付き合ってないけど体の関係はある。体力の低下を感じるお年頃
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いつだって無言の中に合図がある。
やり取りはごくいつもどおりでも、たとえば胃は満足しているのに追加のワインを出させること。置きっぱなしにされている充電ケーブルをどこかへやってしまったとうそぶくこと。
あるいはただ、視線が合うだけでも。
つまり、そういう雰囲気であった。
そういう雰囲気だと感じたし、相手もそう感じているのがわかった。
だからこのままワイングラスを適当に片づけてとっくにクローズ済みの店を閉じ、徒歩三分の虎次郎の家へ行くことを薫は拒否しないだろう、いや多少の小競り合いはあるかもしれないが、それでも徒歩八分の薫の家へ帰るよりは近いというのは、もはやなんの言い訳にもならない言い訳としてふたりのあいだで使い古したまま、いまだに捨てられないぬいぐるみのように使っているのだし。
──と、カウンター越しにしばらく見つめ合ったあと、それを切ったのは虎次郎のほうだった。眉根を寄せ、癖のある緑の髪を太い指でがしがしと混ぜる。
「……あー……」
「なんだ」
「やりたい気持ちはあるんだが、明日は市場へ買いつけに行かねえと」
市場の朝は早い。まだ日の登りきらないうちから賑わい始めて、乗り遅れればいい食材は他の店に取られてしまう。うっかり寝過ごして当たりの食材を逃すなんて、店を二十年続けてきた料理人のプライドが許さなかった。
「奇遇だな。俺も朝イチで来客がある」
優秀な秘書を兼ねるカーラはバージョンアップを重ねるごとに薫への寄り添い方を身につけて、今夜は店へ着く直前に明日のスケジュールを伝えてきた。あらかじめ釘を刺しておいたほうが翌朝のモーニングコールがスムーズに通ることを学習しているのだった。
細く息を吐きながら眼鏡の奥で瞼をきゅっと閉じる。いくら日焼けに気をつけていても年齢を止められるはずはなく、薫の表情に合わせて目元の皺が歪むのを虎次郎はじっと見た。それが眠いときの仕草だと、中学のころから知っている。
「泊まってけば」
「……なにもしないぞ」
「わかってるよ、今その話したとこだろ」
「そうか、てっきりもうボケたのかと」
「口の減らねえ狸め」
薫が手遊びに使っていたグラスはとうに空だった。虎次郎はそれを取り上げ自分の使っていたグラスとふたつまとめて指に絡めキッチンへ向かう。薫はホールの明かりを落とすと、グラスを洗う虎次郎のうしろを通って裏口へ向かった。
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