足したとばかりに垂れ目の目元を和らげている。
「どこ」
「ん?」
「どこに行くんだ」
「イタリア」
 虎次郎はぽんと投げかけるような軽さで答えた。今日の試食はプルコギとチヂミだから、と言ったときと変わらなかった。
 イタリア。薫は声に出さずに復唱する。
「お前、海外なんか行ったことないくせに、いきなり、」
「住むところと仕事先があればなんとかなるだろ」
「言葉だって」
「行けば嫌でも覚えるって」
「……なんでイタリアなんだ」
「なんでって……」
 虎次郎が専門学校で学んでいるのはイタリアンだけではない。和食もフレンチも、沖縄料理も、スイーツだって。幅広く知識を得て作ってきたことを、ずっと試食に付き合っているから薫も知っている。
 だからどこだっていいはずなのだ。フランスでも、中国でも、インドでも。けれど虎次郎はイタリアへ行くと、もう申し込んだのだと言った。
 なかば睨みつけている薫の目を虎次郎はあっさりと受け取った。
「だってお前、イタリアンが一番好きだろ」
「はぁ?」
「別に他のとこでもいいけどよ、作るなら食ってくれる奴がいるほうがいいだろ」
 そう言ってまたカップを持ち上げコーヒーを啜る。
「なん……なに……」
 そんなに簡単に人生のことを決めていいのか。薫は今度こそ言葉を失った。
 虎次郎の料理を誰よりもたくさん食べてきた自負はある。でもそれはたまたま幼馴染で、家が隣で、腐れ縁が続いているだけだ。虎次郎は勉強のために料理をしていて、薫はそれを食べることがやぶさかではないから、利害が一致しただけだ。
 渡されたものを受け取っただけ。決して未来の選択に介入しようとしたわけではない。
「……いつから?」
「来月」
「来月!? いつまで……」
「とりあえず二年で手続きしてるけど、希望すれば延長できるらしい」
「二年……」
 二年間か、あるいはそれ以上か。虎次郎が言っているのはそういうことだ。
 ぴったり二年ならちょうど薫が大学を卒業するころまで。延長するならその先まで。気軽にスケートで滑ることも食卓を囲むこともできない遠い国へ。
「……フライトが決まったら教えろ」
「お。見送りに来てくれんの?」
「墜ちたら今生の別れになるからな」
「縁起でもないこと言うなよ!」
 虎次郎は冗談めかして返したが、薫は冗談のつもりはなかった。
 ひとはあっけなく離れていくし、そのあと再会できる保証なんてない。愛抱夢の渡米で思い知らされたそのことは、ただ事実として薫の中に鉛のようにずっと沈んでいるのだった。

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